いつか太陽に落ちてゆく日々 39




 慶次は何も言わずに去った。
 今回は呂布を連れていくのが目的だと。呂布は貂蝉さえいればいい。彼は案外素直な奴だから、政宗や慶次が話していた、「真田幸村」という名を覚えていただけのことだと。
 そして、三成が貂蝉の逃亡の手助けをしていた。そうしてたまたま、二人が同じ場所にいたからこういう事態になったのだと。
(…慶次も、戻りたくないと思っているのか)
 望みはなんだというのだろう。
―――なんであの時、負けちまったのさ。
 三成と対峙した時、慶次はそう言った。では三成が負けたというのか。だとしたら一体いつの話か。そんなことは考える必要がなかった。
 家康との一戦で、負けたのだ。
 兼続はその一戦の勝敗を知らない。だが負けるなどとはひとかけらも思わなかった。三成は戦下手だなどと言うが、そんなことはないと思っている。
 だが、慶次がそう言い、三成があの反応を返したということは、負けたのだろう。
 兼続の知らない未来の話で。
 三成が戻りたくないのはそのせいか。だから、この世界に希望を見出したのか。
 慶次はたぶん語ろうとしない。三成に聞くのも、それはそれで酷な話だ。
(…政宗)
 あの夢のことを思い出す。不思議な夢を見せた。遠呂智のもとで交わされる会話。なんということはない。遠呂智の力をかさに戦いを挑もうというのではない。もっと別の。
(山犬に話を聞くというのはどうにも納得できないが…だが)
 慶次は語らない。だが今回の騒動で遠呂智というものについては、知ることが出来た。
 だが慶次はどうしてこの世界に希望を見出したのか。遠呂智と友だったからか。
 それがわからない。だから知りたかった。
(…あちらには関平殿がいるはず)
 短い間ではあったが、共に旅をした。不審がられることはないはずだ。
 兼続はそこまで考えて、決意した。三成のことも気になる。だがそれは―――幸村が、どうにかしてくれるのではないか。そう思えてならない。
「幸村」
「はい」
 三成とねねが話しているのを、少し離れたところで見ていた幸村に呼びかける。少しいいか、と彼を誘って、どこへともなく歩を進めた。
 どれだけ経った頃か。ようやく兼続は口を開いた。
「私は政宗に逢ってこようと思う」
「え?」
「唐突な話かもしれんが…。政宗は遠呂智軍にいた。この世界に来てから、慶次に近いところにいたのは政宗だ。呂布は連れていかれてしまったしな。慶次が何を思って動いているのか…知ることが出来るかもしれない」
 それに、呂布では聞きたいことが聞けないはずだ。
 政宗は三成の死も、兼続の死も、そして幸村の死も知っているという。あの夢が本当の話であれば、詳しい話も聞きだせるかもしれない。
 そして、もう一つ。慶次のことも。
「山犬に聞くのは甚だ理不尽だが」
「…そう、ですか…」
 どことなく気落ちしている様子の幸村に、兼続は強い言葉で続けた。
「幸村、すまないが三成のことは任せたぞ」
「…私など…三成殿に信頼すらしていただけていない」
 しかしその言葉は幸村にとっては重荷だったのかもしれない。力ない言葉に兼続は声をあげた。
「何を言う!」
 唐突に声高に叱られて、幸村はびくりと肩を震わせる。
「信頼していないわけがない。三成はいつだっておまえを信頼していたではないか」
「…そう、でしょうか…」
「…幸村。幸村はあの三成を見て、不安になっているのだな」
「…その…はい」
 うやむやにすることは出来ず、幸村は俯いてしまった。兼続にもその気持ちはわかる。
「だが、先ほどの三成の言葉。…あれは間違いなく、三成の言葉だ。意味もなく他を攻めることはしない。あの力を得てもだ。幸村、三成は変わっていない。大丈夫だ」
「………兼続殿」
「ん?」
 強い兼続の言葉に、幸村は俯いたまま言葉を濁したが、意を決したのか口を開いた。
「…私は、三成殿に…自惚れかもしれませんが、信頼されていると思っていました」
「………」
「ですが、そうではないかもしれないと思った時に…つくづく痛感したのです。こんなに辛いことはないと」
 二人の間に何があったかは大体推測が出来る。まだあれからそう時間は経過しておらず、幸村の首筋に見える鬱血の痕も消えてはいない。
 かといってそれを真正面から幸村に問うことは出来なかったが、それでも。
「幸村」
「私が三成殿を信頼するように、三成殿も信頼してくれているのではないかと思っていたのです。同じであるはずがない。私は…」
「その言葉、三成に言ってやるといい」
「…え」
「言ってやってくれ」
「…し、しかし。これは私の勝手な言い分で…」
 慌てる幸村に、兼続は苦笑した。こうやって、遠慮するから伝わらない。 こんな言葉、幸村から聞くことが出来たら三成は嬉しいに違いないのに。
「いいのだ。きっと三成は、そういう言葉を望んでいると思う」
「…そうでしょうか…」
「私を信じろ、幸村。それとも私は信じられんか?」
 そういえば、元の世界にいた時からそうだった。幸村は、兼続にはよく相談をしてくる。だが三成にはあまりしない。そう言って一度、三成に愚痴られたことがあった。あれは酒の席での愚痴だったが、本音だったのだろう。 普段は決して言わないような愚痴が、ずっと腹の中に溜め込んでいたものが、酒の力を借りて表に出てきた。
 思えばあの頃から、幸村にとっても三成は特別だったのではないか。
 出来るだけ、負担をかけたくない。そうならないように、自分の抱える相談事については決して三成には漏らそうとしなかった。
「そのような事あるわけがありません!」
「…ありがとう。私は、ここを離れるが…幸村に任せた。頼む」
 力強い否定に、兼続は自然と微笑んだ。
「はい」
「また逢おう」
「はい!」
 いつもいつも、兼続はだから兄のような気分で幸村に接していた。相談にも乗ってやった。
 幸村もだからこそ懐いてきたのだろうと思う。
 この二人がきちんと互いの思いを伝えて、きちんと正面から向かい合ったら。
 きっと、あんな瞳の色はすぐに消え、遠呂智の力も失って。
 元の世界に戻れる―――だろうか。




