花に嵐 44




 振り返った先にいた幸村の姿に、三成はどうしようもなく動けなかった。
「…ゆき、むら」
 もう一度、名を呼ぶ。その声は掠れていた。
「はい」
 目の前の幸村が、こたえる。
 幸村は鎧の姿だった。そして額には鉢金がなかった。
 慌てて、懐にずっとしまっていたそれを取り出す。ずっとずっと、一度たりとも肌身離さず大事にしていたもの。形見の品だと思っていた―――。
「…何故、だ。死んだ…というのは」
「死にました」
 幸村は笑顔でそう言い放つ。
 思わず、三成は駆け寄った。消えてなくなるのではないか。実はこれは夢で、自分があまりに逢いたいばかりにこんな夢を見ているのではないか。そう思ったからだ。そして届く距離まで走り寄ると、慌ててその手をとった。 温かい。触れあえる。
「真田幸村は、死にました」
「…そんな…そんなはずはない」
 三成は幸村の言葉の意味がわからず、ひたすらに首を振った。こんなに温かくて、ちゃんと触れることもできるのに、死んだとはどういうことだ。
「あなたにこだわって、死んだように生きていた真田幸村は…死にました」
「…どういう意味だ?」
 幸村が身を投げた後、確かに里の人々に救われた。三日三晩、高熱にうなされたというのも事実だ。
 三成の親友だということを、里の人々は皆知っていた。だから三成に報せようとしたが、幸村がそれを断った。足手まといになるしかないから、と。
 そうしているうちに、戦は和睦で終わった。どちらかに決着がつくことはなかった。そしてすぐに、兼続が現れたのだ。

―――兼続殿。
 その頃にはようやく熱も引いていた。顔色も悪かったが、兼続は生きていればそれでいいと喜んでくれた。
 そして、共に戻ろうと言ってくれた。だが、幸村はそれも断った。
―――真田幸村は死んだのです。そう、兄にも伝えて下さい。
―――…何故だ?
 兼続の問いに、幸村は苦い笑みを浮かべた。
―――私は臆病風に吹かれて、戦場を逃げ出したのです。身を投げることで終わりにしたかったのです。だからこそ、兄には…そして私を知る方には、ただ死んだということにしていただきたいのです。
 それは武門の人間らしからぬ言葉だった。戦うべき人の言葉ではない。こんな言葉を吐く自分は、もう本当に根から腐ってしまったのだ。
 だから、どうか。もう何にも関わらず生きていたい、と。
 兼続は幸村の言葉をじっと聞いていた。驚いているだろうし、失望もしているだろう。
 だが、兼続はふと、そうか、と頷いた。
―――幸村の想いは本物だな。三成への感情が、幸村を変えたのだな。
 言われて、身が熱くなるのを感じた。改めて言われればそれは酷く恥ずかしい言葉で、だが否定出来なかった。
―――はい。
―――…わかった。
 そうして、里の人々に無理を言い、幸村はぎこちなくこの里で暮らしはじめた。墓を作ってもらい、今後誰が来てもいいように。
 自分から、戦場に戻ろうと思える日まで、死んだことにしたかったのだ。
 だから三成が里へ現れ、幸村を探していた時には本当に驚いた。あんな風に最悪な形で押し殺していた気持ちを吐き出し、身を投げた自分を、三成は今度こそ失望しただろうと思っていたからだ。
 だが、三成は幸村の死を伝えられると酷く動揺した。雨雲の下を駆けだした。墓の前で泣いていた、と聞いて酷く胸が痛んだ。そんなにも嘆いてくれるとは思わなかったというのもある。三成には酷いことを言ったにも関わらず。三成はずっと気持ちは変わらないと言い続けていたけれど、信じられなかった自分を恥じた。
 そして、その頃から三成の噂をよく聞くようになった。里が三成に恩がある者ばかりだったから、三成のことはすぐに知ることが出来た。
 豊臣の中でもめているらしいことも。そして地盤が緩んだと知るや、西国の武将たちが反旗を翻したことも。
 日々、どうするべきかを考えていた。
 そして、ひとつだけ決めたのだ。
 今度、兼続が三成の呼びかけに応じて大阪へ秘密理に兵を出す。内部でのいざこざを、ついに他人の手を借りてどうにかせねばならないところまで来てしまったらしいということだった。
 兼続からの書簡でその事を知り、幸村は、里の人々が大切にとってあった己の鎧に向き合った。
 もしも、三成がまたここに着たら。
 真実を知らせて、そして。

―――三成の為に戦おう、と。

 三成は呆然とそれを聞いていた。相変わらず幸村の手を握りしめ、もう離せなくなっていた。
「…幸村」
 幸村は逃げない。
 前にもこんなことがあった気がする。
「…俺の為に…など、いいのか。俺は、また、幸村を裏切ってしまうかもしれない。俺は」
「…ですが、気持ちは変わらない、のでしょう?それは、私もです」
 幸村はそう言って今まで、もうずっと見ていなかった笑顔を浮かべた。
 その笑顔に胸がつまった。三成は何も言えなくて、思わず幸村を抱きよせる。自分より背の高い男を抱き締めようとして、幸村もそれにこたえようとして、二人はわずかに体勢を崩す。
 そして、幸村が作った、幸村の墓の前で地べたに尻もちをついたような状態で、三成は幸村を強く抱きしめた。
 何と言えばいいのだろう。わからない。ただ、そうして抱きしめていればほんの少し前まで胸の中を占めていた寂しさがふるい落とされて消えていく。
 そして残ったのは、ひたすらに愛しいという気持ちばかりだった。


「左近殿は、では兼続殿が?」
「ああ、任せた」
 あばらやについて、あの時のように三成は火をおこした。現状について知りたがる幸村に、三成はぽつぽつと語っていた。豊臣内部のいざこざは、もう三成だけでどうにか出来るものではなくなっていた。西国を黙らせるにも力が足りない。かといって、少しでも均衡を破り、西へ出兵させれば今度は北から攻め込まれる。
 だから、兼続に左近を頼むことにした。他の誰かの手にかかって死ぬなどあまりに馬鹿らしい。かといって左近を豊臣一門の誰かが捕縛し、その頭脳を利用されるのも避けたかった。だからこそ、兼続に頼んだのだ。
 今の上杉は、以前の戦との相乗効果で謙信が顕在だった頃のような神がかり的な強さを感じさせていた。上杉の軍は常に大義のもとに動いている。兼続が動くことで、そのいざこざにまぎれて暗躍する者たちは震えあがったに違いない。
「…それは安心いたしました。さすが兼続殿…」
 左近のことと、兼続のこと。それらを語って聞かせて、幸村は安堵したようだった。
 ふと、三成の中がちくりと痛む。
(…俺という男は、どこまで…)
 それが独占欲だということも、もうわかる。
「幸村」
 だから、三成はそれ以上火をおこすのをあきらめた。そして、幸村を引きよせる。
「…幸村」
 がっついていると思われたっていい。もう逢えないと思っていた人に、再び出逢えた喜びはなにものにも代えがたい。だから、三成は幸村の唇に己のそれを重ねた。重ねて、すぐ離すだけの口づけを数度繰り返す。そのうち、二人の息が熱くなり、熱がこもったように感じられた。歯列をわって、深く口づけても、幸村は逃げない。身体を強張らせ、緊張はしても。
「幸村」
 熱っぽく名を呼んだ。前は断られたのだったか。だが、今は拒絶される気配はなかった。それが嬉しくて、ただ、自分のような男がそんな風に許されていいものかわからずに、おずおずと三成は口づけを、首筋へおとしていった。




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