「…あれでよかったの?」 暗闇の中、女の声がする。どことなく甘ったるい口調のそれは、間違いなく妲己のものだった。 慶次は、闇の中でもよく映える明るい色の髪を掻いて、頷いた。 「あぁ。呂布は…あれでいいさ。やっとこれで、戻れたんだ」 そこは何処でもない場所だった。闇の中で光はなく、目を凝らしても傍にいるかもしれない人の姿も見えない。 「あんたこそ、いいのかい?」 「…私の望みは知ってるでしょ?慶次サン」 「……そうだったな」 慶次は苦く笑った。生きるべくして生きるがいいのさ、と幸村に言ったことがある。生きることに必死で、支えがなければ生きるのすら辛い様子の彼に、生き延びようとも言った。 遠呂智は、それとは正反対だった。ただ倒される為に生きていた。ただ倒されるために、それを夢見て、自分の圧倒的な力の前に、ひれ伏しあるいは倒れていく人々を、蛇の目で見つめながら。 そんな奴には、何て言うべきだったのだろう。 妲己の望みを知っている。政宗が遠呂智軍について、戦っていた理由を知っている。 慶次は、そんな彼らをただ見ていた。呂布のように、遠呂智の側にいた方が歴戦の猛者と戦うことが出来るとか、そんな欲求はなかった。 政宗のように、遠呂智の死にたがりに対してどうこうしたいというわけでもなくて。 妲己のように、ただただ遠呂智の要求にこたえるわけでもなく。 それでも、遠呂智は慶次が傍にいることを咎めもせず、受け入れ続けていた。 たぶん、どんな理由だろうとどうでもよかったのだ。現に、董卓に対しても金を惜しまず渡していたし、呂布の好き放題を咎めることもなかった。 「…ひでえ奴だぜ…遠呂智よ」 それなのに、まだ駄目だなんて。 あらゆる勢力の前に、遠呂智は立ちはだかった。あらゆる強さの前に、遠呂智は倒れたはずだった。 なのに。 閉塞した世界は続いている。 そうだ。この世界には果てがある。走り続ければいつかたどり着く。その果てに。 それこそが遠呂智の限界であるように。そして慶次はそれを知り、安堵するのだ。 その限界が、彼が決して神ではないのだと示すようで、そればかりを安堵する。 死にたがりの神なんて、それこそ救われない。
兼続のもとを後にして、三成はまた幸村を探してふらふらと城内を彷徨った。正直戻ってきてから働き通しで身体は限界が近い。だが、幸村を探すのを後回しにしようとは思わなかった。 我ながら、末期症状のようだ。 目が自然と彼の姿を探す。赤い鎧の、その男を。 関が原のあの日、あの時だって三成は幸村を信じていた。来ると約束したら、彼は来る。たとえ今がどれだけ劣勢であったとしても、相次ぐ裏切りに打ちひしがれていたとしても。 (………俺は) 遠呂智がこの世界を創り上げ、引きずりこまれた時、三成はその現状に何の皮肉だと思った。 やり直せとでも言うのか。猶予をくれてやるとでも言うのか。 この世界は何のために出来たのだ。それを知りたくて、三成は単身遠呂智のもとへ向かった。 だけれども。 (結局、何も変われぬ) 結局、あの想いに縋るのをやめようと思っても縋ってしまう。幸村に逢わずにいれば平気だろうと思ったのに、あっさりそんな思惑を振り切って、結局彼の面影を探してしまうのだ。 だから、幸村が曹魏に訪れた時、三成は声もなくなるほど驚いたし、忘れようとした矢先だったから、困惑もした。 あの時、自分は一体どんな顔をしていたものか。
「…三成殿?」 僅か数日前のことを思い出していた矢先のことだった。今一番求めていた声に呼び止められて、三成はびくりと肩を震わせた。それから、俯いた視線をよろよろと上げれば、廊下の先には幸村が一人。 気づけば、そこは幸村にあてがわれた部屋の前だった。 (…あぁ) 「…一人か?」 兼続から幸村はくのいちのところにいると聞いていたから、こんなところで逢うなどとは思っていなかった。少しばかり驚いた。心臓が早鐘のように鳴っている。 (声をかけられただけだというのに) こんなに、嬉しい。 「はい。…少し、考え事をしておりました」 幸村の言葉に、三成はそうかと頷くだけだった。しばし沈黙が続く。そこにいるのが当然だと言わんばかりに、幸村は三成の横に立ち、並んだ。 「……考え事とは何だ?」 「…この世界のことを」 少しばかり声に張りのない幸村に、三成が気づかないはずがない。何かあったのか、と考えても浮かぶのは甄姫の痛烈な張り手くらいなものだ。 真面目なこの男のこと、その張り手一つにしても、深く考えてしまったのだろうか。 「…遠呂智を倒せば全てが終わる、と…三成殿はそう思いませんでしたか」 「…思った」 「私もです。この世界を創り上げたモノがいなくなれば、終わるのだと信じていた。ですが、そうはならなかった」 たぶん、この世界に放り込まれた全ての人が同じように思っていただろう。遠呂智を倒せば終わる。この混沌とした世界が終わる。そして元の世界に戻れるのだと。皆が皆、その為に戦っていたのだと。 「……それに、思ったのです。