二本の足で直立し多孔性の皮膚でおおわれた熱性の腐敗物質



 炎上している江戸城の天守閣、あちこちに倒れ伏す兵の群れ。
 雪にまぎれて炎が舞っている。白と灰に埋もれて音もなくなるこの冬の日に、あの炎はまるで花のようだ。
「……困るぜ、まったく」
 呟いて、慶次は走った。
 間に合うか?なんて考えなかった。間に合わないならそれもいいだろう。
 これは盛大な運試し。自分の、唯一行い得る最大の博打だ。
 崩れかけている階段を駆け上がり、倒れている兵の骸を踏み、血でぬかるんだ床を蹴り、そうやって辿りつこうとした瞬間だった。
 声がした。
「―――…いけ、幸村」
「…兼続殿」
 業火に崩れていく。天井の梁が慶次のすぐ近くで焼け落ちた。しかしかまってはいられなかった。幸村の声、そして兼続の声。明らかに兼続は致命傷を負っている。声でわかる。死ぬ人間の声にこもった、死の色は慶次にも見知ったものだ。慶次の中で、ぞわりと悪寒が走った。
 ああこれはいけねぇ。
 ぼんやりと思う。そもそも何をしにここに来たのかと問われたら、あの男の最期を見届けてやるつもりだった。
 そのために、わざわざここまで来たのだ。
「ありがとう、兼続殿。決して、あなたの気持ちを裏切りません」
 真っ直ぐな声がした。幸村だ。遠くで誰かの声がする。幸村を呼んでいる。今行く、と声をあげた幸村に、兼続が笑いかけた。
「…すまなかった、ゆきむら…」
「兼続殿が謝るべきは、私ではありませんよ。…それでは、これにて」
「ああ」
 幸村はどこまでも真っ直ぐに兼続を突き放す。そして背を向けて走り出した幸村を、兼続はしばし見つめていた。倒れたまま。
 このまま放っておけば、おそらく兼続は死ぬ。そしてここにいれば、慶次自身も。腹に力を込めた。走れ、まだ間に合う、走れ!!
 途端、激しい業火に崩れ落ちる梁の音、そして炎が塊になって襲い掛かってきた。息も苦しい。焼け焦げたものが風に煽られ炎が巻き上げられて、じわじわと体力を奪われていた。
「―――…おい、アンタこんなところで死ぬ気かい?」
「…けいじ、か」
「それ以外の誰に見える?死神かい?」
 腹部の出血が酷い。幸村の槍がここを抉ったか。
「…幸村は…無事に脱出できたか」
「知らん。が、まぁあいつは死なんよ」
「自信のあることだ…」
「俺が一度救っている。その命、そう簡単に落とされてたまるかい」
「なるほど…」
 止血するのが先か、そう思った瞬間にまた轟音がした。これ以上ここにいてはいけない。慶次はそう決断して兼続を引っ張り上げた。
 苦痛に呻く声など無視して、肩を貸してやる。自分の足で歩かせたかった。
「けい、じ。おまえは……逃げろ」
「おう逃げるぜ」
「私は…置いていけ。………どうせ、助からん」
 たしかにその出血では助からないかもしれない。幸村は間違いなく、兼続を倒した。手加減などしては兼続は楽に死ねない。幸村なりの優しさだ。
「聞こえんね。文句があるなら生き抜け」
「けいじ…おまえ、ひどいやつだ」
「その調子だぜ、兼続よ」
 一歩踏みしめて、慶次は先を睨んだ。先程慶次が駆けつけた経路はもうつかえない。幸村が走っていった方は、まだ道が残っているようだった。敵のいる可能性もあるかもしれないが、崩れ落ちるしかないこの城内に、生きている者などもういないだろう。
 そうなるように兼続が仕組んだ。これだけ壮大に負け戦を演出した。
「景勝様は…」
「考えるんじゃねぇ」
「…自分の主に対して…よくもそんな口が」
「あいつはあんたを信用してた。どんだけこの戦が不毛だろうと、わかっていたさ」
「…私は…死ぬ、べきだ」
「人の生き死になんてのは、てめぇで決めるもんじゃねぇ」
 慶次の上に、焼けて炭になった天井部分が落ちてくる。一際大きな音がして、それを慶次が片腕で払った。皮膚が焼けただれて痛みが全身を駆け抜ける。しかし唇を噛みそれを耐えた。
 いいじゃないか、これは我慢比べだ。死の淵を彷徨う兼続を助け出せるか。そのためにどれだけ犠牲に出来るのか。
「…俺は、昔幸村を助けたさ。助けたことを後悔はしねぇが、こういう事の為に生かしたわけじゃねぇ」
 兼続を引きずりながら歩く。踏みしめる一歩がこれだけ重い。常日頃大口叩いている己の、今までに考えられないほどの不自由さに閉口した。こういうのが嫌で逃げてきたんじゃなかったか。
 自由に生きるんだ、縛られるのは嫌いなんだ、そういって楽な方へ楽な方へ、ただ生きてきただけじゃないか。幸村に教えているふりをして、教えられていたのは自分ではないか。
「俺ァな、てめえの命さしだして悲劇に酔う趣味はねぇ。だからおまえさんにもさせねぇ」
「………ずいぶん、勝手な」
「なんとでも言いな」
 重い荷物は持たない。しがらみなんて最高に重い。血の繋がりなんてそれの最たるものだ。生きるも死ぬも、ただそうあるべくしてそうなる。
 そう思い、そう口にして生きてきた自分が、どうしても納得がいかない。
 炎による熱はさらに増している。息苦しさは半端じゃない。深く息を吸えない。それによる眩暈。痛みによる覚醒。それがさっきから連続的に続いて自分を何とか正気の淵に立たせている。いや、逆か。これはもういっそ狂気の沙汰か。
 でも、それでももういいんだ。
「俺はなぁ…あんたを死なせたくねぇ。それだけなんだよ…ッ」
 突き詰めて、追い詰めて、たった一つ答えが見えてくれば、至極簡単で純粋な欲求が見えてくる。
 死なせたくない。死んでほしくない。この男だけは、この男だけは。
 幸村の時は、まだ生きる気があった。死の淵を見ていながら、生きる力を持っていた。だから助けた。織田家の家臣であることを捨てて、松風を走らせて、幸村の槍ごと拾い上げた。そうやって助けた命が、めぐりめぐってこの男を貫くのか。だとしたらなんて因果だ。これはたしかに自分は死神以外のなにものでもない。
 幸村を生かしたことも、兼続が死に掛けていることも。
「…ふふ、慶次。おまえ…今、世界は自分中心にまわっ…ていると、思っている、だろう?」
「…兼続?」
「おまえは…そう思っている限り、自由でもなんでも、ない。ふざけるなよ。…俺は、自分の意志で…幸村の手に、かかることを、望んだ」
 兼続が笑う。顔色は悪い。業火で揺らめいている城内は、狂おしいほど目が眩む。
「私の死は、私のもの、だ。誰のためでもない、誰のせいでもない。…おまえが、どれだけ…暴れん坊だろうが…止められんよ」
「あんたこそふざけるなだ!」
 死なせてたまるか。死なせてやるか。
 悪いが、そんなに優しくない。俺は幸村ほど優しくない。情けもかけねぇ。俺はただ俺の意地だけで動く。それでどれだけ傲慢だと蔑まれようが知ったことか、武士の情けなどかけてやるものか。大勢の命を散らし、むざむざ死なせてなど、誰が。
「……慶次」
「………」
「驚いたな…おまえ、も、泣くのか」
 言われても、実感がなかった。
 熱にやられて、どの感覚も麻痺しているとしか思えない。
「慶次…おまえ、は…私の為に、泣いて…くれるか」
 負けが見えている。
 天と、自分の、賭け。
 いつだって抗ってきたつもりだった。いつだってそれに勝とうとしていた。
 思う通りにならないことのもどかしさも、息苦しさも、声にならない叫び声も、知っているつもりだった。

