いつか太陽に落ちてゆく日々 38




 幸村がどうにか意識を取り戻しかけた時に聞こえてきたのは、政宗の名が出た時だった。
 吹っ飛ばされた痛みよりも、自分の知り得ない死の瞬間をしる人がいること。
(政宗殿が…私の死の時を知っている)
 しかしそれを聞いても、幸村は動じなかった。市や長政と話していた時に、その事に思い至ったからかもしれない。自分の死を知っている人間がいても、おかしな話ではないのだ。驚くほどでもない。
 むしろ、死の瞬間を知っている人がいることに安堵した。
 そうしているうちに、呂布を連れていくという話になり、慶次が歩み寄ってくる。三成はそれを止めようとはしなかった。呂布に手をかけた瞬間、慶次と目が合う。
 はっとしたが、慶次はいつものようにどことなく余裕の表情を浮かべて、言う。
「あんた次第さ」
「―――っ!?」
 それが、自分に向けられていた言葉だというのはよくわかった。しかしこちらが息を呑むより早く、慶次は呂布と貂蝉の身体を抱き上げると、そのまま去っていこうとする。
 それを、兼続が止めた。名を呼び、叫ぶが慶次はほんの僅か振り返るばかりで、兼続の問いには答えようとしなかった。
 そのまま去っていく慶次の姿。何とか上体を起こすと、そこで三成が気がついたようだった。
「…幸村」
 相変わらずその目は赤く光っている。
「…大丈夫か」
 低い声。あまり顔色が良くないように思えた。支えるようにして、三成が手を差し伸べてくる。幸村はその手をあまり躊躇わずにとった。
 そして、その手が冷えていることを知る。それは、あの時部屋の中で肌に直に触れられた時にも感じた冷たさだった。生きた人間の掌ではないような冷たさを感じる。
 幸村は、自然強く三成の手を握った。
 その強さに、三成が一瞬何か言いたげに口を開きかけて、やはり止めた。そしてそれと同時に、近くで身じろぐ気配。
「…曹丕、無事か」
 甄姫を庇うようにしていた曹丕が意識を取り戻して、何とか身体を起こした。甄姫はまだ意識を取り戻さない。嫌な夢でも見ているのかもしれなかった。
「前田慶次はどうした」
「…呂布と貂蝉を連れていった」
「……そうか。…何かわかったか」
「…わかったも何も…」
 自嘲気味に笑うと、三成はそれ以上言おうとはしなかった。曹丕もそれ以上をこの場で問おうとしない。相変わらず眉間の皺は深い。嫌な夢でも見たか。甄姫が看ているかもしれない夢を思ってのことか。
 ―――結局、その後続くはずだった問いは、曹操の前で三成自らが話す事となった。
「なるほど」
 場所は天守に移っていた。そこには、曹魏の武将たちも勢ぞろいしていた。
 自暴自棄に聞こえる三成の一連の言葉に、曹操は特に触れることはしなかった。
 長政と甘寧、そして張遼の三人はまだ目が醒めないという。そして甄姫も同じく。
 三成の片目が赤く光る理由、世界が元に戻らない理由、それらが、三成の口から明らかになった。
「何人もいるかもしれんというわけか」
「…だからといって、世界自体を作り出せるわけではない。そこは勘違いしないでいただきたい」
 遠呂智の力を得たからといって、それで何が出来るわけではない。ひっきりなしに見る人の死ぬ夢。そして制御が不安定な力は、感情が昂ぶれば暴発してしまう。
 世界は元に戻らない。だがそれは世界を創れるのではなく、維持しているというだけだ。
 慶次が呂布を連れて去ったので、今その場で遠呂智の力を得ているのは三成だけだ。その場に揃っている武将たちが、僅かに三成を警戒しているのがわかった。
 遠呂智の力は、強大だ。
 そうやって、警戒されるのも無理はない。多くの人間からの注目を一身に集め、だが三成はもう逃げも隠れもしようとしなかった。幸村は、そんな三成をただじっと見つめる。
 恐れはない。
(三成殿が…この世界に、希望を…)
 元の世界に戻るよりも、この世界の方がいいと、そう思った。
 だからその右目が赤く染まり、遠呂智の力を得てしまった、と。
 幸村は三成がその力で、長政たちを吹き飛ばす瞬間を見た。慶次の時も見ている。あれは、何度見ても遠呂智の力そのもので。
