戻らないのは何故だ、と問う声がある。 「遠呂智を倒せていないのでは…」 そう言ったのは兼続だった。彼はこの世界の歪みにあって、謙信のそばにいることが出来たことを幸運だったと思っている。 ただ、友は違った。少なくとも三成は魏にいることはわかっている。 今となってはそれが遠呂智に降ったふりをしていただけのことだとわかっているが、それでも義を誓った友が戦う意志を固めているのを見て内心粟立つような感覚を覚えたものだった。 それは慶次相手にも同じこと。よりにもよって、というべきか、もしくは酷く彼らしいと言うべきか。彼は遠呂智に従っていた。彼の言葉を聞く限りでは従ったというのではなく、友としているのだという話だったけれども。 「はたしてそれで終わりかね」 彼の言葉に答えたのは甲斐の虎、武田信玄だった。 「遠呂智が現れ世界が歪み、ありえぬはずの邂逅が成った。だとしたら彼の存在に世界が左右されると思うのは至極当然。…少なくとも私はそう思っておりました」 「国一つがすぐには出来ぬように、世界だとて同じことじゃあないかね」 「そして国がすぐにはなくならないように、ですか」 「左様。ふっふっふ、おぬしは賢いのう」 「信玄公にそのように言っていただけるとは!ありがたき幸せ」 「しかし、おぬしの推測もわしの推測も、全ては推測であってそれ以上ではないんじゃよ」 謙信の言葉を信じているのと同じように、兼続にとっては信玄の言葉もまた正しく聞こえる。謙信が唯一認めている相手であるからかもしれない。 「…は」 「遠呂智が倒れ、いなくなった今。どの軍も疲弊しておる。誰も彼もがすぐには動けん。なら、どうするね?」 「…なるほど、ならば私は各軍の情報を集めてまわりたいと考えます」 「うむ、それもまた必要なことじゃな」 「信玄公、ありがとうございます」 「なんのなんの」 迷っていたのかもしれない。 兼続は自分自身はこの世界にあって、恵まれていると思っている。 しかし元の世界で義の世をつくろうと誓い合った二人は近くにはいない。 上杉に仕官までしてついてきてくれた慶次もいない。 道には迷わない。進むべき道には謙信がいる。彼がその道を作る。この世界であっても、だ。 ならば幸村は。三成は。そして慶次は。 あの世界で失ったものがこの手に戻り、得たものが消えた。 どちらを得るべきなのか、この世界を甘んじて受け入れ、手に入れた友情まで失っていいのか。 わからないでいる。 (わからないなら、確かめなければ) たとえば、そう。 慶次の行方をたどるだけでも、いい。 三成と曹丕が戻ってきたと聞いて、最初に彼らを出迎えたのは甄姫だった。 「我が君」 甄姫の曹丕に向ける笑顔は常に極上のものだ。曹丕はといえば、相変わらず眉間に皺が寄りっぱなしではあったが、そんなことなど互いにどうでもいいようだ。むしろこの眉間の皺がなくなったら曹丕かどうかわからないかもしれない、と三成はそう思う。 「甄よ、おまえのものだ」 淡々とした口調で曹丕が手渡したのは当然あの白い花弁の眩しい花束だった。一瞬驚いたような顔をした甄姫だったが、すぐに嬉しそうに笑う。枯らしてはならないとすぐに花瓶に活けるのだと言って甄姫が二人の前を辞した。 その間、ほぼ一度たりとも三成に視線をくれないその徹底ぶりが、いっそ清清しい。こうまで気にされないと、それはそれで楽だ。 「三成、おまえはどうする」 「…俺のことは放っておいてくれ」 あの時とっさに一本だけ手折ってきたが、それを幸村に渡してどうするというのか。甄姫は女で幸村は男だ。花がどうとかいう世界と無縁な中で生きている奴だ。 「わざわざこうしてきっかけを作ってやっているのだ。踊ってもらわねば困る」 「誰が貴様の手のひらの上で踊るものか」 ふと曹丕の視線の先に、先程の花が一本だけ落ちているのが見えた。 おそらく慌てて走っていった甄姫の腕の中からこぼれ落ちたのだろう。せっかく綺麗に飾られるはずだったものがそうやって廊下に落ちているのもまた寂しい。 曹丕はそれを手にとって、振り返った。 「ならば私も適当な奴に渡してみせよう」 「な、なに!?」 「ふ…、三成よ。表情豊かなことだな」 言われて三成は、ぐ、と押し黙った。続く言葉はわかっている。 「あの二人が来てからだが、気のせいか」 「…気のせいだ!」 さして表情は変わらないが、曹丕が面白がっていることは空気で伝わってくる。ましてや眉間の皺があった上でそんな態度をとられては、相手側の人間は誰しも頭に血がのぼるだろう。 とはいえ。 それは三成も同じことだった。曹丕ほどはっきり目立った眉間の皺があるわけではない。むしろ人形じみた綺麗な顔がいけない、と左近などはよく言っていた。殿の顔は他人を不安にさせますよ、とか。 何の気なしに言ってみた言葉が、三成が言うことで他人の自尊心を傷つけることもあった。 