「…死ぬなよ、兼続」

 今ならば、天にも祈ろう。神にも縋ろう。助からないものを助けるために、命を投げ出そう。
 それは、度をすぎれば単なる無様と笑われる類の、足掻きだ。
「……慶次。…おまえに、預けよう。私の…」

いのち。

 言われた言葉は、もはや喜ぶべきものなのかわからない。
 兼続の言葉の意味を、深く考えるのはやめた。
 だから、歩く。崩れていく江戸城。外ではまだ雪が降っているだろうか。雪は、炎の勢いを少しでも弱めてくれないか。抉られた肉が、止まらない血が。
 兼続の命の灯火を奪うのを、見ているだけか。
 そんなこと、させるものか。どこまでも抗ってやる。

 そうやって、繰り返し繰り返し絶望と希望に苛まれて、慶次はひたすら歩く。
 奇跡なんて起きない。祈るのは、いないものにではない。今いるものに、だ。

 兼続。生きてくれ。

 祈るのは、今、目の前で息をしている兼続に。
 死を見届けにきた。この男の最期を看取ってやろうと思った。でも、そんな気持ちはもうなかった。
 ああ、そうだな。酷い男だ。
 酷い奴だ。

 死ぬなよ。

 それしか、もう考えられないのだ。




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この世界では
病むということは大きな特権だ
腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ

「この世界では」というが
海と都市と砂漠でできている世界のことか
それとも

肉と観念と精液でできている世界のことか
きみは人間を見たことがあるのか
愛撫したことがあるのか

二本の足で直立し
多孔性の皮膚でおおわれた
熱性の腐敗物質

「緑の思想」田村隆一