幸村の怪我は思ったよりも重いものだった。 (今後、どうするか…) 今、焚き火の見張りをしているのは趙雲一人だ。 夜空に浮かぶ月が、もう少し傾いたら三成を起こすことになっている。兼続は相変わらず目を醒まさない。関平は食事をしてからはまたこんこんと眠り続けている。曹丕は魚をあらかた焼いたら満足したようで、食事をとってすぐに眠りに就いた。幸村は三成に半ば強制的に安静を強いられて眠っている。起きているのは趙雲一人だった。 関平はいつもとても明るくて素直な青年だ。関羽のことを心から信頼し尊敬しており、あれで本当の親子ではないのだと言われても疑ってしまうくらいだった。その彼が、食事を摂っている間ろくにものも言わず、顔色は酷く悪いときたら、よほどのことがあったのかと思ってしまう。 (一度、戻るべきだ) 蜀の面々のところに戻り、とにもかくにも関平を関羽のところへ送り届けねばならない。その時は、幸村はどうするだろうか。 (…彼はここから離れないだろうな) 幸村の口から三成の次によく出た名前はいくつかある。「武田信玄」「直江兼続」だ。幸村が昔仕えていたのが「信玄」で三成と共に義の誓いをしたのが「兼続」だった。その彼が目を醒まさないとあれば幸村が動くことはないだろう。 こうやって、もとあった姿に戻っていくのかもしれない。 新しい世界で、新しい生を受けたと言われればそうなのかもしれない。新しい生き方をすることも出来る。仕える主をかえ、仲間をかえ、そうして生きることも出来るだろう。 だけれども。 (……) 幸村がもとの親友たちと再会を果たし、そうしてそこへ留まるというのを趙雲は止められる術はない。もともと出会う予定のない、出会うはずもない人々だ。孫市の言うことには、日のもとの国から来た人々は皆、趙雲たちを名前だけは知っているという。実感はまったく沸かないが、彼らにとって趙雲たちは書物の中の人間だ。 だが、こうして息をしている。声を聞いている。その武勇を目の当たりにし、その考え方を、生き様を見て。 趙雲は一つ、大きくため息をついた。疲れているのかもしれない。 (寂しい、などと) 出会わなければよかったとは思わない。この世界がこのまま続けばいいとも思わない。あるべき姿に戻れるならば、戻れればいいとも思う。 ぐちゃぐちゃと考えて、趙雲はもう一度ため息をついた。 ―――と。 「悩み事ですか?」 びくり、と趙雲は肩を震わせた。自分の考えに没頭していて、幸村が目を醒ましたことに気づいていなかった。 「幸村殿…。安静にしなければ」 痛みを堪えながら、幸村が上半身を起こす。 「大丈夫です。…いえ、そう言うと三成殿に叱られてしまいますが…。痛みはありますが、そのせいで目が冴えてしまって眠れぬのです。黙っていては痛みも散らせませんし」 実はずっと眠れず寝たふりをしていたのです、と幸村は照れたように笑う。幸村のような体験は、趙雲自身にもある。怪我をして、眠れている間はいいが、いざ目を醒ましてしまったり目が冴えてしまった時には誰かが周囲にいて、話ができた方が気がまぎれた。 「…幸村殿。私は一度、殿のもとに戻ろうと思います」 「え…」 「関平殿の様子が気がかりなのです。殿のもとには、彼の父親の関羽殿もいらっしゃる」 ああ、と幸村は頷いた。関羽は江戸城で一度刃を交えて以降行動を共にしている。趙雲が関羽や張飛、そして諸葛亮といった人々に対して礼儀を尽くしていたのを思い出した。 「ですから、一度お別れですね」 「…そう…ですか」 幸村の視線が趙雲から焚き火へと落ちる。その様子は、幸村が声をかける前のため息ばかり漏らしていた趙雲自身にも重なる。 だから趙雲は、笑った。 「寂しいですね」 「…はい」 「ですが、必ず戻ります」 趙雲の言葉に、幸村は再び顔を上げた。炎に照らされた顔はすがすがしいほどの笑顔で、幸村は思わず目を瞠る。趙雲はそういう表情をすると、三成などとは種類の違う整った顔立ちなのが際立った。 「はい」 自然と幸村も笑顔を浮かべた。 ぱち、と焚き火が小さく音を立てる。趙雲は炎を絶やさないよう、小枝で炎を刺激する。ぱちぱち、とさらに音を立てる炎を見つめていると、三成が身じろいだ気がして、趙雲は少しばかり苦笑した。 翌日。趙雲は関平を連れて出立した。 空にはあの紫の光はない。いつも通り、青空が広がっている。