花に嵐 43




 後のことはよく覚えていない。
 気がつけば豊臣は正則や清正が不甲斐ない三成になり替わり、と小規模な戦を行った。それらは全て上杉の毘の旗印の前に敗れ去った。
 勝手な行動で豊臣の立場を徐々に悪くしていったのは周囲の者たちだった。大きな戦が数回続き、兵糧も金も尽き果てるかもしれなかった。
 どうにか思いとどまらせたのは左近だっただろうか。
 秀頼には、まだ信頼されていた。
 幼い彼が頼れる人物があまりいなかったということもある。
 しかしそのせいで、完全に豊臣の天下への道は閉ざされた。そもそも、秀吉が亡くなった時点でその道は閉ざされていたのだという意見もある。実際、それは鋭いとも思う。
 秀頼はまだ子供だ。天下をとったとしても、子供の彼がどうにか出来ることではない。秀頼の後ろ盾として武功をあげ、全てを任されるようになれればいい。だが、そうするには三成が邪魔な存在になる。
 豊臣は、内部でのいざこざが次第に最も頭を悩ませる原因となった。無論、そんな姿を見せれば西国の者たちを押さえ込むだけの力もなくなる。
 実際、島津や長宗我部などが離反した。とはいえ、彼らはまずその周辺の地盤を固める必要があったが、それでも出兵しないわけにはいかない。一度崩れ出すと止められない。
 豊臣のように、天下まであと一歩というところだった家からすれば、それはまさに滅亡への道筋をはっきりと示されたかのような気持ちにさせられるものだった。
「…脆いな」
 呟いた三成に、左近は肩を竦めた。
 豊臣の天下がずるずると崩れ始めているというのに、三成はまるで他人事のようだ。それを実感できないだけなのか、それとももうそんな心すらも麻痺してしまったのか。
「困ったもんですな」
 今こそ一致団結すべき時だというのに、豊臣は相変わらず内部でのいざこざが尾をひいて、終わりが見えない。秀頼の後ろ盾の座を争うくらいならば、まず天下を我がものにしてからだろうに。
「あいつらは戦しか出来んからな」
 口では辛辣なことを言う三成だったが、口調は淡々としていた。上杉との戦のあと、一人で外へ飛び出してからずっとこうだ。びしょ濡れで戻ってきたかと思えば、誰とも口を利かず何も食べず。それが数日続いた。何があったのかと問えば、幸村が死んだのだという。墓もあったと。そして三成は、それ以来ずっと懐に幸村の鉢金を後生大事に持ち歩いていた。
 形見の品として、最期を看取った者から譲られたのだということだった。
 もうこれ以上、悲しいことも悔しいこともない。だからそれ以上の感情の起伏もない。
「さて、そうは言ってもどうします」
「…ひとまず逃げる」
「そりゃ名案ですな」
 左近の言葉に三成は頷いた。
 秀吉を失った豊臣の求心力となる人物はいない。せめて秀頼がもう少し大きくなってから秀吉の死を迎えることが出来れば多少は違ったろうに。無論それを今いっても仕方のないことだ。
「殿、突破口は左近が開きます。必ず逃げて下さいよ」
「ああ。…左近も生きて逃げのびろ」
「情けないですが、まぁいいでしょう。殿のご命令なら」
 三成は左近が見出した突破口を駆けた。とはいえ多勢に無勢だ。左近はすぐに捕縛された。豊臣方の誰もが、左近は殺すに惜しいと思っていたことも、三成は知っている。そうして逃げている時だった。

「左近、義のもと、助けに来てやったぞ!」

 唐突に彼らの背後に現れた毘の旗印。その場は騒然となった。一体何が起こったのかわからないといった豊臣の者たちは、あっという間に崩されて散り散りとなった。
 おかげで、三成は無事にその場を逃げおおせることが出来た。兼続の援軍は三成が頼んだものだ。内乱に他人の手を借りれば後が面倒だったが、そうでもしないとこの膠着状態から脱することは難しかったのだ。
 今この時期に豊臣を離れるのは少しあとの始末が気になったが、今はとにかくこの内乱をどうにかしなければならない。このままではどうにもならず、泥沼にはまるばかりだった。日々謀略だなんだと心の休まることもなかった。
 だからこそ、三成はあの墓前で泣いた日以来はじめて一人になった。
 足は自然と里の方へ向かっていた。幸村の墓へ行きたかった。

