いつか太陽に落ちてゆく日々 15




 くのいちはうわごとのように幸村を呼んでいる。
 そのたびに、趙雲はくのいちの手をとってやった。そうされると、くのいちはどことなく安心したような微妙な表情を浮かべる。
 眠っている彼女は、そういう時は年相応の顔になった。
「…興味深い話だ」
 うわごとを遠くで聞きながら、そう言ったのは曹丕だった。
 部屋は、甄姫にあてがわれた私室に移っている。
 あの後、趙雲の部屋に曹丕と甄姫が訪れた。
―――真田幸村が逃げたぞ。
 どうやら幸村が馬を駆って出ていくのを見ていたらしい。そしてその部屋にくのいちがいるのを知った。
「遠呂智が生きている…妲己も、か」
 曹丕の表情からは、彼が何をどう考えているかは趙雲には汲み取れない。眉間の皺が深まるか深まらないか、それぐらいしか表情に差がない。だから趙雲には曹丕が何をどう考えていようと理解は出来なかった。
 かわりに、甄姫の浮かべる表情には多少なりとも安心する。
 くのいちの身体は怪我による出血の為に、熱を持ち始めている。甄姫はくのいちの額に手をやり、水に濡らした手拭を用意したりと、甲斐甲斐しく動いていた。
 甄姫の部屋に移動させると言われた時には正直賛同しかねたが、この部屋は彼女の部屋としてあてがわれた以上、甄姫の許しを得られる者でなければ踏み込むことは出来ない。
 出来れば、変な詮索を受けたくなかった趙雲にはちょうど良い提案だったとも言える。多少の問題といえば、くのいちのことは甄姫に任せることになるその一点のみだ。
「遠呂智を倒したのは、誰だ。最後にとどめを刺したのは」
「私と、幸村殿で。同時に槍で突いたのが、最後のはずです」
「こちらは張遼がとどめを刺した」
 趙雲にはあの時の記憶は鮮明に残っている。遠呂智にとどめを刺した後、息絶える直前に遠呂智は何故、と言った。
 たった一人で倒れた遠呂智を、誰も同情はしなかった。が、そこに倒れるその男が、誰の理解も得ようとしていないことだけはわかった。
「…そうだ。あの時遠呂智は、『何故だ』と言いました」
「それに何か意味でもあるのか…?」
 その場には、曹丕と趙雲以外にも甄姫と三成がいる。が、甄姫はこちらの会話には割り込もうとしないし、三成はずっとだんまりを続けている。実質、その場で会話をしているのは趙雲と曹丕だけだった。
「我が人ごときに何故、と」
「…ほう」
 趙雲にとって遠呂智とは、劉備の目指す仁の世を道半ばで捻じ曲げた者に他ならない。傲慢で、強大で、とにかく趙雲にとって遠呂智というのは敵であり悪の象徴とも言えた。
「曹丕殿たちの前で、遠呂智は何と?」
「…さて。三成は覚えているか」
 ようやくそこで三成に話題が振られた。しばらく黙っていたが、どことなく慎重に、三成は口を開く。
「言ったことまではいちいち覚えていないが…印象は違う」
「やはりそうか」
「少なくとも、遠呂智はどちらかといえば楽しんでいるように見えたが…」
 三成の言葉に、思わず趙雲は眉を顰めた。それはもちろん、世界を歪め、ありえない邂逅を生み、混沌の極みに叩き落とした張本人だ。
 あらゆる人々を引き離し、それまでのそれぞれの生き様をせせら笑うように、自分たちは同時に生きることを余儀なくされた。
 それを、遠呂智が楽しんでいたといわれればそうなのかもしれない。
「いまいち印象が一致せんな」
 曹丕は腕を組んで何事か考えはじめた。三成も同じく。趙雲は、そうなってしまうと手持ち無沙汰で、ちらりとくのいちの寝顔を見た。
 年の頃としては幸村などよりは若いだろう。趙雲が知る女性は皆それぞれに自分の得手とする何かを持っていて、そのためか誰も彼もが強い信念を持っている。くのいちも同じなのだろうが、彼女の得手とするものが、戦いに特化しすぎているのだろう。
 趙雲の時代だとて、似たような存在はいる。だが、くのいちのように女だてらにそれを生業にする者はいなかった。
 趙雲などはそれがどうしても気になる。が、幸村はそうではないらしい。おそらく当たり前のようにそこにいて、当たり前のように与えられた任務をこなす存在なのだろう。二人の間には他人に割り込めない信頼関係がある。
 だが、くのいちはもっと深いところで幸村を必要としているのかもしれなかった。
 時々、苦しげに呻く彼女に優しく触れてやると、安心したように落ち着く。たぶん、勘違いされているのだろうが。
 くす、と軽く微笑む気配があって、顔を上げれば甄姫が笑っていた。
 三成と曹丕が二人して黙り込み、何事か考えているからか、甄姫は口をぱくぱくと動かすだけだったが。
―――優しいのですね
 言われて、多少恥ずかしくなった趙雲が慌てて視線を逸らす。その先に、曹丕のこれでもかと不機嫌な顔があって、思わず趙雲は驚いて声を上げそうになった。
 別にとったりしないのだが。
(正直、三成殿からも似たような視線を感じる)
 やれやれ、と趙雲はため息をもらした。
「…真田幸村は合肥新城へ向かったのだったな」
 睨まれながら、曹丕の言葉に趙雲は頷く。
 幸村が極秘に出していた密偵のくのいちは、曹魏の拠点であった城のその後の様子を窺うよう指示を受けていた。そこに、慶次がいて、しかもその慶次が容赦なくくのいちを襲った。
「あの城はそもそも我ら曹魏のもの…」
 曹丕はつまらなさそうに呟く。そう、あの城は曹魏のものだった。
「前田慶次がそこにいるというならば、我々曹魏に対する挑戦、ととるべきではないか。三成はどう思う」
「いささか乱暴な論拠だが、前田慶次というのは俺が知る限り、自分が惚れた相手との戦を楽しむ男だった。その男が今、あの城にいるならばそういうことかもしれん」
 趙雲は二人の言っていることを黙って考える。
 ようするに、曹丕は自分たちが拠点としていた城に遠呂智軍がいるはずなのに、それがいないことも、前田慶次がいることも、面白くないのだろう。
「どちらにせよ、このままでは曹魏が弱いといわれたも同然。このまま捨ておくわけにはいかん」
(…まぁ、こういう展開になるだろうとは思ったが)
 趙雲はくのいちをじっと見つめる。
 前田慶次にとって、何が本当の狙いだったのだろうか。遠呂智の軍に前と変わらずいるというなら、どこまでの情報が流れているだろうか。
 曹魏を狙ったということは、趙雲や幸村がいたことは計算外の要素のはず。
 そこに趙雲と幸村がいて、彼のもとにくのいちがいて、城の様子を窺うために潜入させて。
 考えれば考えるほど、この一件について曹魏の誰かが動くのは良くないような気がする。
 が、今更そんなことを言ったとしても、曹丕も三成もすでにその気だ。
「…お二人が行くならば、私も同行を」
「そうか」
 曹丕がしごくあっさりと了承する。三成はどことなく苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、何も言わなかった。
「甄姫殿、申し訳ないが…」
「貴方には助けていただいたご恩がございます。そのご恩、こちらで返させていただきますわ」
「かたじけない」
 それともう一つ。
 出来れば怪我を負っていた三成はここに留めておきたかったが、彼も元来熱いところがあるようだ。たぶん己が行くと決めたら二度とその見解を翻すことはないだろう。
(…一体何が彼を動かすのだろう)
 外見は神経質そうで、顔の目鼻立ちは女のようなのに。
 時々他人を見る目が刃物のような鋭さになる時もある。趙雲などはそんな目で見られると一瞬でもうろたえるのだが。
(でも、幸村殿はこの人を親友だと言っていて)
 そして三成自身も、幸村のことを酷く気にかけている。
 よくわからないなりに、趙雲もこの二人の間に流れる空気のようなものが、普通よりもずっと濃いことに気づいている。
 思えば、そもそもは幸村が三成と話をしたいと言ったからこその今だ。
 あの時はまさか、こんな風に遠呂智軍が復活してくることも、それによる襲撃で曹魏の城が落とされるとも、全く考えていなかった。
 ふと、趙雲は思い出す。

