関平は一度振り返った。もちろん誰もいない。 兼続を一人残してだいぶ奥まで来てしまったが、大丈夫だったろうか。今更になってそんなことが脳裏をよぎる。 唐突に顔色の悪くなった彼は、本当に一歩も動けそうになかった。 だが、兼続がそこで諦める気もなさそうで、だからこそこうして関平一人でここまで来たのだが。 誰かの背を追うなと言われたことをふと思い出す。 遠呂智の待つ古志城を前にして、信長に言われたことだ。己の父があまりに偉大だった為に、そして信長という人の底知れぬ力に、関平はいつも付き従っているような状態だった。 だが信長にあの場でそう言われて、関平は今まで抱えていた何かを突きつけられたような感覚に驚いた。 だから、信長から離れ、星彩たちのいるはずのところへ戻ろうと思ったのだが。 (それが、曹魏の城にもぐりこんでいるのだから…) どうにも流れに逆らおうとしない己自身に腹が立つ。 本当はどうすべきだったのだろう。兼続が曹魏の城へ行くと言い出した時に、その場で別れているべきだっただろうか。 そう思い、ふと顔を上げた瞬間だった。 ちらりと誰かが歩いていくのが見えた気がした。 「…っ!?」 一瞬、本当に一瞬だった。華奢な身体が見えた気がした。 「…せ、星彩…!?」 今までになく、心臓が跳ねたのを感じた。 何故ここに、という疑問が口をついて出そうになった瞬間、関平は走り出した。その時には兼続のことなど忘れてしまっていた。 もつれそうになる足で必死に走り、星彩らしい誰かが消えた廊下の先へたどり着く。慌てて消えた方を見れば。 「関平?」 「……っ!」 そう遠くないところに、星彩がいた。 何故ここに星彩が、と思う心と、逢えた、という思いがごちゃまぜになって、関平はうまく言葉が紡げない。口をぱくぱくと動かしていれば、毅然とした様子の星彩が落ち着いた足取りで歩み寄る。 「関平、無事だった?」 「…せ、星彩こそ…よかった」 その凛とした様子に、関平の胸が温かくなった。 そうだ。星彩は華奢な身体をしていて、なのにいつでも背筋をピンと伸ばして立っている。表情はいつだって読み取れないくらいの無表情。だがいつだって彼女は真っ直ぐに、話す相手の目を射るように見つめるのだ。 「よかった…星彩」 だがその瞬間だった。 「誰と話している?」 慌てて振り返れば、そこには兼続がいて。 「あ、か、兼続殿」 星彩がここに、と言おうとして、その言葉は兼続の眇めた目に見据えられて行き場を失った。そうしているうちに、兼続が口を開く。 「よく考えろ、関平殿。この城には誰もいない」 何を言っているんだ、ともう一度星彩の方へ向かい合おうと振り返る。そこには変わらず星彩が佇んでいるはず、だった。 だが、振り返っているべき場所に誰もいないことに、関平は息を呑んだ。 「………」 「遠呂智は常々おかしなことをするものだ。前からそうだったろう」 「…幻影…でしょうか…?」 「そういうことだ。たぶん、一番逢いたい人物を投影するのだろうな」 そんな、と言おうとして関平は口を噤んだ。確かにそこには星彩がいたのだ。遠呂智が人の心を読むことが出来るというならば、見透かされていたということなのかもしれない。 「気落ちする必要はない。遠呂智が不義なのだ」 兼続の言葉に、関平は心持ち落ちていた視線をようやく持ち上げた。兼続の顔色はまだあまり良いとは言いがたいものだった。 いつの間にここまで来ていたのだろう。気配も感じなかった。 「…兼続殿、まだ顔色が良くないようですね」 その言葉に、兼続が笑う。 (…あれ?) 星彩の姿を見つける前に、関平は一度自分の来た道を振り返っている。合肥新城は広く、関平はその時だいぶ奥まで来てしまったと少しばかり後悔した。その後すぐ、星彩を見つけた。 「……兼続殿」 何だろう。嫌な予感がする。 「誰が兼続殿?いい加減目、醒ましてよねぇん」 「…っ!?」 ぱん、と唐突に顔を叩かれた。叩かれた瞬間、今まで見えていた世界が唐突に明るくなったような気がして、瞬き一つ。そして、ようやく自分の目の前にいるのが誰なのかを知る。 「……だ、誰だ!?」 