いつか太陽に落ちてゆく日々 32




 何を求めるのかと問われたから、力を、武を、この俺を楽しませるだけの戦を、とそう言った。
 遠呂智はそうか、と頷くと、彼を迎え入れた。それ以上を問われることはなかった。
 呂布の知る中で、最強の男と名高い者が一人。名を、本多忠勝といった。戦で傷の一つもついたことのない強者であるという。もちろんその男の存在は、呂布を熱くした。
 だが、それ以上に呂布は遠呂智という存在に惹かれていた。
 戦いを求め、強者を求め。それは呂布と変わらない。にも関わらず、遠呂智は決してやすやすと前線に立とうとはしない。
 いつも妲己が、呂布の意志を引き継いで前線に立った。時にはそれにしたがって、呂布が出撃した事もある。政宗や、慶次、もしくは董卓といった人間たちが、それぞれ妲己のあとに従って出陣する。
 だが、思えば遠呂智は、己の居城としている古志城以外にはほとんど外へ赴こうとはしなかった。
 何故か、と妲己に問うた事がある。
「奉先さんは、戦う気満々で来たのに手ごたえもないような相手しかいなかったらどう?」
 狐を思わせる目で笑う妲己に、呂布はふん、と鼻を鳴らした。
「切り捨てる」
「でも、つまんないわよ?つまんない悲鳴あげて、逃げ惑って、奉先さんに立ち向かおうとする人なんていないの」
 それはそれで私は楽しいけどね、などと肩を竦めて妲己は残忍さを垣間見せて笑う。呂布は別に楽しくもなんともない、という様子でそうか、と呟いた。
 妲己が露払いして、強者を選定していく。妲己の罠や、あらゆる面倒事を乗り越えて、古志城に現れた者こそが本当の強者。ならば確かに遠呂智が刃を交えるのは選定された強者であろう。だが、呂布はそこまで待てない。
「気の長い話だ」
「そうね。でもいいのよ」
「……」
「遠呂智様はそれでいいの。あの人は、子供だもの」
「…こども?」
 あの図体の大きな奴が?と呂布は眉間に皺を寄せた。しかしそんな様子の呂布も、妲己には可愛いものだったようだ。くすりと笑って頷く。
「そうよぉ〜。だって、可愛いでしょ?」
「……かわいい?」
「違う?」
「…貴様の趣味嗜好はよくわからん」
「そうかなぁ?でもきっと、貂蝉さんとは気があうと思うなぁ、私」
 言われても、やはり呂布にはよくわからなかった。貂蝉は遠呂智が世界を歪め、呂布が遠呂智側について以来一度も笑わなくなった。
 呂布が思うままに動けば、貂蝉は笑わない。
 そんな貂蝉に対して、うまい言葉を繕うことも出来ず、女が喜ぶような言葉も口に出来ず。気がつけば、一人で思いつめて脱走し、呂布のもとから離れていった。
「…その名は口にするな」
「ふふ。悔しいんだ?三成さんは美形だもんねぇ〜」
 追いかけた呂布の前に、目鼻立ちの整った男がいたことは少なくとも呂布の中では衝撃的だった。貂蝉と通じて何か二人の間にあるのかと勘ぐった。
 そのことを指摘されて、思わず鋭い眼光を向けて睨んだが、妲己には全くそよ風程度のものだった。
 遠呂智などを相手にしていると、呂布が凄みを利かせたくらいでは全く動揺なしない。それは、ここにいる皆が皆そうだった。政宗も、慶次も、呂布がどれだけ吠えようと特別怯えることはない。
 それは、呂布にとってははじめての体験に近かった。呂布の周りにはいつも、彼を利用しようとする人間がおり、彼らは常に呂布の機嫌に怯えていた。
「でも、意外だったなぁ〜。無理やり連れてこようとしないなんて」
「……貂蝉が決めたことだ」
「ふうん、そう。奉先さんて貂蝉さんが好きだったのねぇ」
「貴様、ふざけているのか」
「むきになっちゃって可愛いんだ、奉先さん」
「……」
 呂布のもとから貂蝉が姿を消した時、そして連れ帰ることが出来ないと悟った時、酷く実感した。
 自分では貂蝉を喜ばせることは出来ない。
 力には絶対の自信がある。誰も自分に勝つことなど出来ないだろう。小さな頃からそれは変わらない。いつでも呂布は、誰よりも何よりも力を発揮できた。他人より一足飛びに。
 だがそれで喜んだのは誰だったろうか。いつも、期待する相手からはさほどに喜ばれもしなかった気がする。
「どうするの?」
「…どうもせん。必要であれば、いつかまた逢うこともあるだろう」
「ふうん、そう。…そうやって、思いを残すのね」
「…どういう意味だ」
「奉先さんも、笑わせてあげられるといいね」
 ―――そう言った時の妲己の表情が。
 いつも狐のように笑う小賢しい女のそれではなくて、切ない恋心を抱いていそうな女のもので。
 本当なら貴様、と怒鳴るつもりでいた。だが、それがあまりにも妲己らしくなくて、呂布の勢いが殺がれる。
 そうしていると、この女も絶世の美女と言われるだけのある女なのだな、とそう思った。癪だったので口にはしなかったが。