―――…あなたが、裏切ったのではないのですか。

 あれ以来、最後に幸村が叫んだ言葉が何度も耳にこだました。
 一番大切だと思った人にまでそう思われていたのだから、きっと清正や正則からはもっと疑われていただろう。秀頼の後見人として三成がその座についた時から、周囲は酷くどんよりと重い空気を纏っていた。
 三成はだからといって周囲を納得させるだけの言葉も力も持ってはいなかった。
 昔は、幸村が何かといえば三成を擁護し、そんなことはないと言ってくれたものだった。
 放っておけばいいと言っても、きかなかった。幸村には彼らの言葉は耐えられなかったのだろう。今にして思えば、それは何と自分の身にあまるほどの好意だったのか。
「…幸村」
 最初に、幸村が三成を信頼してくれたのだ。
 だから自分が幸村を特別と想うようになっていったのだ。幸村の好意を、友という枠を超えて期待するようになった。

―――三成殿は本当に純粋な人ですね。

 馬鹿なことをとうろたえた自分に、幸村は微笑みながら言ったのだ。

―――近くで見ればすぐ分かります。

 ならば幸村はどうなのだ。純粋という意味だったら幸村の方がよっぽど本物ではないか。近くで見ずともわかる。だが、狐と言われることもあった自分にそんな言葉を投げかける者は他におらず、そんな風に称されたことが酷く嬉しかった。
 何故だか、今まで言われ続けてきた言葉でかたくなっていた心がほろほろと崩れていくような気がした。幸村はわかってくれる。幸村は、自分のことを他と違う評価で受け入れてくれる。
 片意地を張る必要もなく。
 それがどれだけ嬉しかったことか、幸村は知らないだろう。
 そんな風に言われて、そして幸村をほしいと自然と思うようになった。その頃だとて十分に親しくしていたが、そんなものではなくて、いっそのこと一つになってしまいたいと思うくらいだ。
 夢にまで見るようになり、自分が本当に幸村をひたすら特別に想っていることに気がついて。
 こんなことは初めてだった。だからどうすればいいかわからなかった。幸村に言われるまで、そのやり方が間違っているとは認めたくもなかったのだ。
 だが、今となっては認めざるをえない。
 そんな理由で、幸村を失った今となっては。
「…俺は、救いようがない馬鹿だな」
 呟いて、苦笑する。どうしようもない馬鹿だ。幸村が愛想を尽かしてもしょうがない。

―――私のこの気持ちは本物なのに、また裏切られる気がするのです。

 ただ普通に、伝えればよかっただけだった。
 無理に自分のものにしようとしたからいけなかった。こんな風に誰かを欲したことははじめてだったから、焦ってしまったのだ。臆病が過ぎて、力で何もかもを奪ってしまったのだ。
 今だからこそそう思う。もっと、ずっとずっと、縁というものを大切にするべきだった。
 いなくなってからしみじみとそう思うようになった。
 あの大雨の日、一人で墓の前で泣きじゃくり、どれだけ泣いても現実が何の変わりがないことも、幸村一人がいなくなっても世界がなくならないことも。
 子供のように、欲した。手に入らなくて苛立った。
 美しく咲き誇る花が、嵐によって見るかげもなく散ってしまった時のように。
「…幸村」
 だからこそ、墓前できちんと言いたかった。
―――俺はおまえのことが、好きだ、と。
 いなくなってしまった今でも変わらない。むしろ逢いたいと思う気持ちは日に日に強くなる。だが叶わないことだ。わかっている。だが胸のうちに寂しさも、悲しさも、悔しさも、―――愛しさも、全部が募っていくのだ。雪のように降り積もって胸の内をどんどん埋めていってしまう。
「俺の気持ちは変わらない」
 だが現実はそんな寂しさに浸っているだけの猶予をくれなかった。
 もしかしたら死ぬのかもしれない。豊臣の内部でのいざこざで、三成は今一人だ。左近は兼続に任せたから、あとは自分の身の処し方だけだった。
「もうすぐ俺もそちらへ行くかもしれん」
 その時には、幸村に謝って、今度こそちゃんと。

―――その時だった。

「三成殿」
 声がした。
「………」
 ついに幻聴まで、そう思うのと同時にまさか、もしかして、と期待する心がない交ぜになる。どんな顔をしていたか、今でもわからない。
「…よく、ご無事で」
 耳から染み渡るのは何なのだろう。その声が色あせず自分の耳に届くことがこんなにも嬉しい。
 本当なのか。振り返った時、いるのは一体なんだ。
 震える心と戦いながら、三成は振り返った。

「…ゆき、むら…」





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