「寝たふり君には言いたくないよ〜ん」 「…あ!」 思い出す。 野宿したあの時、気がつけば寝てしまっていて、誰かの話し声で目を醒ました。何か重要な話をしている気がして、起き上がる機会を失ったまま目をつぶっていた。あの時、兼続と話していた女性だった。 「ど、どうしてここに」 「アタシはお仕事〜」 誰に頼まれての仕事だとかは、彼女は一切口を開こうとしない。軽い足取りで彼女はひょいひょいと先へ進んでいく。 今まで見えていた、星彩も兼続も、全て幻影。 「……」 「にゃはん、アタシはほんものだからねぇ?」 「…本当に?」 「にゃはは。だってアタシ、こっち来てから遠呂智とか妲己とかに悟られないようにしてたもんねぇ〜」 口調も身のこなしも軽くて、関平は対応に困りながらついていく。彼女はこの先、玉座がある広間へ向かっているようだった。 「それはどういう意味です?」 「そのまんまだよん」 「何故そんなことを…」 「そう言われたから!」 誰に、と聞こうとした瞬間だった。静かに、と目の前の女―――くのいちが鋭く小さな声でそう言う。 すぐそこは玉座に続く広間だ。 緊張しているその姿に、関平も自然緊張が走った。おそるおそる広間を覗けば―――奥行きのある広間の、玉座に一人。 誰かがいる。 「…あれは」 知っている。あの男。見た記憶がある。記憶の糸を手繰り寄せて、思い出したのは五丈原。 一度見たら忘れないような男だ。名前までは記憶していないが、彼は。 「何故…ここにいるんだろう」 関平はあの五丈原で、信長の脇に控えていた。その時、慶次と信長が邂逅した時に交わした言葉を覚えている。 ―――遠呂智にうぬ自身の姿を見たか、慶次? その言葉に、慶次は笑った。笑った顔は、その姿形とはあいまって、やけに寂しく感じられた。その人が。 たった一人、玉座に座っている。 「誰を待ってるんだろう…」 関平の呟きに、くのいちは答えなかった。 互いが黙り込んだ矢先、くのいちは潜むのをやめて唐突に玉座へ進む。関平が止める間もなかった。 「よぅ、お嬢ちゃん」 「おひさしぶりなのだ!なにしてるのん?」 どうやらくのいちと慶次は知り合いらしい。ただ、親しげなのはくのいちがもともとそういう性質だからなのか、関平にはわからなかった。出ていこうかと思ったが、何故だか足が動かない。 「待ってんだ」 「ふぅん。誰を?」 「さぁ、誰かな」 「教えてくださいよぉ〜」 腹の探り合いのような会話が続く。会話は聞こえる。彼らの姿も見える。しかしその場に、自分は介入できない。まるでのけ者にされたようだ。何か別の見えない力が、そこに存在していて、関平の足を縫い付けるようにしている。 「嬢ちゃんこそ、なんでここにいるんだい?」 「それは、聞かなくてもわかるんじゃないですかぁ?」 「はは。そうだなぁ。幸村は元気かい?」 (幸村?…兼続殿の…) 道中で謙信以外の話で出たのは、石田三成と真田幸村。それから前田慶次。 謙信は兼続にとって心酔して仕えるほどの存在だ。兼続との会話をしていると、どことなく謙信を神聖化しているようにも見える。確かにどこか不思議な人ではあるが。そして彼の親友として名の挙がる人が、残る三人だ。 「元気ですよぅ〜」 「そうかい。そいつぁよかった」 「知ってるくせに聞くんですねぇ?」 「聞くさ」 意味ありげに慶次が言う。その様子に、くのいちの双眸が眇められた。 「…誰、待ってるの?」 「もう、わかったかい?」 途端、くのいちは隠していたくないを構えた。緊張がその場に走る。が、慶次は動じない。ぴくりともその場から逃げ出そうとしない。鼻白む気配もない。 「…行かせないよ」 「待つさ」 「どうして?」 「悪いねぇ。必要なんだ。…あいつが静かに眠る為に」 ―――あいつ。 その言葉に、関平もくのいちも、慶次が何を言おうとしているのか理解した。 「おかしいよ!ならどうしてここにいるの!」 「あぁ…ここにゃあ、あいつ…三成がいたからな」 「…三成?」 「あぁ」 思わず、くのいちが構えを解く。酷く気分を害した様子で、くのいちはわざとらしいため息をもらした。 