いつか太陽に落ちてゆく日々 29

 目覚めて最初に見えたのは、見慣れた天井だった。視線だけで周囲を窺えば、そこは江戸城だった。
 ―――京ではない。
「ずいぶんと、顔色が優れませんね」
 安堵した途端、声をかけられた。姜維だ。孫市は苦く笑いながら頷いた。
「…夢の中で、ちぃとばかり鬼とおいかけっこしたもんでな…」
 京を走り回り逃げ回り、道がわからず。
 知らぬ土地でもないのに、孫市は迷路のような京の中を走り回っていた。
 それは過去に体験したことだった。本能寺。金で雇われてふらふらとあちらこちらに味方し敵にし、そうしていくうちに孫市のもとにはあらゆる情報が手の内に入れられるようになっていた。
 明智が秀吉の援軍には行かないだろうこと。謀反を起こすだろうこと。
 そして、その日孫市も動いた。遠くから、一点。狭い視界でたった一人を狙った。自らの意志で、人を憎く思って殺した。
 夢の中でとはいえ、またあんな場所を走った気分は最悪だ。
「そん中じゃ、俺は孤立無援でね。勝利の女神の一人もいないんだから、性質が悪い」
 起き上がりながら、孫市は一つため息をついた。
 姜維が寄越した水を受け取って、一気に飲み干し喉を潤す。本当に走った後のように、喉が渇いていた。
「そうですか。…丞相…じゃない、月英殿が、あなたに言伝を残していますが聞きますか?」
「…月英サンが?そりゃ嬉しいね」
 丞相という言葉に全てを理解した上で、孫市は頷く。女たらしの孫市たるもの、嘘とはいえ女の名前が出たら、是非など問わない。
「伊達殿が牢に篭られております。すでに数日間そのままで、古くから伊達家に仕える者以外、近寄れないので頼みます、と」
「…政宗が?」
 ふと、あの時のことを思い出す。政宗の後について、趙雲たちの元へ向かった時のこと。あの時、趙雲が曹魏から戻ったと聞いて、政宗は突然に慌しく彼の元に向かった。
 用事があったのは、趙雲ではなく真田幸村に、だったようだが。
「はい。…何かあったのですか?あの方は一国を預かった方なのでしょう」
「……あいつはね、他人より機転が利きすぎて、裏の裏かきすぎちまうんだよな…」
 姜維の疑問に、苦笑しながらはぐらかす。姜維は諸葛亮が認めるだけあって頭がいい。孫市が伝えたいことを、読み取ってくれぬものかと思ったが、そう簡単にはいかなかった。
「先ほど、関羽殿も目覚められました。関平殿も」
「…みんなぶっ倒れてたのか?」
「ええ、皆、あなたと同じように夢の話をされます」
「…そうか」
 では、他の誰もが同じ状態だと言うのだろうか。
「あの場で何があったのですか?」
「……誰かから聞いてないのかい」
「残念ながら」
「そうか…。なぁ、姜維」
「はい」
「蜀は、いい奴の集まりだな」
「………話を変えたいわけですね」
「すまん」
「いえ、いいです。わかりました」
「…さて、俺は月英サンの頼み、聞きにいくか」
「大丈夫なのですか?」
「ん、まぁ多少眩暈はするけど、それくらいだな」
 孫市の言葉に、姜維はそうですか、と頷いて後は孫市の好きにさせた。若いながらに頭のいい姜維は、若いがゆえに多少頭が硬い。特に諸葛亮の言うことは絶対と思っている節がある。間違いなく、こうしてあっさり孫市を自由にするのも、諸葛亮の決めたことだろう。
「…なぁ、姜維。あんたにゃ政宗はどう見える?」
「どう、とは」
「率直な感想」
「……おかしな人だな、と思います」
「そうか。政宗には内緒にしとこう」
 笑いながら、孫市は介抱されていた部屋を出た。
 あの場にいたのは、趙雲と、関羽と関平だった。孫市は政宗についていった。その前から、多少おかしいなと思うことはあったのだけれども。
(…どうなってんだか)
 遠呂智軍にいたからといって、遠呂智の出す技が出せるようになるものではないだろう。政宗は新しいものに対して目がないし、孫市に負けず劣らず、火縄についての知識は深い。
