いつか太陽に落ちてゆく日々 30




 くのいちは寝たふりを続けている。
 というのも、くのいちの看病を続けてくれているお市が、片時も彼女の傍を離れてくれず、また起きていると知られると、寝なさいとあのどことなく気落ちする口調で強く言われてしまうのだ。
 ―――が、どれほど経った頃だったか、お市の頭が、がくりと傾いた。
 寝た、と思ったところを、今度は長政が歩み寄ってくる。市の肩に、着物をかけてやる。
 くのいちは、それを薄目を開けて盗み見ていた。
 長政はしばし市の寝顔を眺めて、微笑んだ。そうやって笑うと、この男は本当に目鼻立ちの整った綺麗な顔をしていた。
 三成なども顔は整っていると思うが、三成がその容姿のせいで冷たく見られるのに対して、長政は逆だった。
「…起きているか?」
 市を見ているものとばかり思っていた長政が、気がつけばくのいちの方を見ていた。が、くのいちは一定の間隔で寝息を立て続ける。起きているとばれたとしても、長政ならば逃げ出すことは出来るかもしれなかったが、そうはしなかった。
 ただ、寝たふりだけは続けていた。
 くのいちは幸村の忍びだ。幸村もくのいちも、二人が生きてきた時代に、この二人はすでに過去の人だった。
 信長は暗殺され、光秀は僅か三日で天下を秀吉に奪われた。秀吉は、信長の後を追うように大阪に城を作り、小田原を攻め、奥州の伊達すらひれ伏せさせた。
 この二人はそれより前の人たちだ。
「…気のせいか」
 そうしていると、今度は部屋に誰かが来たようだった。賑やかな気配がする。ちりちり、と鈴の音がする事で、誰が来たかは知れた。甘寧だ。
「長政、ちっといいか?…っと、二人は寝てのんか」
「ああ。何か大切な話か?」
 甘寧が何か喋ると、鈴がちりちり、と鳴る。
「ここじゃ起こしちまうな。外でいいか?」
「あぁ」
 長政が頷いて部屋を出ていく。鈴の音も遠のいた。くのいちは、そこでようやくひっそりと身を起こした。
 まだ慶次にやられた傷は痛む。が、こういう時あんまり大切に扱われてしまうのも、歯痒い気持ちにさせられる。
 出ていくなら今がいい機会だろう。くのいちは足音を忍ばせて、布団から抜け出そうとした。
「…くのいち」
「ひゃあ!!」
 それこそ本当の悲鳴をあげて、くのいちは声の主を見上げた。視線の先には、寝たはずの市がいる。
「…寝てたんじゃないんですかぁ〜?」
「鈴の音で目が醒めました」
「わぁん!もう〜っ」
 市は長政が掛けてくれた上着を愛おしそうに掛けなおす。この人は本当に長政がいればそれでいいのだろう。魏の兵士たちが、よく長政と市のことを話している。所構わず甘い雰囲気になる二人は、それこそそれがよく映える美男美女である。
 曹操がいつか市を欲しいなどと言い出したらどうなることやらと夏侯惇までもが冗談半分に言い出すほど。
「お市さま、あたしは忍びなんですよぅ!忍びをこんなに甘やかすことないんですってば〜!」
「…昔、ねねもそう言っていたけれど」
「…あぁ〜うん、そうでしょうねぇ」
 あの人も、天下人の正妻ではあるが、忍びだ。戦場に神出鬼没に現れたりする。その分負傷することも多いはずだ。その中であった事なのだろう。
 ねねにとって市は浅井家当主の正妻である以上に、秀吉の従う信長の実の妹である事の方が大きい。それはきっと、物凄く恐縮して逃げ出そうとしたはずだ。たぶん、今のくのいちと同じに。
「助けるか助けないか、私に決めさせてくれたっていいでしょう」
「…そりゃあ…いいですけどぉ…」
「私は少しでも好意を寄せられる相手でなければ手は差し伸べません。くのいち、あなたは私の好きにさせておけばいいのです」
「…お市さまって面白いですねっ」
「……そのように言われたのははじめてです」
「う〜ん。そうでしょうねぇ〜」
 少なくとも、ほとんど長政以外に笑いかけない市のつれなさは魏軍の中では有名だ。絶世の美女と謳われる人物は、ここにはもう一人、甄姫がいる。
 甄姫はそれでも曹丕以外にだって少しは笑いかけるが、市は徹底している。そこがいいとか、そんな下世話な話題で男たちは盛り上がっている。もちろん、そんなことを市は知らないだろう。
 この人は、長政に守られている。
「…あなたなら、答えてくれますか」
「にゃは?」
「遠呂智が現れなければ、私や長政様がどうなっていたか」