世界が元に戻らぬ方が、幸せな人もいるのか、と…」 「―――たとえば、浅井長政のような」 「!!み、三成殿…っ」 「驚くことでもあるまい。俺や幸村のいた頃と、浅井長政が生きた年代は明らかに違うのだ。浅井軍は単独で行動していたしな。通常ならば、信長と足並みを揃える可能性もなくはない。だが、そうしなかった」 他にもいくらだっている。三成も幸村も、明智と信長の二人の最期を知っている。だが彼らはこの世界で共に戦っている。本能寺など知らぬように。 それは、幸せと言えなくもないのではないだろうか。他にだっていくらでもいるだろう。生きていればどんな天下が築かれたか、そう思える人々が生きて自分たちと同じ今を生きている。 「やはり…さすが三成殿ですね。気づかれていたとは」 「気づいたから何だというのだ。余裕さえ持てれば、いくらでも気づくことは出来る」 思わず自嘲気味に笑った。三成にとっては、気づかざるをえない状況だったのだ。合戦の真っ只中、しかも劣勢というその中にいたのに、この世界に放り出されて。 自分が、無傷でこの場にいる違和感。あの恐ろしいほどの熱量の中にいない違和感。 死から唐突に切り離された、不思議な感覚。 「…恥ずかしながら、私は先ほど気づきました」 「……そう、か」 ならば幸村は、三成と違う瞬間を切り取られてここにいるのだろう。 「…例えば、皆が皆、この世界で生きることに満足したら…私一人、あの時に戻りたいと思っていたら。…そうしたら、何が悪なのか、と」 「…幸村は戻りたいのか」 「そ、それは勿論です。三成殿とて…」 「俺は違う」 「え…」 「俺は、戻らなくていいかもしれんと思っている」 「―――…何故、ですか」 「………」 「私は…戻ってほしいです。三成殿も、同じ気持ちでは…」 (滑稽だ) 三成は笑い出しそうになるのを何とか堪えた。幸村が言うそれは、志の話などの類と同じ。友人だからというそれだけの理由だろう。 そして、三成が負け戦を今まさに味わおうとしていたなど、夢にも思っていない。 縋るような不安に揺れる目で見つめられている。無視をしてしまえばいいのに、おかしいくらいそれに動揺している。 そんな風に見つめないでほしい。ずっと抑えていた、ずっと忘れようとしていた、その感情が制御できなくなってしまう。それでは元いた世界と同じことだ。 なのに。 「…てっきり、戻りたくないと言うと思っていた」 「…何故、ですか」 「この世界で新たな出会いがあっただろう。それを、なかったことにしてもいいのか。幸村」 「…そ、れは…」 「趙雲とも、蜀の奴らとも、二度と逢うことは出来なくなる。それでいいのか。俺などより…」 醜い。 酷い嫉妬だ。 そこにいるのがわかる、とか、相手の動きがわかる、とか。そんな姿を見せ付けられて、ずっとずっと。恥ずかしいくらいに、嫉妬していたのだ。聡い人間がここにいたら、気づかれてしまうくらい、今の自分はわかりやすく嫉妬に顔を歪めている。 「私は」 しかし幸村はそんなこと何も言わなかった。じっと耐えるように、拳を握っている。俯いていた。 「私は…それでも。戻りたい、です」 「……」 「趙雲殿も、同じように言うはずです。たとえ我々が二度と逢うことがなくとも…」 「もういい」 「…三成殿」 「幸村。俺は…、俺は」 胸が痛む。嫉妬に焦げたのか、それとももっと別のものか。もう判別がつかない。三成は怪我を負っている二の腕を強く握った。傷の痛みに一瞬意識が引き攣れるようにして真っ白になる。しかし痛い、と感じるのはもっと別のところのような気がした。 あの関が原。あの合戦場。あの戦の熱が思い出される。死に直面したあの時のような。 その熱量と、胸の痛みが、まるで蛇がのたうつように感じられる。 「…俺は」 「みつ…」 趙雲もそう思っているに違いないとか、そんな言葉はもう聞きたくなかった。 幸村は言ったのだ。それでも、あの世界に戻りたいと。 「証が欲しい」 「…証?」 「今から俺が何をしても、おまえは同じことが言えるのか」 三成は幸村の手をとった。何かを感じているのだろう。引け腰の幸村ににじり寄って。親友というにはあまりにも近すぎる距離を感じて、幸村が一歩、また一歩とあとずさる。それを追いかけて、三成も一歩、また一歩とにじり寄る。 「み、三成殿っ」 慌てる幸村の声。均衡を保てなくなった身体が、傾いだ。 「わ…っ」 部屋になだれ込み、それと同時に尻餅をつくような格好になった幸村を、三成はそれでも追いかけた。手はとったまま。この手を振り解いて逃げてしまえばいいものを、幸村はそうしない。 畳の上、覆いかぶさるような格好になって、はじめて幸村は三成の意図を汲み取ったようだった。 「…み、」 三成はじっと幸村の双眸を見つめた。幸村が視線を逸らす。頬が僅かに赤らんでいて、三成の中で僅かに満足する。 獲物を目の前にした獣のように、三成は笑った。 ―――視線を逸らした幸村は気づかない。三成自身も気づかない。 そうして獣のような三成の瞳が、片方だけ一瞬赤く光った。
|