いつか太陽に落ちてゆく日々 31




 曹丕はようやく身体を起こすまで復調していた。
 寝台に腰かけた状態で、しばし今までのことを思い返してみる。
 遠呂智を倒した。しかし世界は終わらなかった―――ここまでは、誰しもの共通認識だ。
 だがその遠呂智が、曹魏だけに倒されたわけではないことを知った。
 それは、蜀の面々と行動を共にしていた真田幸村と、そして趙雲が来たからこそ知れた事実だ。
 遠呂智は何人いるのか。そうなってくると遠呂智は本当に倒されたのか。倒したのか。まだ生きていて、どこかに潜んでいるのではないか。
 遠呂智に関することについては、全てが曖昧だった。確証は一切ない。
 もし万が一、遠呂智は生きていて、ぬか喜びをしている人々を見てせせら笑っているのだとしたら、それは再び世の中を混乱に陥れるに十分だ。
 誰もが、あの強大な力を知っている。天空の怪しい光も、地響きする世界も、全てを歪めて一つの世界に連れてくる力も。そして遠呂智自身の力も。
「…振り回されている」
「我が君?」
 ぽつりと呟いた声を聞いて、甄姫がこちらを覗いてくる。その表情は心配そうで、曹丕の胸の奥がずきりと痛んだ。が、顔には出さずなんでもない、と手で制した。今は少し一人で考えたかった。
 いなくなったはずの遠呂智。だというのに、その影に踊らされている。
 遠呂智軍は何の為に合肥新城を攻めた?その上、攻め込んできた遠呂智の残党は一人として残っていなかった。幸村を追いかけて戻って判明したことだ。いたのは、前田慶次。ただ一人。
(いや、一人…ではないな)
 直江兼続と関平がいた。二人はすでに慶次にやられていたが。
 そういえば、あの二人が何故ここにいたのかもまだ聞いていない。関平は話をする前に趙雲が蜀の面々がいる江戸城へ連れていった。残っているのは直江兼続だけだ。聞く必要があるだろう。
「甄よ、直江兼続をこの場に呼べ」
「まぁ、我が君。もうしばらく安静に…」
「ふ…。甄よ。おまえが心配することなどもうないのだ」
 いつものように言えば、甄姫はしばらく困ったように曹丕を見つめていたが、ため息をついて立ち上がった。
「わかりましたわ。呼んでまいります」
 甄姫が出ていく後ろ姿を見つめて、曹丕はふと夢の内容を思い出して俯いた。
 夢の中で、甄姫を手にかけたのは自分だった。その光景はいやに生々しいものだった。甄姫の恨みを含んだ声が耳に痛い。
(…今はそれどころではない)
 曹丕はそれ以上を考えるのはやめた。振り切るように首を振り、忘れようとする。考えるだけ無意味だ。あれはただの夢だ。必死にそう思い込む。
 直江兼続が来れば、まずここに何の為に現れたのか。それがわかる。
 そしてもう一つ。
 呂布だ。
 目覚めてから甄姫から聞き出した話では、呂布は三成が捕えて城の地下牢に入れてあるという。そういえば以前、呂布の妻である貂蝉を迎え入れたことがあった。おそらく呂布のところには貂蝉も一緒だろう。
 あの時、前触れもなく現れた呂布の使った力は―――間違いがなければ遠呂智のものだったはずだ。あの古志城で見た力、その片鱗。
 あの時、曹丕が感じたのはひたすらな殺意だった。それが誰であるかの把握をした時には、もう吹っ飛ばされていて、意識が途切れていた。
 そもそも、何故ここに呂布が現れたのか。
 前田慶次も呂布も、元々は遠呂智軍の人間だった。どちらも古志城で戦っている。そしてどちらも強かった。
 何故彼らが、合肥新城に現れたのか。それは遠呂智の意志だとでも言うのだろうか。
(まずは直江兼続。次は呂布…)
 このまま踊らされているわけにはいかないのだ。
 甄姫のいなくなった部屋で一人、寝台に腰かけたままの状態でそう決めた時だった。外で、ガタンという音がして、襖が開く。
 何者だ、と声をあげかけた曹丕は、目の前の状況に一瞬瞠目し、そして眉間の皺を深めた。
「…三成」
 部屋の前には、三成がいた。片目を隠すようにしている。そしてもう一方の手で、幸村を連れていて。
 幸村の乱れた着衣に、曹丕は何も言わないまま入れ、と告げた。
 三成は何も言わない。思いつめた表情だった。
 それは、たぶん曹丕ははじめて見る顔で。いつも不遜に笑っていたこの男が、つまらなそうに話を聞いているこの男が、はじめて見せた焦燥を募らせた表情。
 曹丕はしばらく考えて、寝台に置きざりにしていた外套をとると、それを幸村にかぶせた。
「…っ」
 驚いた様子の幸村に、曹丕は腕組みしたまま三成の正面に立った。
 俯いている三成が、視線を逸らす。片目を隠したまま。
「逃げるな」
 言って、曹丕は眼光を鋭くした。




