「…お帰り、幸村様」 幸村がのろのろと廊下を歩いていれば、予想以上にしっかりとした様子のくのいちに迎えられた。その場にいたのは長政と市で、どうやら二人が甄姫が曹丕につきっきりになった後ついていてくれたらしい。 どうも意識を取り戻し、逃げ出そうとしたところを市に見つかってしまったらしい。くのいちはどことなく居心地が悪そうだ。申し訳ない、と二人に頭を下げれば致し方のない事、と市がひっそりと笑った。 「大切な方がそのような姿で戻られれば、不安になるのは当然のこと…。私には、甄姫殿の気持ちはよくわかります」 甄姫はまさか曹丕が意識不明で戻ってくるなど思ってもいなかっただろう。彼女に頬を打たれて、幸村にはそれがよくわかった。 「…甄姫殿には申し訳ないことをしたと…」 「聞けば呂布が現れたというではないか。幸村殿に何の咎があろう」 長政が憤慨した様子で言えば、その様子にくのいちが肩を竦める。そうしていると彼女はいつもの通りのように見えたが、決してそうではないのはよくわかった。顔色が悪い。幸村はそれに気づいていたが、くのいちがそれを言ってほしくなさそうなのもわかったので何も言わなかった。 「いいんですよぅ〜。幸村様はそういう目に遭った方が!」 長政の言葉に恐縮する幸村に、くのいちが大きな声で忍びらしからぬ事を堂々と言い放つ。ぽかんとした様子の長政に、くのいちはにやりと笑った。 そんな二人をおいて、市が静かに幸村に問う。 「打たれた頬は痛みますか?」 「…はい」 「痛みを感じるのは生きている証拠。…痛みを受け止めて、考えねばいけませんよ」 静かな声音だった。その声に、くのいちの表情から笑みが薄れ、長政が神妙な面持ちになる。幸村は、ただ黙ってそれを聞き、頷くしか出来なかった。 「…はい」 「打った方だとて、その手は痛むのです。甄姫殿はそうしなければどうしようもなかった…。それほど曹丕殿を想われている証です。あなたはもう少し、よく考えて動きなさい」 市の言葉は重かった。その声音に、幸村はあらゆる事に思いを馳せる。例えば、元の世界のこと。幸村はこの二人の結末を知っている。幸村が生きた時代には、長政も市も、いわば過去の人だ。 だが、この世界でこの二人は幸せそうに生きている。 市から厳しく優しい言葉を受けながら、幸村は考える。 この世界に来て、この二人を見て、三成はどう思っただろう。どう考えただろう。例えばこの二人の悲しい結末を知る上で、それでも彼らは遠呂智とは道を共にしなかった。長政は長政で反乱軍として遠呂智軍と戦っていた。 (…いいのだろうか) 遠呂智が世界を覆した。その為に悲しい結末を知らない彼らは幸せそうに生きている。遠呂智は倒すべきものとして倒した。しかし世界は元に戻らない。だがそうして戻らないことに違和感を覚える自分とは別に、この世界でも幸せであるならそれでいいという人がいるのかもしれない。 「どうしたのん?幸村様」 「……いや」 幸村はなんでもない、とかぶりを振った。 遠呂智がこの世界を創り上げてからはずっと、遠呂智を倒すことばかりを考えていた。 三成や兼続や、今まで共にいた人々と別々になり、何もかもがそれまでと違うところに放り出されて。 ふと慶次の言葉を思い出す。趙雲が何故おまえほどの男が、と言った時のことだ。慶次は笑った。笑った後に、怒りをはらんだ口調で言ったのだ。―――遠呂智が悪で、他のやつらはみんな善かい?そんな単純な目で世の中を見てんなら、目ぇ覚ましな! 知っている過去がある。その過去の話で語られる人がいる。だがこの世界では全ての人の生死も覆された。よくよく考えてみればそれはいかにも不気味なことだ。 そうだ。そもそも趙雲や、蜀の人々など書物の中で読むような人々だ。それが今生きていて、目の前にいる。この世界に来て最初、そのおかしな現実に周囲は混乱を極めた。だが気がつけばそんなことごくごく当たり前になっていて、長政や市のように、幸村が生きている時代には語られるだけの人だった二人も、こうして目の前にいる。 これが今の現実だ。 どういう基準があって、自分たちがこの世界に呼び込まれたのか、それは遠呂智にでも聞いてみなければわからない。 だが確実に、この世界にいる方が幸せな人もいるだろう。 「…どうしました?」 市が黙り込んでいる幸村を覗き込む。そうされて、ようやく幸村はいいえ、ともう一度かぶりを振った。 「…申し訳ありません。少し、休ませていただきます」 「…ええ。彼女は、私が看ておりましょう」 市の言葉にくのいちが、いいですよぅ、と騒いだが、聞き入れられる気配はない。