―――…奉先さま

 笑わせることが出来ればいい。
 だが記憶の中にある貂蝉はいつも悲しそうに見えた。いつも何かを憂えている。自分の未来か、呂布のことか、それとももっと別のことか。

―――奉先さま…

 何とかしたい。だがどうしようもない。どうすればいいのかなどわからない。自在に己の武を奮い、倒す。そういうことならば誰に習わずとも出来たが、こればかりは師となる者もいなければ、誰かに聞くわけにもいかず。
 ただ、笑わせることが出来れば―――たとえば、呂布の中でずっと引っかかり続けていることだってなくなるかもしれない。世界が変わるかもしれない。

―――誰にでも、そういう相手はいるものよ。

 そう言ったのは、誰だったか。政宗だろうか。小さい癖に、遠呂智を説教することに恐れも抱かず、呂布や慶次すらにも対等に接してきた。
 そうだ。そんなしみったれた話になった時に聞いた名があった。なんという名だったろう。

「…奉先さま!」

 は、と気づけば薄暗い石造りの部屋の中、すぐ目の前には懐かしい貂蝉の顔があった。
 その表情はやはりどこか憂い顔で―――だが。
「…貂蝉」
「よかった。奉先さま…酷くうなされていたので…」
 今にも泣き出しそうな憂い顔の貂蝉。目の前に貂蝉がいることが、夢のような気がして呂布はぼんやりとしたまま呻いた。記憶が混乱している。
「…俺は…ここはどこだ。貂蝉、何故ここに…」
「奉先様。ここは小田原城です。魏軍の者たちに捕えられたのです」
「…この俺が?馬鹿な」
「覚えていないのですか?」
 そんな様子の呂布に、貂蝉は酷く驚いた様子だ。それとも不安になったか。貂蝉の華奢な指が呂布の腕をとる。
「……わからん」
「そう…ですか…」
「俺が倒された…」
 混乱気味のまま、周囲を見渡す。そこがあからさまに牢であることは見ればわかる。鍵つきの部屋、格子。そしてしんしんと冷えて陽の当たらない部屋。捕えられたという言葉がようやく呂布の中で輪郭を持って目の前に現れた気がした。
「…何か覚えていることはありませんか?」
「……妲己が」
「え?」
「妲己が…おまえが笑うようになるといいと言っていた」
「……妲己が?」
「あとは…政宗が死にたがりが嫌いだと言っていたな…」
 捕えられているという事実が己の中で輪郭を持った途端、ふつふつと言い知れない怒りが湧き上がってきた。この俺を、という自負から来る怒りだ。
 しかしまだだ。まだ、呂布の中でその感情が爆発するまでに至らない。まだ頭の芯がぼんやりとぼやけている。自分は何をしていたのか。遠呂智が倒れてから今まで、何をしていた?
「奉先さま…?」
 よくわからない。
 記憶がごちゃごちゃとしていてうるさい。妲己のあの科白はいつ聞いたものだったのか。政宗の言葉は?
 いや、そうではない。
「…貂蝉。ここで不便はなかったか」
「魏軍には張遼殿もいらっしゃいます。良くしていただきました」
