花に嵐 39




 戦に立ち。
 幸村は、前方に見える旗印に目を細めた。
 豊臣の旗印に並んで見える、大一大万大吉の旗。
 そこに三成の軍がいるのだ、とわかるそれに、幸村は拳を握る。相変わらず、三成の存在を感じ取ると、嫌な汗をかいた。粟立つような気持ちにさせられる。
―――幸村が怖いのなら、きっと三成も同じだな。
 兼続の言葉が思い出される。三成もそう感じてくれているだろうか。わからない。
「幸村」
 その背に、声をかけてきたのは信之だった。
 戦までのひと月の間で、稲との縁談は順調に進んでいた。いまや誰も二人のことを悪く言う者はいない。
「大丈夫か」
「…はい」
 頷いたが、信之の顔色は晴れない。そんなに酷い顔をしているだろうか。 そんなにも自分の緊張が伝わっているだろうか。指摘されるのを恐れながら、幸村は無理に笑顔を浮かべる。
「勝ちましょう、兄上」
 幸村の視線は、再び大一大万大吉の旗印に戻った。遠く遠く、対岸に見えるその旗印。近いけれど遠い距離だ。敵と味方だという意味を含めても。
 その日はあまり良い天気ではなかった。おそらくは合戦と同時くらいに雨が降り出すだろう。
(…三成殿は…きっと、心配されているだろうな)
 この川下に、例の里がある。三成が常に気にかけ、視察だといっては訪れる里だった。里までは多少距離があるが、それでも近いことにはかわりない。
 三成が気にいっている里だ。きっと気にかけているだろう。
 それとも、もっと別のことを考えているだろうか。最後に目にした般若のような形相で、こちらの陣を睨んでいるだろうか。
「軍議だ、行こう」
「はい」
 信之に促され、幸村はその場を後にした。

 軍議は、少しの波乱をもたらした。というのも、幸村の言葉から始まったのだった。
 すでにこの布陣を敷く前に、先鋒がぶつかっている。その際の三成率いる石田軍の士気が凄まじい、と。
 その猛攻をどう押さえ込むかという話に、幸村がごく自然に口を開いた。
「ならば私が、囮になります」
 途端、信之も兼続も目を瞠った。
「何を言っている!」
 信之にしては珍しく声を荒げた。だが幸村は別段驚いた風もない。落ち付いた様子で、囮を買って出た理由を説明し始めた。
「三成殿は私に固執いたしましょう」
「何故だ?豊臣は私を槍玉にあげている…」
「ですが、三成殿については私が。兼続殿にならおわかりいただけるはずです」
 矛先を向けられた兼続は、眉間の皺を深くした。こうなっては何を言っても無駄だ。実際、兼続はわかっている。三成をおびきよせるのは、幸村が適任だろうことも。
 だが、ひと月前の涙を知っているのもまた兼続なのだ。
「…本当に、大丈夫なのか」
「はい」
 頷く幸村を、兼続は射抜くように見つめる。鋭い視線を向けても、幸村は揺るがない。怖いと、辛いと言っていたのがこのひと月あまりで克服できるはずがない。そもそも幸村の抱えている感情は、克服するとかそういったものとは違う。
「…わかった。では三成は幸村に任せる」
「兼続殿!」
 信之が批難の声をあげたが、その話についてはそれでおしまいにした。決まってしまった以上、どれだけ意見を申し立てたところで何も変わらない。 その上、三成に対してこれ以上有効だと思える人物もいないのだから。
 あるいは兼続自身が前線へ出るという手も考えたが、幸村を退けてまでそうする理由がない。兼続はこの連合軍において軍師のような扱いになっている。本陣で、総大将たる景勝と共にいるべきだった。恐らく、景勝もそう言う。
 三成の軍が動きだしたという伝令の一報が入り、兼続たちはすぐにも動き出した。それぞれ自軍のところへ向かう。その中で、兼続はあえて幸村に問うた。
「幸村!」
「はい」
「持っているか?」
 ちらりと見せたのは兼続の手製の札だった。幸村はそれに笑みを浮かべる。
「はい」
「…三成を頼む」
 自分で言っておいて、こんなにも深い意味でとられる言葉もないな、と思いながら。それは幸村も感じたのだろう。笑顔はふつりと消えて、真剣な表情で頷いた。
「はい」
 兼続はその背を見守り、それでも不安にかられながら、ひたすらに伝令を待つ身となった。