助けてよ、と幸村に矛先が向いたが、顔色が悪いくのいちを放っておけばどこへなりとも飛び出していってしまうだろうから、むしろちょうどよかった。 「大丈夫か?」 「はい」 長政の言葉に幸村はそそくさとその場を後にした。それ以上、あの二人の前にいるのが怖かった。どう考えるべきかわからなくなりそうで。 知らないから、彼らは遠呂智に抗った。だが例えば知っていたらどうだろう。知っていて、抗えるだろうか。先の世界に、二人が幸せに暮らす世界はないのだとしても。 生も死も、生きていた日々すらも。 遠呂智は覆した。世界の何もかもを巻き込んで。 「………」 三成はわかっていたのではないだろうか。その矛盾に。だから遠呂智のもとに、妲己の配下になったのではないだろうか。 幸村はそれまで歩いていた廊下を振り返った。己一人が歩いてきた廊下には、他の誰の気配もない。 もし、世界が元に戻ることを望むのが自分たった一人だったとしたら。 (そうしたら…何が悪で、何が正しいことなのか…) ふと慶次の言葉を思い出す。 慶次は、もう気づいていたのではないか。この世界が出来た、その時に。
政宗との話を終えた趙雲を待っていたのは、諸葛亮だった。 「どうでした?」 「……曹魏に、もう一度向かおうと思います」 政宗の右目が、失っていたはずの右目が何事もなかったようにそこにあり、赤い光を放っていたということは伏せておいた。政宗があの場で使った力も、それ自体が遠呂智の技そのものだったが、それを見た人間は皆昏倒しており、まだ諸葛亮たちは何が起こったのか、詳しいことを何も知らない。 話さずに済むことならば、話さないでいた方がいいような気がした。 「…そうですか、なるほど」 趙雲の言葉に、諸葛亮は深く頷いた。どんな事でも、諸葛亮という人の前で隠し事があるとそれを隠すのに苦労する。彼ほど聡い人間では、どんな会話の中からも、相手の状況を判断できてしまうだろう。 実際、今の趙雲がその状態だった。 「幸村殿の話になりましたか?」 「………」 「政宗殿との会話の後に、曹魏に戻るといわれてはそうとしか思えませんよ。趙雲殿、話してはいただけませんか?」 「……何をどう話せば良いのか、まだわからないのです。申し訳ない…」 政宗の右目が赤く光っていること。遠呂智が使う力を使った政宗。 遠呂智が創ったこの世界を、遠呂智そのものを本当に倒せるのが幸村だ、と。 (…そんなことが本当にあるのだろうか) 趙雲の印象にある幸村は、平時はさほど目立たないが、いざ戦場に立てば燃える炎のような人だ。 その彼が遠呂智を本当に倒すのに必要だといわれても、話が唐突すぎてついていけない。政宗の言葉はそれらしく聞こえもしたし、彼自身が嘘をついているとは到底思えなかった。 だが。 「…確かめたいのです」 政宗の言葉は真実なのか。 その為には曹魏に戻らなければならない。 嘘をついているとは思えない。ならばそれなりに証拠があってそうしていると、そういうことなのだろうが。 「…趙雲殿。私は常々思っていたのですが…」 そんな趙雲の様子に、諸葛亮は何気ない風に口を開いた。 「…?」 「この世界は生死の境が曖昧だと」 唐突に話の矛先が変わったことに、趙雲は一瞬目を白黒させて、それからようやく先を促す。 「境が…」 「ええ…。そもそも我々と幸村殿をはじめとする彼らは、共有する記憶がありません。新しい世界ではじめて共有することになったのです。他の方々と話していてわかった事ですが、私はずいぶんと名を知られ、警戒されておりました。なかなかに心外ですが…」 諸葛亮が珍しく言葉を尽くして語ろうとしている事に気がついて、趙雲はじっと彼を見つめた。羽扇が彼の動きにあわせてふわふわと揺れている。 この人は、他の誰よりも聡い。その為か、普段はあまり言葉を尽くそうとしない。彼が普段よりも多く言葉を用いる時は、戦の前であったり、今後についてを語る時くらいのものだった。 彼が信じる人々を導くための、道を作る時だけ。 「私が何をしたから知られているかは私にはわかりません。しかし彼らは私の名を知り、私の成したなんらかを知っている。名が一人歩きしているというのとも違う…。私は、私の知らないところで名を馳せ、彼らがそれを知っていたと、そういうことです。しかしこの世界で私の成した事などそう大した事でもありません。ですからこの世界が出来てからの話ではない。…私は、私自身が知りえない私を、私が知らぬ人々が知っている不思議にずっと付きまとわれています。