 そうだった。脱走した貂蝉を追いかけた際、その場には張遼もいたのだ。彼が貂蝉の脱走に手を貸そうという事態にも、呂布は怒りを顕にしたが、それ以上にあの男―――。
「…あの男には何もされなかったか」
「あの男…?」
「あの細い男のことだ」
「…ああ…三成殿のことですか?」
「そうだ」
「何もされるはずがありません。奉先様の勘違い…」
 そう言って笑う貂蝉に。
 呂布の中で何かがはじけた。
 ―――笑顔。
 おかしそうに笑うその笑顔は、この世界に来てはじめて見たものだった。 幸せそうな笑顔だったかと問われれば、人によれば違うと答えたかもしれない。それは貂蝉にとっては、的外れな問い。呂布が疑う話は貂蝉からすればあまりにも的外れが過ぎて、笑ってしまったものだったが。
 自分が笑わせられないものが、三成の名が出た途端に、とそう思ったらもう止められなかった。
 地下牢が揺れ、か細い悲鳴があがる。
 呂布のその瞳が赤く光り、牢の中が色濃い殺気に包まれた。


 曹丕は眉間の皺を深くして、じっと三成を正面から見つめた。
 三成は、隠すように片目を覆っている。
「…何を隠す」
 腕組みをしたまま、曹丕はじっと三成を睨む。その眼光は鋭く、傍で見ている幸村をも押し黙らせるに充分だった。
 部屋の中はしんと静まり返る。
 三成は、曹丕の視線から逃れるように俯いている。普段はむしろ好戦的に視線を交わしてくるこの男が、そんな風に俯くのはあまりにもらしくなかった。少なくとも、曹丕が知る石田三成はこんなにも自信を喪失していなかった。
 何があってこんな風に取り乱したものか。
 そして、幸村の素肌にところどころ見える鬱血の痕。首筋に浮かぶそれが、どんなものか。深く考える必要はなかった。
「答えろ、三成」
 しかししばらく何の返答もなかった。曹丕はただじっと三成の返答を待つ。居心地の悪い空気が部屋を満たした。
 どれほど経った頃だったか。三成が、掠れた声で呟く。
「…俺は…」
 驚くほど弱った声音。視線もさだまらない。何かを言おうとした三成は、また押し黙ってしまう。
「…まぁ、いい。とりあえずその手を離してやれ。いつまでそのままにさせるつもりだ」
 三成は部屋へ入った後も幸村の手をとったままだった。離す気配がない。幸村の着衣は乱れたままで、それを直そうにも三成に手をとられたままで、うまく元に戻せないようだった。見かねた曹丕がそれを指摘してやれば三成は、しばし迷った素振りの後、そっと手を離した。
 幸村にちらりと視線を送れば、申し訳ありません、と小さく呟いて立ち上がる。その目尻に涙の跡があるのも、全て見ぬふりをして曹丕は改めて三成と向かい合った。
「何故視線を逸らす」
「……」
「何故片目を隠している。何かあったか」
「……俺は…石田三成、か」
「それすらわからなくなったとでも言うか」
「ならば…何故だ。何故、」
 三成の声が思いつめたものになっていく。一瞬、曹丕の背筋をぞくりと悪寒が走った。その瞬間。