 曹操のもとに、張遼・長政・甘寧の三名が倒れているという報せが来たのは曹丕のもとに三成たちが来たのとほぼ同じ頃合だった。
 発見したのは兼続だ。
(嫌な予感はあったのだ)
 兼続はその惨状に、双眸を眇めて立ち尽くした。どれほどそうしていたか。兼続には、これが三成がやったことだという確信があった。何故かはわからない。
 ただ、ずっと感じていた違和感があった。慶次の攻撃に意識を失い、助け出されて目を醒ましてからずっとだ。
 ただ、確証はなかったから黙っていた。
 確証もないのに、友を疑う自分は嫌なものだった。

―――慶次に見させられておる夢じゃ。慶次は報せたいのよ。貴様に。
―――…何を。
―――遠呂智をじゃ。

 夢の中で告げられた言葉は、真実だろうか。
 政宗の言葉だ。不義の男の言葉など、信じるに足るものではない。
 だが、どうにもあの時の政宗の様子が、表情が、そう一言で切り捨てていいものか、兼続には判断が出来なかった。
 政宗といえば、遠呂智に与して反乱軍を苦しめた。
 普段の兼続ならば、不義の山犬めと罵ってしまえる。彼の言葉などに耳を貸さずにいられる。だが、あの夢の中の彼は。
(不思議な夢、だったが…あれをただの夢というには、あまりにも)
「…長政殿」
 頬を軽く数度叩いてみれば、長政は僅かにみじろぎした。甘寧や張遼も同じだ。ぱっと見た感じ、外傷はない。あの時の、自分と同じ。慶次の攻撃を受けた時と同じ―――。
「誰かいないか!」
 兼続の声に、ようやく人が来たのはどれほど経った頃だっただろうか。三人は素早く運び出された。慌しく人々が行き交う中、兼続は取り残されたように一人、じっと立ち尽くす。
 そうしていれば、唐突に背後から声をかけられた。
「一体何があった」
 夏侯惇だ。振り返り際にその眼帯にまさか政宗か、と思ったが違った。当然だ。ここに政宗がいるはずがない。
「私にもさっぱりわからぬ。たまたまここを通りかかって見つけたのだ」
「たまたま?真田幸村に用があったんだろう」
 夏侯惇はちらりと主のいない部屋に視線をくれる。人のいる気配はない。 確か幸村は怪我をしていたはずだ。あまりあちこち出歩くとも思えない。
「いないようだがな」
「幸村のことだ。犯人でも追っているかもしれないな」
「その幸村が犯人でなければ良いがな」
 夏侯惇はそう言ってあからさまに兼続の出方を窺った。続く兼続の言葉を促すような視線を向けられて、気分がいいわけがない。そこでようやく、自分や幸村があまり歓迎されていないことに気がついた。遅いくらいかもしれないが。
「…幸村は恩を仇で返すような男ではない。知らぬ上での発言であっても控えてもらいたい、夏侯惇殿」
「そうか。すまなかったな」
 夏侯惇はあっさりとそう言うと、肩を竦めた。
 兼続がどれだけ怒りを露にしようとも、大して関係のなさそうな様子だ。
「しかし、実際あの男がここに来てからだ。…曹魏が浮き足立つなどあってはならん」
 曹魏は遠呂智がこの世界を創った際に、真っ先に曹操の戦死が噂された。 曹丕が後を継ぐ形で先頭に立ち、あろうことか遠呂智軍と同盟を組んだ時も、随分酷く言われたものだった。同盟は対等な形で成し遂げられたが、そんな力関係がうまくいくはずもなかった。結果、呉などに比べればまだ幾分かましな状況ではあったが、明らかに魏の武将たちの心はばらばらだったと言える。
 だから、二度はあってはならないのだ。