―――殿、幸村殿について曹魏へ参ります。

 そう言った時、劉備はまず心配をしてくれた。平気なのか、と。
 確かに今は遠呂智の作り出したこの世界の為に、それぞれでの戦はない状態。遠呂智は倒され、ようやく平穏が取り戻された。
 その時、劉備のそばにいたのは桃園の誓いを交わした関羽と張飛、そして諸葛亮。いつもの面々が揃っていた。丁度いいと思ったから趙雲はその場で行く先を告げた。
 その時。

―――殿。ようやく得た平穏の時です。いくら曹魏といえど、趙雲殿に危害を加えられる者もいないでしょう。特に曹魏は、遠呂智軍の下で戦っていた時期が長く、兵は消耗しております。事を荒立てようとは致しません。

 流れるようにそう言ったのは諸葛亮だった。彼自身、長く妲己の元におり、遠呂智軍にいた軍についてなどの情報には精通している。
 そんな彼の言葉を、誰が遮って反対など出来ただろうか。
 だから、無理はするなと言われここに来た。

―――趙雲殿。万が一何かがあった時には、これを。きっとお役に立つと思いますよ。

 そう言って手渡されたのは、錦の袋だった。
 なんだろう、とは思ったがそれは今のところ紐解くには至っていない。
 諸葛亮が趙雲を心配して渡してくれたものだが、思えばあの時諸葛亮は、「何かがある」ことを知っていたのではないか、とすら思う。
(…まさか、な)
 一瞬でも疑いをかけてしまったことに罪悪感を感じながら、趙雲はかぶりを振った。彼から渡されたその袋は、趙雲の懐にいまだにある。
 たとえばもし今後、それを開くような必要があった時。
 それはそれだけの危機に晒された時、なのだが。
 それを紐解いて、何の関係もなければいいと思う。
 諸葛亮は聡明な人だ。大局を見る人だ。趙雲などからすれば、どこを見ているのかすらわからない人だ。
(だが、あの人は我らの仲間なのだ)

 だから、少しでも疑念を抱くような結果がなければいいと思う。



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話が長くなりそうフラグが立った。