 だが、あの力はそういう政宗の努力で得られるものではない。
(気づいてやりゃよかったな)
 あれだけ嫌がっていた右目を、夜更けによくその眼帯を外していた。鏡を覗いていた事もあった気がする。夜更けに蝋燭の灯り一つではさして見えもしないだろうに、そんな時間に何をしているのだとは思ったのだが、簡単に声をかけられる雰囲気でもなかったのだ。
 ふらふらしながら牢の前まで。途中何人かの伊達軍の者とすれ違った。なるほど月英の言伝通り、政宗は牢に立てこもっているような状態だったわけだ。
「よう、政宗」
「…孫市か」
 出来るだけいつも通りに。いきなり質問攻めにしないように。感情を荒立てて質問攻めにしても、政宗はまともに答えてくれないだろう。
「おかげさんで、懐かしい夢を見たぜ」
「そうか」
「で?」
「なんじゃ」
「こんなとこに篭って、蜀の奴ら締め出して、何がしたいんだ?天岩戸か?」
 ここに来るまで、言われた通り伊達家の者が門番のように立ちはだかっていた。孫市は皆何も言わず通してくれたが、蜀の人間や、伊達に関係のない家の者はおそらく一人としてここまでたどり着けなかっただろう。
 あの諸葛亮までも、そうしてお帰り願ったのかもしれない。
「戯言を申すな」
「ってもな…」
「ここに、おった方がよい」
「そうもいかねぇだろ」
「適当に誤魔化しておる。孫市も手伝え。劉備あたり、適当に丸め込め」
「嫌だね。あんな見るからに善人騙したらそれこそ夢でうなされそうだ」
 趙雲や幸村も、善人といえばそうなのだが、彼らにはまだ武将らしい猛々しさがある。だが助け出された劉備は、戦っているところを見たことがないからかもしれないが、ただひたすらに穏やかで、お人よしで、善人の鑑のように見えた。
「…夢、か…」
「ああ」
「死ぬ夢じゃったか」
 政宗の言葉に、孫市は心臓が高鳴るのがわかった。
 足下すらおぼつかないあの霧がかった京の中。どこから出てきたか知れない賊が暴れ、誰から逃げているのかわからない焦燥感。
 今までその場にいて実体化していたはずの悪が、孫市の鉄砲玉一つでその命を失った。そして唐突に訪れた恐怖は、なんだったか。
 嫌な、夢だ。
「―――あぁ」
「…そうか」
「何故わかった?」
「ワシも見る」
「…おまえが?死ぬ夢か?」
「そうじゃ」
 孫市の記憶の中で、政宗が死ぬところなど見たことがない。首を傾げながらさらに問うた。
「…なんで」
「ワシのだけではない。もっとたくさん、あらゆる人間の死を見る」
「そいつぁ…ずいぶん、滅入るな」
「早く何とかせねばならん」
「何がだ?」
「死が蔓延する」
「―――…なんだと?」
 政宗の言葉は唐突だったが、あまりにも意味深で、問いたださずにはいられなかった。政宗はしばし孫市からは視線を逸らし、口を噤む。
 だがそのままうやむやに出来るような空気はなかった。
「……遠呂智は皆の死期を知っておった」
「…さすが魔王様だな」
 青い鱗の肌を持ち、凶悪な爪を持ち、左右別の色を宿す瞳を持ち、世界すら変える力を持つ。
 普通の人間が知りえない全ての人の最期というのを知っていると言われても、それについてはあまり驚く気にはなれなかった。
「それで?おまえはなんで遠呂智の技が出せる」
「孫市、出せないと思うておるだけではないのか」
「…何?」
「貴様だとて出せるものを、あれは遠呂智の技だと信じ込んでいるたけではないか?」
 せせら笑うような政宗の言葉。孫市は眉間に皺を寄せて、政宗をただ見つめるしか出来なかった。
「じゃああれは、おまえが出したいと思って出したのかよ?」
「そんなわけがなかろう」
「…待てよ。何だかよくわかんねぇな。もしもあれを俺まで出せるとしたら、それって誰でも出せるってことじゃねぇか」
「そうじゃな」
「…そ…れじゃ、待てよ。そうしたら、遠呂智は…」

