秀吉の葬儀は本人が派手好きだった事もあり、恐ろしく金のかかった葬儀となった。普段ならば三成はどちらかといえば無駄な出費は抑えておきたいと考えたが、この時ばかりはそんな話は出さなかった。
泣く者も、憤る者も、不審がる者も、秀吉を悼む気持ちは一緒だ。だが、次の戦はどうなるのか。どうするのか。そういったことが皆の胸を不安となって掠めていく。
豊臣が天下の座を掴みかけていたのは、ひとえに秀吉の人心を掌握する力の賜物だ。秀吉の後を継いだ秀頼はまだ幼く、子供同然だ。次の戦が初陣となる。
その秀頼の名代という形で、三成が総指揮をとることになっている。
が、三成ではまともに指揮もとれまい、という意見もある。冗談でとはいえ、これならば上杉についた方がいいかもしれんという者までいた。
葬儀の席でこれだ。
だが三成は、それらの陰口にいちいち何かを言う気にはなれなかった。
そんなものにいちいち反応して、目くじらを立てたところで意味もない。無駄な体力を消耗するばかりだ。三成を重用してくれた秀吉が亡くなったこと、そして幸村までもが離反したこと。それらが胸の内にぽっかりと大きな穴をあけて、三成に襲いかかっていた。酷い喪失感で、外のことがどうでもいいとすら思うほどだった。
秀吉の最期の言葉を思い出し、三成は強く拳を握る。
―――…真田を処断するんじゃ…三成ィ…。
秀吉はあらかじめわかっていたのかもしれない。真田が、裏切ること。そしておそらく、秀吉は真田こそ情報を外へ漏らしたのだと確信していたのだろう。
戦は、結局両者とも大きな戦功は立てられなかった。どころか勝敗もはっきりしなかった。豊臣からの停戦の申し入れに上杉方も快く了承したせいで、結局どちらが上だったのか。それがわからないままだった。
だからこそ、秀吉が亡くなった今、諸将はうろたえ、ある者は離反を示唆し、別の者は三成に不満を抱く。
これからどうなるか、それは三成にもわからない。ただ、その先にある道が茨の道なのはわかった。
「殿、少しいいですか」
「…なんだ」
呼び出され、廊下へ出る。大阪城は秀吉の葬儀でてんやわんやだ。家臣たちはばたばたと走りまわっている。
「次の戦ですが」
「ひと月後だ」
広間ではひたすら呆然としているように見えた三成だったが、意識ははっきりしているようだった。指示する声も決して勢いは沈んでいない。
「…わかりました」
次こそは戦の勝敗をつけねばならない。
「大丈夫ですか、殿?」
「…大丈夫だ」
声は淡々としていて、感情の挟まる余地がない。無理をしているというより、感情の出し方を忘れてしまったようにも見えた。秀吉を亡くし、幸村が離反し、兼続が敵として立ちふさがる今、三成の周囲で彼の笑顔を引き出そうとしてくれた人はもうほとんどいない。
「…とりあえず、真田信之に汚名を着ていただくことにしましたんで」
「ああ、わかっている」
信之は捕縛された稲の救出のため、勇敢にも単騎で豊臣本陣まで駆けてきた。圧倒される三成と左近にあっと言わせる間もなく稲を攫うと、そのまま元来た道を駆け抜けた。何故だかはわからないが、一斉に射かけた矢も信之を避けて通ったようだった。
人質として利用するつもりで、わざわざ網を張り、手にしたはずだった。だがあっさりと奪われて、左近は酷く衝撃を受けた。幸村の陰に隠れて、あまり目立つことのなかった真田の長男。
結局は彼も真田の血筋ということだ。
稲を奪取して上杉へ駆け戻る信之の姿は、左近にはやけに記憶に鮮やかだった。馬上には稲もいる。信之は一度徳川からの縁談を断った経緯がある。自分の身分にふさわしくない、という理由だった。だがあんな姿を見せられては、誰も信之と稲の縁談を悪く言う者などいないだろう。
思い出すのは、稲と戦った時。跳躍する稲の顔が、左近のそれとごく近い位置をかすめた時。