 あの力自体は、それが遠呂智のものだとわかるくらいには見たことがある。古志城で幸村自身もその身に食らったことがあった。しかしその時は、こんな風に意識が混濁することもなく、妙な白昼夢―――もしくは悪夢を見ることなどなかった。
 おそらくまだ目覚めない彼らも、同じように夢を見ているだろう。どんな光景で、どんな時のものかはわからないが。
「…それで、どうする?」
 曹操の問いに、三成はしばし黙った。
 それは、呂布が乱入してくる前に曹丕にも聞かれていたことだ。
―――おまえは、どうだ。
 三成は答えない。幸村は答えない三成をもどかしく思いながら、口を開くのをただ待った。
 それは、兼続も同じだ。幸村と並んで控えている兼続は、そなに三成を厳しい視線で見つめていた。
「その力を得ている限り、世界はどうあっても戻らんという…。ワシはそれでも構わんが」
「孟徳!」
 隣に控えていた夏侯惇が、曹操の言葉を窘める。とはいえ曹操は微塵もそれを悪いとは思っていないようだった。
「この世界にいる者は、遠呂智に選ばれただけあって、なかなか見込みのある者が多い。この世界がこのまま続くというなら、ワシは構わぬ。敵が誰であろうと、曹孟徳の前にひれ伏せるまで戦うのみ」
 乱世の奸雄、と言われるだけあって、曹操は三成の言葉に少しも驚いていないようだった。むしろその根の部分にある好戦的なところに火をつけてしまったようにも見える。
「…ならば俺の力は役に立つ」
「ほう」
「あの力にはほとんどの人間が抗えない」
「そのようだな」
 曹操は頷いた。しかし、何か思うところがあるのか少しばかり、その顎鬚を撫でて呟く。
「しかし、いざという時にその力が使えぬでは困る」
「………」
「その力を使えると己を売り込むのであれば、それを見せてくれねば困る」
「…何をしろと?」
「そう警戒するな。見せろと言っているのだ。その力、曹魏の力になると」
 見せる機会を作れということか。遠呂智軍が攻めてくることがあればこそ、使えるかもしれないが、果たしてそれがあるか。
「難しく考えるな。いっそ劉備の奴でも攻めてみてくれんかと言っているだけだ」
「な…!」
 思わず声をあげてしまった幸村に、曹操は特に反応を示さない。幸村が反応することなど百も承知の上で言っている。
 しかし三成は動じなかった。
「そして俺一人に攻撃させて、向こうが攻めてくれば曹魏の人間ではないとでも言って言いがかりだと大義名分にかこつけて攻めるのか?そんなもの、御免こうむる」
「良い機会だと思うのだがな」
「たとえ俺が得たこの力が危険視されようとも、義のない戦になど出ぬ」
「―――義、か」
 その言葉に、曹操が目を細める。しかし三成は少しも退こうとしなかった。
「そうだ」
 片目の赤が、今は完全に曹操一人を捉えている。三成は身じろぎ一つしない。
 曹操がどう思ったかはわからない。が、幸村はその言葉に酷く安堵する自分がいた。蜀の人々への理不尽な戦を仕掛けることがないことを知ってか、それとも元の世界にいた頃の三成のようだったからか。
「よかろう。功に焦らぬところ、気に入った」
「………」
「さすが子桓が認めた男よ」
「……三成の今後の働き、期待するぞ」
 そう言うと、曹操はもういいとその場に解散を命じた。去っていく武将たちの姿を眺めて、曹操は笑みを深くする。
「…いいのか、孟徳。俺はあの力は危険だと思うが」
「馬鹿と刃物は使いようと言うではないか。それに、どちらにせよあの男がその力を失わねばこの世界が戻らぬというならば、仲間に引き入れておいた方が得策だ」
「…だが、あの張遼までもが未だ目覚めんとなるとな」
 張遼の強さは誰の目にも明らかなところだ。夏侯惇ですら一目置いている。その彼があっさりやられたとなれば、今のような簡単な遣り取りで終わらせてしまっていいものか。疑問を感じるのは当然のことだった。
「逃れられぬと言っていたのが真実だということであろう」
「……ずいぶん、あの男を信用するのだな。孟徳」
「何、子桓の認めた男のこと。簡単に終わるような奴ではなかろう。それに、あの男の周りに人が集まっておる」
「…真田幸村と直江兼続のことか」
 三成が報告をしている間、二人はずっと三成を見守っていた。夏侯惇は曹操の隣に控えていたせいで、それがよく見えた。
