いつか太陽に落ちてゆく日々 41




 兼続が出ていくのを見送ると、幸村は一つため息をついた。
 兼続に言われたことが忘れられない。
―――きっと三成は、そういう言葉を望んでいると思う。
 兼続の言葉を信用していないわけではなかったが、どうしてもそれを信じることが出来ない。
―――…信じたいのだ。幸村。
 あの時。
 直接肌に触れられた時、確かに三成はそう言った。それは、信じたいけれども信じられないと、そう言われて。
 あの行為の意味はなんだったのかとか、たとえばもしも本当に、三成が幸村を組み敷いて、その肌を曝して、そういうことを望むような感情があったのだとしても。
 必要以上に、あの行為について考えてしまう己に、幸村は深いため息をついた。顔が火照っているのがわかる。こういうことには慣れない。どうしても。
「幸村」
 そう思っている時だった。唐突に声をかけられて、びくりと肩を震わす。そこにいたのは、曹丕だった。
「…曹丕殿」
 まだ自分の頬が火照っているのが気になって、幸村は多少俯きがちになる。
「ど、どうされました?甄姫殿は…」
 曹丕は、慶次の攻撃にさらされて、今はまだ眠っているはずの甄姫についているはずだった。
 今ここにいるということは、甄姫が目を醒ましたということだろうか。
「甄の様子がおかしい」
「…え?」
「ついてこい」
「は、はい」
 問答無用といった様子で、曹丕はそれだけ言うと踵を返した。慌ててその後をついていく。
「あの、甄姫殿の様子がおかしいとはどのような」
 今までの場合、あの力に吹き飛ばされた人々は、高い確率で意識を飛ばす。また、飛ばさずとも白昼夢を見る。それは、自分の知らない自分が関わっている光景であることが多い。
 だが、そういった事とは違うのか。
 しかし問いに答えはかえってこない。
 曹丕はどんどん先を歩いていく。その歩みは意外にも早い。甄姫に関わることだろうと思ったから、幸村は必死にそれについていった。
 そして、部屋にたどり着いた瞬間だった。
「甄姫殿!」
 甄姫が寝台の上で、遠目からもわかるほどに震えている。一体何があったのか、と歩み寄ろうとした瞬間だった。
「…我が君をどこへやったのです…!」
 悲痛な声。
 意味がわからず、幸村は曹丕を振り返り―――はっとする。
「妲己…っ!?」
 そこにいたのは、曹丕ではなく妲己だった。では曹丕本人はどこへいったのか。それがわからぬまま、幸村は咄嗟に寝台の甄姫を庇うように立つ。
「…曹丕殿を、どこへやった」
「ふふ、どこだろう?」
 相変わらずの口調。いつでも真剣味に欠けるそれに、幸村はきつい眼差しで彼女を睨む。
「ふざけるな」
「ちょっとつきあってもらってるだけよ。嫌だなぁ」
「…何?」
 にやりと笑う妲己は、酷く満足気に言い放つ。
「曹丕さんには、いろいろお世話になったし…特別に、死出の旅に、ね」
「…っ!!」
 甄姫が背後で息を呑むのがわかった。
 それはもちろん、幸村もだ。死出の旅とはどういう意味だ。曹丕は、甄姫の元についていたはず。なのに、一体どうして、どうやって。
「貴様…!」
「ふふ。幸村さんもそういう顔するのね。ねぇ、あなたがかわりに来てくれてもいいのよ」
「―――何?」
 唐突な言葉に、幸村は双眸を眇めた。妲己は、まるで試すように続ける。
「曹丕さんのかわりに、あなたが行くなら、連れ戻してあげる」
「…どういう意味だ」
「そのままよ。あなたになら、出来るでしょう?」
「…なに、を」
「だってあなた、知りもしない人を助けるために一生懸命だったじゃない。どうしても信じられないのよね〜そういうのって」
 劉備のことだ。
 咄嗟に思い出す。あれは古志城でのことだ。妲己に言われたことだった。どうしてそんなに必死なのか、と。
「……妲己、貴様にはわからない、と…」
「うん、わからない。だから、教えてよ。それって、特別とそうでないのとかがあるのかなって。そうじゃないと、三成さんも可哀想よ。その気にさせられちゃって」
「な…っ」
 何故そこで三成の名が出るのか。幸村は明らかに動揺してしまった自分に内心で後悔した。そんなことは、甄姫にも、そして妲己にも伝わらないだろうに。
「ねぇ?どうするの。曹丕さん、助けてあげる?そのかわり、あなたがいってくれる?」
 妲己の笑顔に、幸村はふと眉を顰めた。いつものように、楽しそうな妲己の言葉。どことなく無邪気な子供を装ったような、その言葉の数々。
 だというのに、どことなく寂しげに見えて―――妙な感じがする。
 幸村は、しばし黙った。どれほど経ったか。それとも一瞬だったか。
「わかった」
「―――…」
 幸村は頷いた。振り向くと、甄姫に笑いかける。
「甄姫殿。必ず曹丕殿は助けます。…あと、これを」
 そう言って差し出したのは、幸村が戦の時につけている鉢巻だった。
 六文銭の、しるしの入った。武田の頃から使い続けているもの。
「…三成殿に渡していただけますか」
「…っ、ま、まっ…て!」
 甄姫が慌てて身を乗り出す。
「大丈夫です。甄姫殿」
 安心させるように、笑いかけても甄姫の表情は変わらない。当然なのだけれども、この時の幸村にはやはりこの人を笑わせられるのは曹丕だけだ、と強く思うばかりだった。
 ―――だから、助けなければ、と。
「行くって決めたなら、早くしましょ。邪魔が入らないうちに」
「…わかった」
「ふふ、でも潔いのね幸村さん。自分から死にに行くなんて」
 妲己が手を差し出す。その掌に、己のそれを重ねて。
 幸村は、真っ直ぐ前を見据えたまま、神隠しに遭ったかのように、その姿が妲己もろとも消えた。
 残ったのは、甄姫一人。
 手にした幸村の鉢巻が、まるで形見の品のように見えて、ぞっとした。




