花に嵐 41




 上杉軍は騒然となった。幸村が三成の手で討ちとられたという伝令を受けたからだ。本陣にいた兼続は、その報告に言葉を失う。
「…兼続」
「………誤報でございましょう。もしくは、豊臣がこちらの士気を下げる為に」
 兼続は能面のような顔でそう言った。それを見つめながら、景勝はそうか、と頷く。しかし幸村の姿が見えなくなったというのは事実で、その上幸村と同時に三成の姿も見えなかった。
 その間に、一体何があったのか。
(…あの三成が…幸村を手にかけたのか?)
 どうも信じられない。それは違う、と兼続の中で何かが違和感を訴え続けていた。そうして、ふと思い出す。
―――札だ。愛染明王の力が宿っている。きっと幸村を守ってくれるぞ!
「…札を…幸村には持たせました。ならば、生きているに違いないのです」
 戦の前、あまりにも幸村の様子が危うくてつい手渡した。一度だけならば、その札の力で守られるはずだ。
 信之に渡したそれも、稲の救出に際して降り注ぐ矢から二人を守った。ほぼ無傷で戻ってこれたのは、兼続の札の力があったからだと信之本人に礼を述べられたのだ。
 その札が、利かないはずがない。
「ならばそうなのだろう」
 景勝が頷いた。全軍へ、うろたえるなと、幸村が討ちとられたというのは豊臣が流した偽の情報だ、と指示を出す。豊臣はもともと、信之の本陣への単騎駆けを憎悪に転換させる為の偽の情報を流している。今回もそれだと誰もがそう思うだろう。
 とりあえず、これで決定的に崩れることはなくなるだろう。兼続はそう考えながら、戦場を睨んだ。
 信じるわけにはいかなかった。
 いくらなんでも、そこまで三成が不義へ落ちたとは思いたくない。
 何かの間違いだ。そんなことあるはずがない。
 だが、幸村の見せた危うさがまた不安を煽る。
 三成の元へ走り、事実を確かめることが出来たらどんなにか。
 しかし今、それは出来ない。互いは敵同士なのだから。


 ―――戦は、結局のところ確固たる決着のつかないまま膠着状態へ陥った。
 幸村が姿をくらましたまま、もうどれほどの時が経ったか。
 和睦を申し入れてきたのは上杉側からだった。
「和睦?」
 左近がそれはそれは、と肩を竦めた。この段階での唐突な和睦に一体どんな意味があるのか。
 豊臣側は、今回の戦を弔い合戦と称している。仇をとるまで引くわけにはいかない。だが、左近はそれを受け入れる以外の選択肢はなかった。
 立ち直りはしたものの、三成は相変わらず本調子ではなかった。このままでは虚をつかれた時、秀頼を守ることさえおぼつかない。
 しかも、その和睦の為に現れたのは兼続だった。
 兼続は上杉軍の要だと左近は思っている。景勝よりも兼続の方が放っておいては危ない。それは秀吉も同意見だったはずだ。その男が、わざわざ和睦の申し入れに現れたとなると、どうも何か罠を感じてしまう。
「…直江兼続は、石田様との会見を求められております」
 どうしますか、との問いに左近はしばし黙りこむ。が、唐突にはっきりとした声が左近のかわりに答えた。
「会おう」
「殿」
 大丈夫ですか、と問えば三成は頷く。兼続と三成は親友同士。良い方向に三成が回復してくれる可能性も、ないとは言えない。
「兼続は、俺に何か言いたいのだろう。…大体、見当はつくがな」
 自嘲気味な笑みを浮かべて、三成は暗い目で笑う。もうずっとこんな感じだった。受け答えこそまともに出来るようになったけれど、顔色は優れずその双眸はまるでひたすら闇の中を見つめているようで、虚ろなのだ。
「わかりました」
 この状態の三成が、これ以上悪い方向へ転がるとも思えない。ただし自分も同席しますよ、と言うと三成は投げやりに頷いた。

 兼続は、姿を現した三成をまっすぐ射抜くように見つめていた。三成もその視線を逸らさない。
「久しいな」
「挨拶などどうでも良い。和睦とは本気か」
「無論だ」
 兼続はわかっているのだろう。豊臣が和睦を断らないことを。そうでなければもう少し慎重な態度であってもいいはずだ。
 三成と親しいからこそわかる。幸村がいなくなって、最初に動揺するだろう人が誰なのかを。
「何故だ?」
 見透かされているのを気付いているのかいないのか、三成は冷たい声音で兼続を圧倒しようとする。が、次の瞬間にはその威勢が吹き飛びかけた。
「幸村を探さねばならぬ」
 その名が出た途端、三成の双眸に変化があった。
「…幸村ならば、死んだ」
 力を失った三成の言葉に兼続が微笑む。それは同席し、二人を観察するように見つめていた左近には安堵の微笑みに見えた。
「ありえんのだよ、三成」
「何故そう思う」
「幸村は私の札を渡してある。愛染明王の力の宿った札だ。信之殿もその札で事なきを得ている。だから、幸村もきっと生きている」
「………」
 なるほど、だから前の戦の時、信之に一本の矢も刺さらなかったのだ。
 左近はその札の威力をまざまざと思いだした。一体どうしてだと歯噛みしたのもそれならば頷ける。元々、信之は無謀に単騎駆けをしたのではないということだ。
「それとも、三成が首をとったか?違うのだろう。嘘ばかりだ、豊臣は」
「…何が言いたい」
「不義に落ちると這い上がるのは難しい」
「豊臣が不義だとでも言いたいのか?」
「違うのか?ならば何故上杉が戦っているのだ?我らは謙信公の頃より志を違えてなどおらんよ」
「私利私欲で天下は狙わぬのだろう、上杉は」
「ならば私利私欲でしかない者ばかりなのだろう。さながらこの世は絶望に沈む地獄だな」
 兼続の言葉は淀みがない。対する三成は虚勢を張ってはいるものの、今にも崩れ落ちそうだった。
「…それ以上言うな」
「地獄を味わったのか?」
「……兼続には関係のないことだ」
「あるさ。その地獄、幸村が開いたのだろう?幸村にはおまえが開いたのだよ。仲良く二人で手を取り合ってな」
 浮かべている笑顔が、ふと怒りにまみれたものだと気付く。兼続は、怒っているのだ―――この友を。
 三成もそれに気付いているのかもしれない。
「私は、幸村のことも、三成のことも、友だと思っている」
 だからこそ今の三成にそんなに響くのかもしれない。他の誰かがここに来て、和睦を進めたのだとしたら、三成はもっと体裁を整えて臨むことが出来ただろう。
「関係ないなどと言うな。―――私を、これ以上本気で怒らせるな」
 それだけ言うと、兼続は設けられた席を立った。和睦らしい話はほとんどしていない。だが、それ以上は必要ないという態度だった。怒りを滲ませた兼続の背に、戦神毘沙門天の姿が見えた気がして、左近は自分の目を疑った。
 三成は拳を握っていた。その手は震えている。左近でも、ここまで三成の心を揺さぶることなど出来ない。
 兼続だから出来たことだ。三成の親友だといって憚らない彼だからこそ。
(友の為に戦う、か…)
 左近には出来ないことだ。
 そういえば幸村もそんな風だった。たぶんこの三人は三人とも、どこかしら似ているのだろう。
 今は兼続の言う通り、絶望の淵に浸った地獄にいるとしても立ち上がり前へ進めるのではないか。
 柄にもなく、そんなことを思って左近は苦く笑った。



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