「そうだ。以前からの友だというではないか。奴のもとに集まってくる者がいるというのは、それは人徳とは思わぬか」
「…あの男にそういうものがあるかどうか、わからんがな…」
 だが、曹操の言う通り。理由はどうあれ三成の周りに人が集まっている。幸村と兼続が三成のもとに来た。それは、この世界でばらばらになっていたものがまた一つになろうとしているということ。この世界において、それは簡単なようでいてなかなか難しい。
 遠呂智という存在が、世界そのものを覆し、現実は唐突に曖昧な世界へ放り込まれた。
 その中で、それぞれはまず自分の居場所を求め、戦いに身を費やし、そうしている間は難しいことなど考える余裕もなく、日々を過ごすばかりだった。
 どの立場であれ、考えるのは最終的に遠呂智のことだ。
 その遠呂智を倒し、ようやく訪れたかに見えた平穏。その中で、友と呼ぶ者が集まる。それはこの、何もかもが手探りの世界でたしかに見た元の世界での絆だ。
 曹操はそれを思って、思わずその口許に笑みを刻んだ。
「なにやら、劉備たちを思い出すような話ではないか」
 義で結んだ兄弟達の間に、何者かが入ることはなく。どれだけ離れようと常に同じ。生きるも死ぬも、共にしようという彼らのように。
 曹操にとってそれは苦味のある感覚だったが、それ以上は何も言わずにいた。




 解散を命じられて、それぞれが天守から出ていく。その人たちを見つめて、ここが蜀の人々とは敵対していた曹魏の人たちの拠点であることを思い出して、幸村は言い様のない気持ちにさせられていた。
 趙雲をはじめ、蜀の人々は皆とても良い人たちばかりだった。嘘の情報を与えられ、信じ込まされていたとはいえ幸村は一度は彼らに刃を向けたりもしたが、それを不問にしてくれたし、快く迎え入れてもくれた。
 強く恩を感じている。
 それを、三成一人を試す為とはいえそんな風にひきあいに出されるのは決して気持ちのよいものではなかった。
 いつまでもここにいていいのだろうか。そんなことを考え考え歩いていた時だった。
 唐突に、地面が揺れた。地響きのように感じたそれが、遠呂智の、蛇の力が暴発したものだと気づくのには時間はかからない。幸村が顔を上げたのと同時に、兼続が叫んだ。
「何だ!?」
 その言葉に、三成は周囲を見渡し―――視線をある一点で止めた。
「……」
 三成は無言でそのまま走り出す。確信のあるその姿に、兼続と幸村は同時に顔を見合わせ、そして追いかけるように走り出した。
 走りながら、考える。まるでこれは連鎖しているようだ、と。
 一つの暴発に対して、また別の場所で時間をおいて起こる。それらは、まるで水面の波紋のようだった。
 そして、三成の迷いのない背に不安を覚える。
(戻りたくないのだ、この人は…)
 ここで生きることを望んでいる。何故かはわからない。三成はその件に関しては、曹操を相手にしても語ろうとしなかった。頑として口を噤み、その一点だけは守り通した。そこまで意地を貫き通す、一体何があったというのか。
 ―――たしかに。幸村の知る限り、三成の周辺は常に極端だった。色で分けるのならば白と黒しかないように。好きか嫌いか。その二点しかない。
 そういう中で、三成はそれでもいつも迷いはなかった。己のすることに自信があり、いつだってその尊大な態度を裏付ける実力は持っていた。
 ただ、それが武一辺倒の人間たちには面白くなく、また三成も同じで。
 孤立していく三成を守らねば、と強く思ったものだった。
―――…信じたいのだ。幸村。
 あの時。肌に直接触れられたあの時に三成はそう言った。
(…この人は…元の世界の頃から、私のことすら信じていただけなかったのだろうか…)
 だから、試すように肌に触れて何もかも暴こうとしたのか。
 己がする事に対して、幸村の反応を確かめたくてああいうことをしたのではないか。
 だとしたら。
 真っ直ぐに伝えていたと思っていた気持ちまで、否定されていたのだとしたら。
(…どうやって、信じていただけばいいのだろう…)
 そこまで考えた時だった。三成がある部屋の前で足を止めた。幸村たちもそれにならう。