生まれもった顔のことなど知ったことかと常日頃からそう思っていたが、曹丕を見ているとつくづくそれに気付かされる。 この眉間の皺で、人を見下しているようにも見える冷たい視線で、あまり多くを語ろうとしない曹丕。 遠呂智と同盟を組んだ時、彼を本当に信頼していた人間がどれだけいたことか。 「三成よ。おまえは案外自信がないのだな」 「………」 後悔が多そうだとか、自信がないだとか。 言われ放題だったが言い返せない。言い返せないだけの要素は十分すぎるほどあるのだから。 「どうする」 「放っておいてくれと言ったはずだが?」 その時だった。 「趙雲殿!」 幸村の声だ。呼ばれたのは趙雲で、幸村のそばには夏侯淵がいる。どうやら城の中を案内されていた幸村に、趙雲が合流した、というところか。 あの場所からだとこちらが死角になるのか、三人は曹丕と三成が離れた場所にいることに気付いていないようだ。 「幸村殿。やはり私も少し外の空気を…」 「ははぁ、惇兄の殺気にやられちまった口か?」 「そ、そのようなことは」 ひきつった笑みを浮かべる趙雲に幸村が何かを察したものか問いかける。心配している声音だった。 「何かあったのですか」 「そりゃあなぁ、蜀の五虎大将がここで一人になったら、」 「何か危ないことでも!?」 「ああ、いや。勿体無いくらいのもてなしを受けている」 「惇兄は殿が覇道を拓くって信じてっからよ!気合が違うよな!」 「ははは…」 含みを持たせた言葉に夏侯淵は率直に笑った。 覇道を拓くと言って憚らず、劉備と真っ向からぶつかりあっている相手との対面は、趙雲にとってはずいぶん神経を使うものだった。 考えてみればさほど深くは考えずに幸村とともに魏軍のど真ん中に来たわけだが、何かあった時矢面に立つのは当然趙雲だ。 出来るならば早めにこの地を去った方が利口というものか。 一向に気付かれる様子のない二人は、しばらく黙ってそのやり取りを見ていたが、そのうち曹丕がちらりと意味ありげな視線を三成に向ける。 気付いていたがその視線にこたえる気はない。遠くから幸村を見つめている己の姿は、そういえば元の世界の頃からも変わらない。 (…変わることなど、たぶん…) 元の世界での自分を振り返り、一瞬の隙が出来た瞬間。 曹丕が三成の脇を通りぬける。 「…!?そ、そう、」 曹丕、と声をかけようとした声が存外に大きかった。 三成の声に三人が振り返る。 幸村の視線が驚いたようにこちらを見た。そしてその口が、 みつなりどの 声にはならず、唇だけがそう動く。 それに釘付けになった。 音にならず、でも呼ばれたと感じて三成は身体中が熱くなったような気がして。 (…なん、だ。これは…!) それだけだったのに。 遠呂智があらわれて、世界を歪めて、皆と散り散りになった。それまでは近くにいた者と皆別れ別れになって。 自分が思っているよりもずっとずっと、飢えているということか。 幸村が、ただ音に乗せずに名を呼んだ。唇の動きでそれがわかった。それだけのことで、こうも身体の芯から暖かくなるほどに。 が、そのことに衝撃を受けていられる時間はそう長くはなかった。 曹丕が、いつもの通りの眉間の皺を浮かべたまま三人のそばに立ち止まり、品定めするように順々にそれぞれを眺める。 「な、なんだ?」 夏侯淵がその視線に耐えられない様子で気持ち悪そうな声をあげる。 「ふん。安心しろ。おまえは最初から候補にない」 「な、なんだそりゃあ」 「……」 曹丕がちらりと幸村を見る。 「貴様はあの男から貰え」 「は?」 「消去法だ。受け取れ」 彼のほとんど口癖に近い「跪け」と同じ声音で言われた趙雲は、それこそ曹丕と同じくらいの眉間の皺を寄せてそれを受け取った。 趙雲の手におさまったそれは、白い花。 「……なん、の、冗談ですか…」 「ついでだ」 ついでで男から男に花を渡すなんてあるだろうか。 趙雲はこれ以上何と言うべきか困って言葉もない。夏侯淵もさすがに言うべき言葉が見つからないようだ。 もちろんそれは幸村も同じだ。 だが言うべき言葉が見つからないなりに、曹丕から言葉をかけられた幸村はちらりと三成を見た。 途端、視線があって幸村は慌てて視線を逸らす。 慌てたついでに口を開いた。 「き、綺麗な花ですね」 「…………この状況でその言葉が出るってのもすげぇな」 夏侯淵の言葉に幸村は趙雲を見る。趙雲はといえば、さて握りつぶすわけにもいかず、かといってこのおかしな状況に素直に礼を述べる気にもなれず、困り果てた挙句に呟いた。 「全く…曹魏の方々には勿体無いくらいのもてなしをいただいて…」 「無理すんなよ…」 夏侯淵がこれもまた率直に呟く。 曹丕は僅かに振り返った。視線の先には三成がいる。 早くしろ、と言わんばかりのその態度に三成は思わず叫びそうになった。 できるか!と。
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