…わかりますか?」 「……軍師殿が知らない、軍師殿を皆が知っている、と」 「そうです。それこそが、政宗殿や孫市殿…彼らが私たちが生きるあの時よりも、後に生きた人々だという証でもあります。それゆえに、恐ろしい話ですが…私の死に様を、誰かが知っているということ…」 その言葉に、趙雲はハッとした。今の今まで気づいていなかったというのもおかしな話ではあるが―――趙雲も、そしてたぶん孫市や幸村も、それぞれの生きていた時の話はするものの、自分たちの生死、生き様、そういった事を口にすることは自然に遠慮していた。無意識に考えないようにしていた。 打倒遠呂智の目的のみを見据えて、他の事から目を逸らしていた。 「…そう…ですね。言われてみれば」 「趙雲殿とて同じことです。あなたの死に様も、誰かが知っているかもしれない。あなたが成した、今のあなたが知らないことを、知っている誰かもいるかもしれない」 「…そう考えると…この世界はなんと脆い」 「ええ…。遠呂智が創ったこの世界は、知ろうと思えばいくらでも先を知ることが出来ます。我々はこの世界で打倒遠呂智と心の内に掲げてきました。この世界における絶対悪だと。しかし例えば、我々の中に非業の死を遂げる者があった場合…その死を望まぬ誰かがいた場合。…この世界はなんとも暖かい、優しい世界なのでしょう」 「………」 「遠呂智は倒れ、世界は戻らない。目的を達成し、失った我々は心に余裕が生まれ、不安も生じてきます。当然、今まで気づかなかった事に気づきはじめる。…趙雲殿」 「は、はい」 「お気をつけなさい。この世界は、遠呂智の創り出した世界。そして我々を試す舞台です。遠呂智はいなくなったはずですが…私には、まだこの世界のどこかにいて、我々の行く先をあの蛇の目で見つめているような気がしてなりません」 「…我々を試す舞台…」 「大げさかもしれませんが」 「…いいえ。そう考えると…今までの私の疑問も…」 そう、まるで解けていくようだ。 遠呂智の消えた世界。なくならない世界。その力を受け継いだような政宗の存在。そして前田慶次の動向。 そして。 政宗に顕現した、遠呂智の力で見たあの光景。 知らないはずの自分が、やけに生々しく鮮明に見えた。その言葉が、滲む闘志が、自身のものであることははっきりとわかった。たとえばもしあれが、先の世で自分が起こす行動であるとしたら。 「…ありがとうございます。軍師殿」 礼をかえせば、諸葛亮は薄く微笑んで首を振った。 「私は、ただ私の思うところをあなたにぶちまけてみただけですよ。言葉にする事で整理されることもありますからね」 そしてその言葉を聞くことで、光が見えることもある。迷いを断ち切ることもある。趙雲はやけにすっきりとした気持ちで、諸葛亮を見つめた。 「…正直、何もかも半信半疑でしたが…迷っていたところでどうにもならない!確かめてきます!」 「…では、殿にはそのように伝えておきましょう」 ふと趙雲は後ろを振り返った。その視線の先には政宗が自ら入った牢へ繋がる廊下がある。 「…軍師殿。政宗殿のことですが…」 「心配せずとも…。気が済むまでそちらにいていただきます。押しても無駄でしょうからね」 諸葛亮の言葉に、趙雲はしばし考える。確かに政宗が自らあの牢に入ったのならば、自ら良しとしない限り出てくることはないだろう。別に誰かに押し込められたわけではないのだ。 おそらく、彼はある程度己に宿った力に畏怖を抱いている。 遠呂智の力。それは持て余すほどの力だろう。あの時、彼が使った力は絶大で、そして暴力的だった。有無を言わせぬ力だった。 牢にいる限り、たとえ同じようなことが起こったとしても被害は少なく済む。己の部下である伊達軍の面々に牢までの道をかためて、出来る限り誰も寄せ付けず。 「……孫市殿が、目覚められたら教えてあげてほしいのです。街亭で孫市殿と政宗殿は互いに深い理解がある、と感じました。彼の意志を和らげる事が出来るかもしれません」 「…なるほど。わかりました」 よし、と趙雲は一人己の意志を確かめるように頷いた。 意外にも早く戻ることになった気がする。関平たちがまだ意識をはっきりさせていない今、すぐに出るのは少し気が咎めたが、今はそれよりも政宗の言葉の真偽の方が気になった。 もし、政宗の言葉が本当ならば、近く何かが起こる。 確信に近いものを感じながら、趙雲は再び一歩を歩み出した。
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