 長政と甘寧は、あてどもなくとりあえず城内の廊下を緩やかな速度で歩く。
 並んで歩きながら、長政は黙っている甘寧を促す。
「話とはなんだ?」
「あー…いや、あの人、お市サンなんだがよ」
「市の名が甘寧から聞けるとはな。市がどうかしたのか?」
「…なんか、いろんな奴に遠呂智がいなかったらどうなってたか、ってのを聞いてるみたいだぜ」
「…そうか」
「俺なんかはよ、そもそも知らねぇから、聞かれたりしねぇが。ねねサンが気にしてた」
 困ったね、とねねは苦く笑っていた。その笑顔を見るに、二人の未来が明るかったわけではないだろう。そもそもそうなのだとしたら、答えに窮することも困ることもない。
「……そうか」
「なんでだ?」
「…某が、義兄上に敗れるからだろうな」
「―――…何だと?」
 その言葉に驚いて目を剥く甘寧とは対照的に、長政は笑っている。儚くも見えるような笑みだった。
 その間も、二人は歩みを止めない。どこに向かう気もなく、ただ歩いていく。
「義兄上の、織田信長に敗れるのだ」
「…ちょっ…待てよ長政!どういうこった!」
「どういうもこういうもない。それだけの話だ。市は知らないのだろうな」
「…アンタ、どうしてそれで笑ってられる!?」
 思わず声を荒げて問いかける。が、長政はいつものように笑うばかりだった。いつもはその整った顔立ちのせいで、爽やかに見える笑顔が、今の甘寧には鼻につく。
「笑っているか、某は」
「わらっ…てんだろうが!」
「市といられるからだろう」
 あっさりと答えられて、詰め寄らんばかりだった甘寧は、その勢いを抑えた。握っていた拳も、自然と力が抜ける。
「…アンタ」
「某は負け戦に、市もその娘たちも、全て織田に返す。一緒にいられなかった。…だから、某は市と居られることが、嬉しいのだろう」
「……長政」
「遠呂智はそんな某に、一瞬の甘い夢を見せてくれたのかもしれないな」
 長政が淡々と言うそれは、あまりにも恐ろしいことだ。死の瞬間のことを、そう簡単に言えるものだろうか。もし甘寧が長政と同じ立場に立たされたら、こんな風に笑えるか。
「…なぁ、アンタそれ…いつ知ったんだ」
「最初からだ」
「…そんな素振り一度も見せなかったじゃねぇか!」
 はじめて甘寧と長政が出会ったのは、本当に成り行き以外のなにものでもなかった。凌統や陸遜などとも散り散りになって、さてどうするかと一人遠呂智の作った世界を歩きまわり、空腹で倒れかけていたところを拾われた。
 某は浅井長政と申す、と真面目に自己紹介された事も覚えている。
 その頃から全て知っていたとでも言うのだろうか。
「だからといって、この浅井長政。信義の槍に誓って遠呂智は許せん」
「………長政は強ぇな」
「甘寧もそうだ」
「俺は別に…そういうの、ねぇし」
「孫呉の人々がいなくて、寂しくはないか」
「寂しいってこたぁねぇけどよ。…まぁ、調子は出ねぇが」
「そんな素振り、見せたことがないぞ。甘寧」
「…あんたのと一緒にすんなよ…」
「いいんだ、某は。…市が幸せなら」
「………」
 気づいているのかもしれないな、と甘寧は唐突に思った。だから市は、あれこれと周囲に聞いているのかもしれない。ねねも、長政の最期は知っているのだろう。だから戸惑う。答えられなかった。
「…見せつけるぜ。相変わらず」
 甘寧は勢いが削がれてしまったとばかりに頭を掻いた。元々市が起きていたらこの話もせずに適当に酒に誘おうかと思っていたのだ。
 甘寧の知らないところで、何かが起こっている気配はしている。正直、もうしばらく平穏が続いたらここともおさらばして孫呉に戻ろうと思ったが、合肥新城が攻め込まれ、死んだはずの遠呂智の残党が現れただのなんだのと、周囲はにわかにきな臭くなっている。
 喧嘩好きの甘寧からしてみれば、こんな状態の曹魏から出ていくなどとんでもない話だ。
 遠呂智には是非とも止めを刺してやりたかったが、結局張遼が止めを刺した。なんとはなしに消化不良気味だった甘寧にしてみれば、これは絶好の機会だ。
 だから、もうしばらくここにいる。
 長政たちも、曹魏から離れる気はないようだった。元々とても義理堅いこの男のこと、同盟を結んだ曹魏を裏切ることはしないだろう。
 甘寧はそれ以上、何を言うべきかよくわからなくなっていた。こういう時、気の利いたことは言ってやれない。呂蒙あたりであったなら、無骨ながらも骨身に染みるようなことを言えるのかもしれない。
「…甘寧、あそこに倒れているのは…」
「あん?」
 自然俯いていたらしい。長政に言われてようやく顔を上げた。長政が指差す先。確かに誰かが倒れている。ぐったりとしたその人は、見間違いようがなかった。
「張遼殿!?」