 その部屋は、市と長政に与えられた部屋だった。部屋の中が見える。
いたのは、市と、そして。
「くのいち!」
 慌てて飛び出そうとする幸村を、くのいちが制した。部屋の中、寝台の下に転げ落ちて意識を失っているくのいちの顔色は酷く悪い。
「…お市様」
 三成が慎重に声をかける。ゆっくりと、市が振り返った。憂いに満ちた美貌の中、おかしなほど爛々と輝く赤の片目。幽鬼かと思うほど青白く見えるその顔色に、幸村は息を呑んだ。赤目については何度も見ている。慶次も、呂布も、三成も。皆その瞳を赤く光らせている。
 だから今更そうなったとして、驚く必要はない。だが、整ったその相貌に浮かぶ憂いの影。そして他者を拒絶するような赤の瞳。この二つがあいまって、酷く恐ろしい鬼のような形相に見えた。
 しかしその顔には表情は浮かんでいない。
 ただ、能面のように無表情にも関わらず寂しげに見える。それがさらに人間らしさから遠ざけていた。
 そして、市のその目が赤いことにここに来て驚くほど納得していた。
 長政と市の最期は、三人は伝聞でも何でもよく聞いている。それぞれ別々に死んだが、どちらも酷く悲しい終わり方だった。
 子まで成した二人が、ばらばらにその死を迎える。
 市は、何も言わない。何も言わずにただじっとこちらを見ていた。己の得た力に呆然としてしまっているのか、違うのかわからない。だが、その目は真っ直ぐで、決してうつろではなかった。
「…どうしました、お市様」
 声をかけられずにいた幸村と兼続をよそに、三成がいつものように話しかける。市は物憂い様子で三成を見、くのいちを見下ろし、彼女に手を伸ばした。
「…いいえ」
 ぐったりとしている市をなんとか寝台の上に戻して、市は何事もないようにまた寝台のもとへついた。
「その女が何か言いましたか」
「いいえ」
「では何もないのですか」
「…はい」
「わかりました」
 短い遣り取りだ。会話は拒絶しているように聞こえる。市はもう振り返ろうとしなかった。意識を失っているくのいちをじっと見つめている。
「長政様は…」
「もうすぐこちらに来ますよ」
「…そうですか。ご苦労様」
「はい」
 三成は頷くと、幸村と兼続に合図してその場を去ろうとした。先ほどの震動に、他の者たちも様子を見にきている。その中で特に、ねねが身を乗り出していた。
「み、三成っ」
「おねね様」
「お市様、大丈夫かねぇ?思いつめた顔してる…」
 先ほどの天守での報告の際は、ねねもその場にいたはずだ。三成の得た力を市も得ている。市はそういえばあの場に来ていなかったが、おそらくその間に何かあったのだろう。
「…あの力を得てしまったのなら、知ったのかもしれません」
「………あ、あたしここにいても平気かねぇ?」
「…大丈夫ではないですか」
 市は存外に落ち着いている。元々あまり取り乱すことのない人だ。その様子を一瞥して、三成は頷いた。
「あの子…くのちゃんの様子も気になるしね。お市様が看てらっしゃるから、近づけなかったんだけど」
「…聞かれるからですか?」
「そうだよ。…今、あんなに幸せそうなのに、言えないじゃないか?」
「…そうですね」
 市が元の世界での自分たちの今後のことを知りたがる。
 元の世界での立場もあって、ねねはそれを聞かれると酷く困った。それ自体は、三成も以前からねねに相談を受けていた。避けるしかないでしょうと答えていたが―――。
 それでも今の市を見ていて、ねねの性格では放っておけないのだろう。
「三成、さっき聞いたよ。どこの世界にいても、希望を持てるっていうのは悪いことじゃあないよ」
「…おねね様」
「みんながみんな、戻りたいわけじゃないだろうからね」
 その言葉に三成は黙り込むしかなかった。ねねはいつでも明るい。ただ、この人がそれでは一体いつからやってきたのか、三成は知らない。
 知らないが、その言葉がまるで知っている人のもののようで。
 三成は何も言えず、部屋に入っていくねねを見送った。
 そしてそんな三成を、幸村も離れたところで見ていた。




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