「乱世の奸雄たるもの、この程度で浮き足立つとは」
「この程度だと?」
「誰も死んでいないではないか」
 先ほどの返礼とばかりに兼続はそう言って肩を竦めた。
 そう、合肥新城で奇襲があろうとも、わけのわからない事が起こっているにしても、まだ誰も死んでいない。
「…ほう、貴様…」
「曹魏が揺れたのは曹孟徳という人物が死んだと噂され、その息子が遠呂智と手を組んだからであろう。今、曹魏は誰と手を組んだ状態でもなく、曹孟徳という人がいないわけでもない。何を焦る必要がある」
「しかし予測不可能なことが起こり続けているんだぞ」
「この現象は、ここだけの話と思わぬことだ」
「何?」
「曹魏だけがこのように遠呂智軍の攻撃に遭っているというのはいささかおかしい話だ。起こっているならば、この世界の全てで同じことが起こっていると考えるべきではないか」
「面白いことを言う」
「曹魏ばかりが特別に遠呂智から目の敵にされるというのも、おかしな話だ。…ここだけがそうならば、信長あたり、もう攻め込んできているだろうに」
 はったりだったが、信長という人の名は、夏侯惇には大きかった。それだ存在が異様だったのかもしれない。ち、と舌打ちすると夏侯惇は兼続を振り返る。
「信長だろうが謙信だろうが、孟徳の前に立てば切り捨てるだけだがな」
「……結局、頂く天は変わらない…か」
「何?」
「いいや」
 遠呂智は何の為にこの世界を創ったのだろう。何を考えて、この世界が必要だと思ったのか。兼続にはわからない。
 目の前に、亡くなったはずの謙信がさも当たり前のようにいた。だから兼続は謙信について戦っていた。これは義戦だ。世を乱す者を倒す。その為に、長年の宿敵であった信玄とも共に戦った。信長とすら共に戦った。
 それを知る為に、慶次に逢おうと思った。三成なら何か知っているかもしれないと思って、幸村と共に三成のもとへ向かおうとした。
 夢の中の政宗の言葉を信じるならば、慶次は何か―――遠呂智を、知らせたいのだという。ならばこんな遠まわしなやり方でなくてもいいではないか。腰を据えて、互いの目を見て、話をすればいい。
 それが、出来ない状況だとでも言うのだろうか。
 だとしたら。
(政宗が何か知っているのか。呂布…から何か聞き出せるとは思えぬ…)
 そして今はやるべきことがある。
(三成)
 人のいない部屋。外と比べてしんと静まり返った部屋の中は、ほんの少しだけ荒れた気配があった。
 意識が回復した時、幸村を三成に近づけては駄目だと思った。何故かはわからない。ただ、喰われる、と思った。
 三成の、幸村に対するいじらしいほどの感情を知っている。気づかないのは当人たちばかりで、端から見れば三成の慕情などすぐわかってしまうほど、あからさまだった。
 幸村がどう思っているかわからなかったから、表立って応援してやったことはない。ただ、いつか我慢が出来なくなる日が来るのだろうかと思っていた。
(それが、今だったのか)
 放っておいたら墓場まで持っていくつもりだったように見えた。
 それを覆すほど、それを揺るがすほど―――三成に何があったのか。
(…探さねば)
 幸村も、きっと共にいる。何事もなけれはいい。
 兼続は拳を握った。夏侯惇の視線は感じていたが、御免、と一つ呟いてその場を辞した。



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三成の親友二人。