 趙雲が小田原城につくと、唐突に悲鳴のような声に呼ばれた。
「し、甄姫殿?」
 酷く取り乱した甄姫が、走りよってくる。ほとんど飛びこんできた甄姫を抱きとめて、その異常な慌てぶりに趙雲が問う。
「ど、どうされた」
 甄姫の手には、よく見たものが握られている。
「…これ、を…渡さないと」
「…幸村殿の…ですね」
 そうだ。額の六文銭。幸村の鉢巻だった。甄姫の顔色は悪い。
 これを、何故甄姫がもっているのか。そしてこの慌てようが、酷く嫌な予感がして。
「何事だ」
 甄姫の悲鳴を聞いて、本来最初に来るべき人は来ず―――三成が、顔を出す。
 趙雲の顔を見て、一瞬驚いた様子だった。それは趙雲も同じだ。慶次もそうだったが、三成の片目が赤い。最早見慣れてきたとはいえ、はじめて目にすればそれはそれで驚くものだ。
「…一体、どうした。曹丕は…」
 気を取り直した三成が周囲を見渡す。甄姫がここにいるなら何故曹丕がいないのだ、というように。それはもちろん、趙雲も同じ思いだ。いつ曹丕が現れて、睨まれるか知れたものではない。すると、甄姫がぐい、と三成に幸村の鉢巻を押し付けた。
「…っ、なんだ。…幸村のものではないか」
 しかし、幸村もここにはいない。
 だが三成に押し付けられたそれは、間違いようもなく幸村のものだ。幸村が、初陣の頃からつけているという、六文銭の。
 唐突に趙雲も三成も、同調したように嫌な予感に包まれた。
「あなたに渡してくれ、と幸村殿が…っ」
「…ど、どういう意味だ」
 手のうちにある鉢巻。それを渡してくれと託されるような、どんな状況があったというのか。
「幸村はどうした。曹丕もだ。どこへいった」
「…っ、我が君…っ我が君を助ける為に…!」
「…助ける為に、なんだ!」
 思わずといった様子で、甄姫の肩を強く掴み脅すように声を荒げる三成に、趙雲は慌てた。ただでさえ甄姫は錯乱している。そんな人に無理やり聞きだそうとしてもまともに答えられるはずがない。三成をどうにかおさえた。
「落ち着いてください!三成殿も、甄姫殿もです。甄姫殿、落ち着いて。わかるように、話していただきたい」
 しかし甄姫はそう簡単に落ち着ける状況ではなかった。小刻みに震えているのが、伝わってくる。
「…わからない…のです…。嫌な夢を見て…目を醒ましたら…、我が君が…我が君が妲己とどこかへ…っ」
「どこかへ?」
「妲己だと」
 それぞれが別のところで反応した。遠呂智と共に倒したはずの妲己。彼女が死んでいないことは、三成だけが知ることだったが―――あれ以来、すっかり姿を潜めていて存在を忘れかけていた。
「…何度お呼びしても、聞こえないような素振りで…。消えてしまわれて」
「……」
 操られでもしていたというのだろうか。
「そのうち、今度は我が君に化けた妲己が幸村殿を連れてきたのです」
「…幸村を」
「我が君のかわりに、…死出の旅に出れば、我が君を助けると言われて…幸村殿は」
「…かわりになると言ったのか!?」
「…その時に、それを三成殿に渡してほしいと…っ」
「幸村…!!」
 死出の旅?どうして曹丕が?そしてどうして幸村がかわりになればなどと。妲己の考えが全く読めない。それは三成も同じのようだった。幸村の鉢巻を強く握り締めている。
 妲己の目的はなんだ。
 何故曹丕を狙った?そして何故幸村に、身代わりになれば、などと言い出したのか。
 わからない。わからないまま、その場で三人は三人とも途方に暮れるしかなかった。





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