「あいつがやられたからって幸村様は来ないよ!」 「そんなこたぁ、ねぇさ」 「来ない!」 「来るさ。あいつは…わかってても飛び込んでくる」 「勝手に決めないでくださぁい!」 そう言って、解いていた構えから一気に慶次の間合いへ飛び込む。素早い動作に、一瞬関平の目すら追いつけないところだった。しかし、慶次はそうではなかったようだ。 脇に立てかけていた二又矛をとり、その柄の部分でくのいちの突進をきつい一撃で推し留める。 ぐ、とくのいちが呻いた。 しかし倒れない。 「…っ!」 関平は何とかくのいちに加勢しようと全身に力を込める。が、そうすればするほど、足は動かなかった。動けと念じる頭と、決して動かない身体が相反して、思わず体勢を崩した途端。 「きゃあっ!」 悲鳴に顔を上げた。途端、鼻につく鉄のにおい。 「いっ…た…っ」 「はは。すまねぇな。三成も逃がしちまったし、あんたにどうにかしてもらうしかねぇのかな」 そう言って、慶次がのっそりと一歩、一歩くのいちのもとに歩み寄る。くのいちはどうやら腹部に強烈な攻撃を食らったらしい。滴る血の量からしても、彼女がまだ動けていることが奇跡にも近いように見えた。 「…すまねえな」 慶次が二又矛を握りなおす。くのいちは痛みに神経が焼きついてしまったのか、まともに動けない。関平が逃げろ、と声を上げてもどうにもならない。 (足が…!) 目の前でくのいちが慶次に殺されてしまう。 そう思った瞬間だった。 「慶次!!」 よく通る声。その声が、唐突に関平の呪縛を解いた。途端、よろよろとでも動いたその足に関平は目を瞠る。慌てて己の武器を抜き放つ。しかしそれよりも先に、白い姿がさっと関平の脇をよぎった。 慶次が振り上げた矛が、くのいちに振り下ろされる瞬間、紫のあやしい光が空に梵字を描く。そして。 一瞬にしてその光が、くのいちを包んだ。 そして彼女を後ろから支えるようにして、兼続がつく。よく見れば、その光は兼続を中心にして作れていた。 「今だ、関平殿!」 その声に我に返り、関平は勢いよく斬馬刀を振り上げた。そのまま力任せに薙ぎ払う。力勝負には出ず、慶次はうまく身を翻した。関平はそんな慶次をさらに追い込むように斬馬刀を振るう。そのたびに、空を切るような音がした。 「慶次!」 兼続が慶次を叱るように呼ぶ。しかし慶次は呼びかけには応じない。 「答えろ慶次!何故だ!」 その間にも、関平の攻撃が間断なく続いている。関平は力任せに刀を振るい、ようやく壁際に慶次を追い込んだ。すでに彼が座していた玉座は遠い。 壁へと追い込み、逃げ場を失った慶次は、そこでようやくその矛で関平の攻撃を受け止めた。力任せの鍔迫り合いになる。関平は全力で慶次の攻撃を押さえ込もうとした。 ―――が。 「あんた、もとの世界に戻ってもいいのかい?」 「…な、にを!」 「あんたの先、見せてやるぜ。見てみたくはねぇか?」 「…ふ、ざけるな!」 「ふざけてねぇよ」 途端。 火花が散った。その火花に頭の中が真っ白になる。その一瞬の隙をつくように。 ―――父上、この戦が終わったら、拙者に碁を教えてください 雨の中。戦の前。父の横で。 自分がそう言って笑う姿が見えた。 それと同時に、父が敵の凶刃に倒れる姿。魏と呉の兵がいる。おかしい。彼らは手を組んだのか? 「…っ!!」 その火花が消えた瞬間、関平は慶次に力任せに武器で横殴りにされた。耐え切れず、吹っ飛ばされる。 倒れる自分の姿。 ―――雨の中で。 今、今倒れているのはどこだ。ここはどこだった。父の骸はどこだ。何故こんなことになった。兵は何故―――。 「わぁぁぁぁぁ!!」 「関平殿!慶次っ!おまえは何をしたい!」 関平は頭を抱えて必死に今見た光景を消し飛ばそうとする。が、そうするたびに蛇にまとわりつかれるように何かの記憶が蘇る。 そうして、その時。 慶次は、笑った。 「友のため戦うも義、だろ?…兼続よ」 その言葉を最後に、関平の意識は途切れた。兼続が呼ぶ声が聞こえた気がしたが、もうわからない。
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