 真田の六文銭の旗印。
 幸村のものだろう。自軍めがけて突進してくるその潔さに、三成は舌打ちした。だが、もう幸村は味方ではない。それともまた捕縛すれば豊臣方についてくれるだろうか。
「幸村ァァ!」
 そう考えているうちに、自然とその名を呼んだ。だが、その声は今まで一度もそんな風に呼んだことがないというほどの冷たさと激しさだった。自分で驚くほどのその怒号。幸村には聞こえただろうか。
 雑兵たちを鉄扇でなぎ払い、その勢いのまま、三成は確かに幸村へ突進した。お互いの武器がぶつかりせめぎあう。力を横へと流されて、三成は一瞬無防備に体勢を崩した。振り返れば、馬を返して幸村がこちらへ向かっている。
「幸村…っ!」
 何故だかはわからない。ただ異常なほどに身体が熱かった。恋情も、何もかも、今この時幸村にぶつけてやろうと言わんばかりの熱さだった。こうして刃を交え、命を奪おうというのに、幸村の名を呼ぶ自分の声は、尋常ではなかった。必要以上にその名を呼び、打ち合い、この感情を知ってくれ、とばかりにぶつかる。そのたびに、幸村はそれをかわしつづける。
 どれほどそうしていただろう。幸村と打ち合う以外の喧噪は、三成にとっては騒音以外のなにものでもなかった。だから気付かなかったのだ。足元が、川に入った瞬間、その冷たさで一瞬正気を取り戻す。
「…っ」
 辺りを見渡せば、鬱蒼とした木々が緑をつけている。
 いつの間にこんなところへ来たのか。うまく幸村に誘導されていたのか。気がつけば、自分たち以外の兵も近くにはいなかった。
「……三成殿」
 ようやく正気に戻ったと知ったか、幸村がその日はじめて口をきいた。当然か。今まではひたすらに戦っていたのだから。
「…俺はおまえの罠にかかったということか?」
「……伏兵はおりません」
「何?」
 では何故こんなところへおびき寄せたというのか。何の目的があるのか。それともただ単純に、三成を戦場から追いやりたいがためか。
 だとしても、伏兵がいないというのは納得が出来なかった。
「どういうつもりだ」
「…三成殿」
「…っ、俺の名を呼ぶな!」
 どういうつもりだ、と叫べば幸村は悲しそうな表情を浮かべる。違うか。もともとこういう顔だったか?
「……三成殿、私は」
 やめろと言っても、幸村は聞く耳を持たない。
 何故だか酷く胸が痛む。心臓が高鳴っている。もやもやと、何か警鐘を鳴らし続けている。一体何故だ。そう思う三成をよそに、水音が激しさを少しずつ増していく。水流が増えているのか。
「何も出来ない男で、申し訳ありません」
「…っ自分を卑下するのはやめろ!」
「…違うのです。本当に、私は…三成殿のお役に立てない」
「離反したからとでも言うのか?」
「違います。お役に立てないからこそ離反したのです。私はずっと、あなたのお役に立ちたいと思っておりました。ですがあなたと敵対し、はじめて恐怖を知った」
「………」
「今も同じです」
「ならば何故俺の前に立つ!俺と敵対するのが怖いならば、敵になど…っ!」
 三成は激情のまま、幸村の腕を強く掴んだ。そのまま揺さぶれば、幸村はされるがままだった。数歩体勢を崩した幸村が後ずさる。だが、されるがままの幸村の口からもれた言葉は三成にとって予想外だった。
「…あなたが、裏切ったのではないのですか」
「何?」
「私が裏切ったのですか。あなたが裏切ったのではないのですか。私たちの友情に!」
 そう叫ぶと、幸村は三成の手を振りほどいた。そのまま、逃れるように走りだす。幸村の向かう方は鬱蒼とした木々もなくひらけている。水音がどんどん強くなるのを感じた。
「幸村!」
 待て、と三成もあとを追う。
「…私は、ずっと怖かった。私のこの気持ちは本物なのに、また裏切られる気がするのです。私ばかりが空回っている。三成殿は何も知らないのに!」
「…っそれが、幸村の本心か」
「………」
「ならばどういえば信じてくれるのだ。どういえば、おまえに誠意を見せられる」
「………わかりません」
「俺は…俺は幸村を特別に想っている。それはもう何度も伝えた。おまえの事だけは、信頼している」
「……三成殿。私は…あなたの期待にも、信頼にも、恋情にも、こたえられない」
「………」
「本当は、ここであなたの首をとるべきなのでしょう。ですがそれもできない」
「幸村…」
「ですから、三成殿」
「…っ」
「お別れです」
 何を、と三成が手を伸ばした。気がつけば水音の激しさはついにそこが滝であることを伝えていた。幸村は三成の手が届く前に、身体を傾ける。滝壺へ―――。
「幸村…ッ!」
 やめろ、と叫ぼうとする声は宙に消えた。三成の手が幸村に届くことはなかった。
「ゆきむらぁぁぁぁ!」
 幸村の身体が、滝壺へ呑みこまれた。




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