 長政と甘寧が張遼を見つけるよりほんの少し前。
 三成は幸村に自分の欲望をそのままぶつけて、無理やり行為に及んだ後だった。会話はない。幸村がよろよろと、だいぶ三成より遅れて着物を羽織る。三成は酷い違和感に苛まれていた。
 身体の中を、蛇がのたうっているような違和感。
 どうなってしまったのかわからない。幸村に触れていた間、指先は火照るように暖かかった。だけれども、身体を放してしまえば、急速に冷えていく。
 出来ればもう一度。触れてその熱を奪いたい。
(…奪いたい…?)
 己の抱く感情に、三成は首を傾げる。違う。幸村の熱を感じたい。幸村の火照った身体を、こちらが与える感覚に敏感に反応する幸村を、ただひたすらに触れていたい。
 触れて、今繋がっているのが自分ただ一人とだけだと知りたいだけで。
「…幸村」
 おそるおそる声をかければ、幸村は掠れた声で小さく答えた。
 無理をさせた自覚はある。掠れた声はその表れだ。
「…すまん」
「…三成殿」
 幸村が、傷む身体に鞭打つようにして、ずるずると身を寄せてくる。その様子に心臓が跳ねる。
「目、が…」
「…目?」
 なんだ?と思うより早く。

「張遼殿!?」

 外で、誰かが倒れている張遼を見つけたようだった。そうだ。自分がやったことだ。何故そんなことが出来たのか知らない。行為の最中、何度も三成の視界の中、己が死ぬ瞬間が見えた。それを拭い去るように、幸村を執拗に責めた。
 部屋の中にいて、出ていかないのは不自然だ。ただでさえ張遼は部屋の前で倒れている。
 騒いでいるのは、声からして長政と甘寧だった。
 誰かいないか、と叫ぶ声がしている。出ていこうとする三成を、幸村が制止しようとした。
「…っみ、三成殿。お待ちくださ…っ」
「オイ、誰かいるか!」
 が、それより早く甘寧が襖を開けた。
「何事だ」
 自分のしたことだが、そ知らぬふりを通すつもりで三成は憮然とした様子で答えた―――が、対峙することになった甘寧の表情に三成はぞわりとした。身体の中の蛇が反応する。
「なん…ッだ、その目」
「目?」
(そういえば幸村も…)
「…遠呂智!?」
 そう叫んだのは、長政だった。張遼を庇うようにして、長政は鋭く三成を睨む。何故長政が、三成を睨むようにして遠呂智の名を出すのか。それがわからない。
 が―――。
 唐突に、甘寧が甲牙刀を抜いた。
 ぎらりとその刃が光る。そしてその向けられた刃に一瞬映る。

 赤い、片目。

「どういう事だ、説明しろ!」
 言われても、説明など出来ない。三成は言葉を失ったまま立ち尽くした。
 赤い片目。張遼を吹っ飛ばした時の力。脳裏に何度も浮かぶ、己の死ぬ姿。
 そして自分の身体の中にある、蛇がのたうつような、違和感。
 戸惑いの後にもう一度、向けられた切っ先を見つめた。今の三成は、彼らにどう映っているのだろうか。
 そう思えば、自然と呼吸が荒くなった。今自分は人に見えているか。人の姿をしているか。彼らにどう見えているのか。自分はちゃんと、石田三成のままなのか―――。
 ゴ、と音がした。
 背後で幸村が身を竦めた気配がする。
(幸村…)
 その瞬間、床を青い雷が走った。赤黒い光が地割れのように一瞬、彼らを包む。それはまさに張遼が倒れた時と同じ力だった。そして、遠呂智の力と同じものだった。
 一瞬後、ドオン、という音がして、甘寧と長政が吹き飛んだ。
 床に叩きつけられた二人は、成す術もなくそのまま意識を手放す。
 倒れる二人。立ち尽くす自分。
「―――…っぁ…」
 三成はそのまま振り返る。
 幸村がいた。
「三成殿…!」
(名前、)
 三成は、幸村の腕を掴むと、走り出した。
 どこへ向かうのかなどわからない。幸村はまだきちんと着物をあわせてもいなかったが、構わなかった。もつれながら、強い力に引っ張られて幸村がついてくる。三成殿、と何度も名を呼ぶ。
(俺の)
 その呼び声に何度も安堵しながら、走った。



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この期に及んでまだ出てくる。