「…お市様」
 部屋に残ったねねが、その背中にようやく声をかけたのはあれからどれだけ経った頃だったか。
「ねねですか」
「はい」
 頷いて、足音をさせずに近寄る。相変わらずその背は、他者の存在を拒絶していた。が、ねねが横に立っても、何も言わない。かわりに、市は少しもねねの方を見ようとしなかった。
 そんな市の様子も気になったが、くのいちの様子も気になる。意識を失ったまま、今頃はおそらく夢を見ているだろう。良い夢とは言いがたいはずだ。
 その顔色は、酷く悪い。
 そっとくのいちの額に手をあてて、発熱していることに気づく。
「…熱がありますね。お市様、私薬を…」
「…彼女はそういう薬を自分で持っていて、先ほど飲ませました。大丈夫ですよ」
「…はい」
 相変わらず市の片目は赤い。それは、三成と同じ状態だった。あの天守で、三成が報告したように、その状態になってしまった人というのは、この世界で希望を見出してしまった人だという。
 市の場合、それはおそらく長政との事だろう。
「…ねね」
「はい」
「誰も、教えてくれなかったのです」
 意味は痛いほどわかった。長政と市の、元の世界での未来について。
 知っているはずの誰に聞いても、答えは得られなかったのだろう。
「……」
「誰も…ふふ。きっと、とても言えるような最期を迎えなかったからなのでしょうね」
「お市様…」
「わかっているのです。本当は」
 それでも市は気丈だった。微笑む姿は実に痛々しいが、それでも。
 記憶の中にある彼女はいつだってそうだった。いつだって、諦めたような笑みを浮かべていた。
 それが、彼女の美貌に言い様のない影を作って、秀吉などはそれにいつも心を奪われていたものだ。
「…お市様。でも信じてください。お市様はとても愛されています」
「ありがとう、ねね」
「本当です!」
「…ええ」
「だから…」
 だから、と続けようとしてもそれ以上は言葉に出来なかった。
 こんな時、自分はどうしようもなく無力だ。特にこの人の前では。
「…今、長政様は誰が看ていてくれていますか?」
 言葉に出来ないのを汲み取ってくれたのか、市が話を変えた。
「夏侯淵殿が看てくれています。行きますか?」
 しかし市は首を横に振った。
「…長政様が倒れているのを見たら…泣いてしまいそうで」
「…お市様」
「泣いてしまったら、長政様に心配をかけてしまいます。…夏侯淵殿には申し訳ありませんが…」
 もうしばらく、こんな顔は誰にも見られたくない、と。
 そう言って、市の白い頬に涙が零れた。
 ねねは、はじめて見るその人の涙に、言葉もなく見守るしかなかった。
 彼女を抱きしめていいのは、ねねではない。この人を抱きしめられるのは、長政ただ一人だ。
 ただ、ねねはそっと手を伸ばした。強く握り締めている市の拳をとって、そっと暖めるように包んだ。ねねの肌は他のどんな女より柔らかい、と昔秀吉に言われたことがある。
 その肌に触れていると気持ちよくて幸せになれると言っていた。市もそう感じてくれればいい。
 そう思いながら、優しく優しく冷えた掌を包み込む。
 彼女が泣き止むまで、そうしていてあげようと思った。





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