「誰でもなれる」

 そんな馬鹿な、と言おうとして口を噤んだ。実際遠呂智の技を、政宗が出したのを見た。そしてもろにその技を受けて、その場にいた全員意識を飛ばしたではないか。
「…そうしたら、次はおまえが遠呂智ってわけか?笑えねぇぜ」
 もしそうだとしたら、実に野心家で死にたがりの嫌いな遠呂智様になるだろう。背も低くて、見ただけでは遠呂智と気づけないかもしれない。
 そう皮肉ろうとした。が、言葉には出来なかった。
 一つ、嫌な予感があった。
「…政宗」
「なんじゃ」
「じゃあ、俺たちが倒した遠呂智は誰だ」


 それより少し前。
 趙雲は、慌しく出立する準備を進めていた。いささか急ぎすぎている気がしなくもなかったが、元々関平を無事に送り届けられたら曹魏に戻ろうと思っていた。諸葛亮の話では、あの時あの場にいた人々は皆命に別状があるわけではないらしい。
 関平も、一度は目覚めたという。
 それに関平には星彩がついている。大丈夫だろう。
「趙雲殿」
 厳つい声に呼び止められて、趙雲が振り返れば、そこにはホウ徳が立っていた。
「ホウ徳殿。あなたが私に声をかけて下さるとは珍しい…」
 ホウ徳は、小田原城で幸村の説得に応じて反乱軍に身を寄せた男だった。元は曹魏の武将であり、趙雲はまた別のところでこの人の話題を聞いている。
 今はこの場にいない、馬超からだ。
「魏に戻られるとか」
「ええ」
 考えてみれば、趙雲の率いた反乱軍は、もともと蜀の武将が多かった。その中にあって、ホウ徳は珍しく魏の武将だった。
「某もお共させていただきたい」
「……戻られるのか?」
「某、曹操殿に恩ある身…。此処へ来た時分には、曹魏は道を誤っているように思えたが」
 曹魏に戻る、という決意は固いようだった。その目を見ればわかる。元々酷く真面目な人なのだ。だがあえて、趙雲は断った。
「…申し訳ないが、ホウ徳殿」
「……」
「今しばらくはこの蜀に…いや、劉備殿に、力を貸してほしい。あなたの人柄は劉備殿もわかって下さる。今はまだ、こちらにいていただけぬか」
 あえて馬超の名は出さず、しばらく留まってほしいと伝えれば、ホウ徳はしばし黙った後にぽつりと口を開いた。
「…趙雲殿は…馬超殿のご親友、でござったか」
 馬超という男もずいぶん真っ直ぐな人間だ。真っ直ぐすぎて怖い、というくらい真っ直ぐな人で、どういう環境にいるとこういう風になるのだろうと思ったものだったが、それは今のホウ徳を見ていればわかる。この男も、決して人と視線を逸らさない。こういう人が、昔は馬超の父を支え、僅かの間でも馬超自身を支えもしたのだ。
「…あなたの話は、彼からよく聞いておりました。曹魏に行かれたという話でしたが、それでも彼はあなたを悪く言うことはなかった。おそらく、彼も恩ある劉備殿の下へ戻りましょう。せめてそれまで」
「―――…馬超殿は某の話をしておられたか」
「ええ」
 そこではじめて、ホウ徳はほんの少しだけ表情を崩した。いつもあまり表情の変わらない男なだけに、口角が僅かに上がっただけでも印象が違う。厳しさの中に優しさまで含まれたような。
「…そうであったか。…さすが馬超殿。こちらに来られて、良うござった」
「話を聞いていて思ったことですが…馬超殿はあなたに憧れている。それは今も、です。たとえ仕える人を違えたと言っても、そういったものは変わらない」
 はじめ幸村がこの男を連れて戻ってきた時、名を聞いてすぐに馬超の元にいた男だということを思い出した。鵜呑みにするのもどうかと思ったが、馬超からは悪い話は一度も聞いたことのない男だ。信頼できる。幸村が信じたその人を見て、趙雲もその気持ちを理解した。
「……某、この軍に身を置き、多くの人々に助けられた。趙雲殿にも」
「…では、私の顔を立てて今しばらくはこちらにいて下さい。あなたがここに留まっていてくれれば、それだけで安心も出来ようというもの」
「…あまり信用されては困る。某、曹魏の武将ゆえ」
 ホウ徳なりの冗談に、趙雲は僅かに微笑んで頷いた。ホウ徳と別れ、再び出立の準備に戻った趙雲はふと手を止める。
 そうだ。考えてみれば、こうして遠呂智のせいで何もかもがめちゃくちゃになったこの世界で。
 思わぬ再会を果たすこともある。わだかまりを解くことも、出来るかもしれない。ホウ徳や馬超のように、それぞれ仕える人を違えたことを、どんな形であれ心残りにしていれば。
 それが、可能なのだ。この世界は。
 ただひたすらに悪い世界ではない。そうだ。でなければ趙雲が幸村のような仲間を得ることもなかっただろう。
 だが、何もかもを否定するほどではなくても、それでもやはりこの世界は歪だ。
 遠呂智が創ったこの世界を、望む人がいるかもしれない。それは、新たな出会いに希望を見出した人か。それとも死んだはずの人が生きていることを喜ぶ人か。
 趙雲は愛馬の前に立ち、深呼吸するように息を大きく吸い込んだ。
 たとえこの世界を望む人が多くても、たとえ趙雲たちが生きた世界が、その後に動乱を向かえてしまう事になったとしても。
 それでも。
「―――いざ」
 小さく呟いて、趙雲は馬に跨った。これから一気に、曹魏の多くがいる小田原城を目指す。


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ついに「天上の」を超えます(笑)この期に及んでまだ新しく人が出てくる恐怖。ホウが出ないのでちょっとカタカナ表記です。