嫌な風が吹くこともない。おかしな気配もない。 幸村は、趙雲たちが消えた方をじっと見つめていた。 その背中が、寂しそうに見えて三成は内心複雑な気持ちでそれを見つめる。 しばらくそうしていたが、一向に幸村が動こうとしないのに業を煮やして、勢いで幸村に話しかけてしまった。 「ついていかなくてよかったのか」 第一声からしてどことなく不機嫌なその声に、幸村は一瞬驚いたようだった。ああ失敗した、と思うがもう後には引けない。まともに幸村を見ることが出来なかった。 「兼続殿を置いていけませんよ」 「…そうか」 では兼続がいなかったらついていっていたのか、とそんなことを口にしかけて、三成はどうにか堪えた。 自分の考えることの浅ましさに嫌になる。 「…あと数日もすれば、張遼が援軍を連れてここにくる手はずになっている」 「張遼殿が?」 「俺たちのみで行く時にばれてな。曹丕の立場を考えれば仕方がないとも言えるが」 その際、では支度を整えて援軍に向かいましょう、と張遼は妥協できるギリギリのところを提案した。とにかく三成も曹丕も早く合肥新城に行きたかったこともあり、一も二もなくその提案を受けたのだ。 「そうでしたか…」 「おまえ一人のために大事だ」 「も、申し訳ありません」 少し強引な言い方ではあったが、幸村は素直にその言葉を受け止めてしまったようだった。もう少しあの時冷静に考えていれば、曹丕を連れず、三成と趙雲だけで幸村を追いかけるでも良かったはずだ。曹丕は曹魏にとって大切な存在である。もとより曹丕はどちらかといえば後ろに下がって全体を見渡すところにいるべきなのだ。 「…あの、三成殿…」 「なんだ」 幸村は何かを言いかけて、しかし何事か考えて再び口を閉じてしまった。 その態度に少しばかり苛立って、三成はもう一度問う。 「何だ」 「…そ、その。慶次殿…なのですが」 「ああ」 三成は内心で舌打ちした。おそらく幸村は、今本当に言いたかった言葉を飲み込んで別の話題を出してきた。ほんの少し早口になっているせいで、そんなことがよくわかる。が、深く追及はしなかった。 「私の怪我の大部分は、一度だけまともに攻撃を受けてしまった時のものです。あの時、慶次殿は…遠呂智のような技を」 「―――…あの目の色とも関係があるやもしれんな」 遠呂智のような目の色と。 遠呂智の出す攻撃を繰り出す慶次。
―――アンタは、後悔するぜ 何に対する後悔だと言うのか。 慶次の言葉はあまりにも抽象的だった。信じるに値しない。占者が使うような曖昧な言葉だった。 何が見えていて、そう言ったのか。 そうやって黙り込んでしまえば、しばらく幸村はちらちらとこちらを気にしていた。言うべきか言わざるべきかを延々と悩んでいたようで、ようやく決心をつけたのはだいぶ経ってからだった。 「…あ、あの」 「…どうした」 「…その時に…私の中に、いろいろな光景が見えたのです。よくわかりませんでしたが、その中で三成殿の姿がありました」 「…俺が?」 何を言い出すのかと思えば。三成は反応に困ったまま幸村の言葉を聞いた。 「何なのか、わからなかったのですが…。三成殿の演説する姿があったのです」 「―――…俺が?」 「ええ。兵の前で。私たちがその後ろに立ちそれを見ている。三成殿はその場にいたすべての人に注目されておいででした」 「それで?」 「…いえ。その姿が、あまりに堂々とされていたので。何故だか酷く嬉しかったのです」 「……そう、か」 「…えぇ。出来るならば、本当にこの目で見たい。この耳であの言葉を聞きたいと思うようなお姿でした」 「………」 幸村は僅かに頬を染めている。そんなに言われるほどの演説?と三成は首を傾げた。「この目で見たい」と言う以上は、幸村はその光景を見たことがないのだろう。が、三成自身にもわからないことだった。 幸村の様子では、ずいぶんはっきりとその様子が見えたのだろうが。 一体何の光景だったのか。 「それ以外に見れたものはあったのか?」 なにげなくそう問えば。 「…い、いえ。それ以外には…」 今の今まで興奮気味に語っていた幸村の様子が一変した。あからさまに視線が泳ぐ。その様子に、三成は眉を顰める。 挙動不審になるということは、なにか他にも見たのだろう。 だが、言えないような内容で。 「………」 三成にとってはそちらの方がよほど気になった。