「三成殿」

 幸村の、呼ぶ声。
 その声に、三成は縋るような表情で顔を上げた。その拍子に、隠していた片目がはっきりと曹丕の目に映る。
 赤く光る、その片目を。
「―――…」
 それは、見た者に遠呂智を連想させる色だった。遠呂智は左右の瞳の色がそれぞれ違っていた。それがまた不気味で、他者とは違う、ただの人とは違うことを示しているようだったのだが。
「何故そうなった」
 曹丕は一瞬息を呑んだ以外、特に目立った反応は示さなかった。元々の無表情がこんなところで役に立つ。少しだけ笑いたい気分だったが、曹丕はそれも押さえ込んで、三成に対峙した。
「……わからん」
「突然そうなったのか。兆しはなかったのか」
「……」
 三成が黙り込んでしまえば、部屋は再び静まり返る。しばし誰も何も言わなかったが、幸村が控えめな声で、言う。
「…曹丕殿。合肥新城で…私は慶次殿と戦いました。その時、あの人も同じように…瞳の色がおかしかった」
「―――ほう」
「慶次殿は、手も使わず、武器も使わず、私を吹き飛ばしました。あれは古志城で見た遠呂智の力、だった…ように思うのです」
「ならば三成も遠呂智の力が使えるようになったか」
 曹丕の言葉に、三成は身体を強張らせた。幸村は何も言わない。二人の態度で、言葉になどならなくともわかった。
 遠呂智の力が、使えるようになったのだろう。
 呂布も使える。慶次も使える。
「…遠呂智の力は伝染でもするのか」
「……わかりません」
「まぁ、良い。三成が遠呂智の力を使えるのは好都合だ」
 曹丕の言葉に、幸村は首を傾げた。三成は動かない。言いたいことなどわかるだろう。
「あれは絶大な力だ。三成が使えるのであれば戦力になるだろう」
「…曹丕」
「何だ」
「俺は…この力で、仲間まで傷つける」
「ならば自重しろ。使えるように制御しろ」
「無茶を言うな!」
「無茶だと?おまえはそれでいいのか。力に振り回される程度の男か、石田三成」
 しん、と場が静まった。
「私がそうなったならば、制御する。甄が泣くような真似はせん。おまえは、どうだ」
 三成は黙っている。曹丕はただじっと三成の言葉を待った。
 何があったかは知らない。が、幸村との関係は、進展したことは確かだろう。それが良い意味での進展か、それとも違うのか。ともかくあれだけいじらしく幸村のことを想っていた三成が、ついに一歩踏み出したということだ。それが男だろうが女だろうが、そうやって想う相手がいて、その相手に万が一危害を加えるかもしれない力を得たからといって、それで悲観ばかりなどしていられない。少なくとも曹丕はそんなことで迷ったりはしない。
 幸村はようやく着衣の乱れを直して、曹丕の外套を寝台の上に戻したところだった。人が人を想うのにはいろいろな経緯があるだろう。曹丕が甄姫に一目で惚れて、無理やり自分の妻にと連れてきた時もそうだ。
 この二人がどうなるかは曹丕にはわからない。二人がどんな結論を出すかなど、曹丕がどうにかできる範疇の話ではない。
 だが、努力は出来る。
 だから、曹丕は万が一三成と同じ立場に立ったとしても、想う相手を悲しませない。おかしな話だったが、それは甄姫を殺す夢を見てからずっと、強く思っていることだった。
 だからこそ余計に強く三成に結論を求めた。
「ここで言え。どうするつもりだ」
「―――…」
「私のところに来た以上、決めるつもりで来たのだろう。三成、おまえは曹魏にとって敵となるか味方となるか」
 その時だった。
 部屋のすぐそばで悲鳴が聞こえた。それは女のもので、そして曹丕の耳には確かに甄姫のものに聞こえた。
 次の瞬間、襖が開き、そこに。
「呂布…!?」
 赤い目をした呂布がいた。殺気だったその男の視線は、三成に憎しみごとぶつけられているようだった。





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呂布も曹丕も難しいんじゃい。