が、幸村の様子にどういえばいいかもわからず口を噤む。 「…そろそろ、兼続の様子を見に行くか。曹丕に任せたきりだ」 「…はい」 幸村は話が変わったことにあからさまに安堵したように頷いた。 ―――兼続は城の中にいた。 天守閣に一人。攻め寄せてくる六文銭を、その天守から眺めている。 天守には他にいるべき人はいなかった。いなくてはならない人はその場から逃がしてある。城攻めだ。当然彼らは天守閣を目指すだろう。 そうして侵入してきたところを、後続を断つために罠を仕掛ける。 分断されたことに対する混乱のうちに、城に火を放つ。城の目立たないところに、油壺を多く設置させた。燃え移るのは早い。 決定的な人材を失った東軍の為。勝利の道の途絶えた彼らに、何とかその勝利を掴ませるため。 ひいては、この身を覆うような不義に何もかもが手遅れになる前に。 何とか終わらせたかった。 (早く、来い。幸村) そう思った瞬間、周囲の光景が切り替わった。 上杉の兵は奥に潜ませている。 「本気か?」 「あぁ。俺ァそういう策だなんだってのがわかんねぇからな。まずは運試し、といかせてもらおうか」 そう快活に答えたのは慶次だった。憂いごとなど何もない。いつもの様子。いつもの豪胆な。 「しようのない奴だ!」 兼続の言葉に、慶次は笑って松風を走らせた。彼らを中心に風が起こる。 慶次が走る先には、鉄砲隊が待ち構えている―――。 ぱ、とまた景色が変わる。 大阪城に築かれた砲台。真田丸と呼ばれたそこに兼続は陣を張っていた。 そして幸村に対面し、その真っ直ぐな視線に晒される。 居心地が悪かった。 この真っ直ぐな友人に対して、なぜこうも自分は真っ直ぐであれなかったのか、と。 その気持ちを抱えて、幸村の槍にかなうはずがない。 土に手をつき、殺せ、と言った。 「本当に、らしくなくて見てられないな」 幸村が誰かの言葉をなぞるように言う。 「あなたは私の横で理想を語っていてください!」 ぱ、とまた景色が変わった。 真っ暗だった。 「…どういうことだ?」 変わっていく景色。光景。その場にいる人々。どれも兼続の知らない光景だった。しかし答える者は誰もいない。 誰もいないのか。足下すらおぼつかない暗闇の中、兼続はせめて気配だけでも探ろうとする。 ふ、と誰かがすぐそばを通りぬけたような感覚があった。 そして聞こえてくる声。
―――ちゃんと殺して 女の声だった。 聞いたことのあるものだ。少し高い声。そうだ。戦場で聞いた記憶がある。 「…妲己?」 しかし姿は見えない。気配はあるが、あまりにも闇が深くて隣にいる者すらわからない状態だった。 ―――何も残さないで 「どういうことだ!」 ―――あの人の記憶も、感情も、存在も。そうしないと…強い思いが、あの人を生殺しにして、生かしてしまう。 「…どういう…」 どういう事だ、ともう一度叫ぼうとした時だった。 兼続の周囲に、おそろしい勢いで死の瞬間の光景が並ぶ。 幸村が家康を目前にして倒れる姿。三成が斬首にされる瞬間。謙信が、信玄が病に倒れる。左近が戦場で倒れていく―――。 そして。 兼続が、炎に巻かれながらたった一人で死ぬ瞬間。 「…ッ」 その目で他人のように自分の死の瞬間を見つめる、というのはどんなに神経が太かろうと出来ることではない。視線を逸らした。何のためだ。何のためにこんなものを見させられている。 「…っ、妲己よ…!私に言いたいことがあるならば出てこい!」 途端、兼続の周囲で見えていた人の死ぬ瞬間がぶつんと音をたてて消えた。 唐突に風が吹き、視界を持っていかれる。兼続が見たのは、その風の中。たった一人で舞う女。 「…阿国殿?」 明るい色の衣装が、花の色をした番傘が、くるりと舞い、その手がこちらに伸びる。 ―――可哀想に…うちが案内しますよって、根の国に帰りまひょ 阿国の言葉。どこかで聞いた気がする。兼続は必死に混乱する頭で考える。思い出せ。あれはいつ聞いた言葉だった。誰に対する言葉だった。根の国?この世のものではない? そんなもの。 (そんな者は、一人しかいないではないか…!) 兼続は唐突に気配を感じて振り返った。 そこにいたのは、間違いなく。 「遠呂智…!」 そして世界が暗転する。
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