絹のようなきめ細かい肌。艶やかな黒髪が流れるようだった。女の扱いには馴れているはずの自分が、戦場の、しかも目前で感じた女の残像に悩まされるとは思わなかった。
「…秀頼様の初陣についてですが」
「ああ」
その残像を振り払いながら、左近が次の話を進めようとした時だった。
「おい、三成。おねね様はどこだ」
正則と清正が二人揃って廊下へ現れた。二人ともその言葉に今の今まで、その存在を見ていなかったことに気付く。ねねは世話を焼くのが生き甲斐、という人だったから、広間で堂々と死を悼んでいればいいのに、いないのはきっと台所のあたりでも手伝っているのかもしれない、と。
皆が今の今までそう思っていたようだった。
「どこにもいないぞ」
「まさか、外へ?」
左近と三成は「外」という言葉にふと一人の男のことを思い出した。
親友にも関わらず、この葬儀には顔を見せていない男がいる。
「忍びを使え。北へ捜索をかけろ」
「はっ」
左近は頷いてすぐその場を後にする。北とはどういうことだ、と正則と清正が三成に詰めよっていた。いつものような憎まれ口の喧嘩に発展しながら、それでも三成は決定的に戦意を欠いていた。幼い頃から秀吉の元で共に育った二人を相手にしても、やはり決定的に勢いが足りない。
それを気にしながらも左近はとりあえずその場を後にした。
孫市は米沢にいた。相変わらず彼自身は前田慶次のところに遊びに来ている、といった事になっていて、伊達軍と行動を共にするのは憚られていたからだ。
小高い丘で、焚き火を始めた孫市を止める者は誰もいない。
「何やってんだかな…」
方角的には西を向いて、孫市は苦く笑った。ぱちぱち、と焚き火の炎が爆ぜる。見晴らしのいいそこは、本当に自分以外誰もいなかった。
秀吉が死んだという。その報せは戦場でも受け取った。孫市の隊は前回の戦では活躍の場がなかったが、前線では衝突があり、離反があり、捕縛された将もいたと言う。結局は救出されたと言うことだったが。
それもこれも、孫市は遠くで見聞きしているような気持ちで報告を聞いていた。
その日は風もなかった。
しばらく炎を眺めていた孫市は、愛用の火縄銃を抱えたまま、近くに腰かける。何をするでもなく、ただただその場にいた。
「何をしてるんだい?」
だから、次の瞬間に聞こえた声に、孫市はびくりと肩を竦めた。気配は少しもしなかったが、振り返ってそこにいた人物に納得する。忍びの術をおさめている、ねねだったからだ。
「こんな日に、人妻がこんなところにいるとはね…」
ねねは孫市の言葉に笑った。笑っただけで答えはしない。
孫市はあらゆる可能性を脳内で探った。秀吉の仇討ちか。それとももっと別の理由でここへ現れたのか。
「ちょっと、逢いたくなったんだよねぇ。隣、いいかい?」
秀吉が亡くなったというのに、その葬儀は今日だったはずだ。にも関わらず相変わらずの突拍子もない行動力だ。孫市はある意味でそれに感心しながら、頷いた。どんな理由と目的でここに来たにせよ、女性のお願いを断れる孫市ではない。
「そっちはどうだ?忙しいんじゃないのか?」
「そうだね、三成なんかは大変そうだよ」
三成の名が出たことに、孫市は緊張した。知られていないとも思わないが、どうにも深読みをしてしまう。
「…ひとつね、聞きたくて」
「うん?」
「なんで伊達についたんだい?」
ああ、そうか。
唐突にねねがここに現れた理由を知った。彼女はただただ知りたかったのだ。秀吉の葬儀に出るよりも、親友だった二人がこういう形で道を違えた理由を知りたかった。そういうわけだ。
「…秀吉は…俺の業まで背負ってくれたな」
ねねはじっと炎を見つめている。彼女も珍しく緊張しているのかもしれなかった。
「俺の里は昔、織田軍の攻撃に晒されて、村にいた連中は皆死んじまった」
見せしめだった。信長に逆らうとこういう事になるのだということを、どこかで示さねばならず、白羽の矢が立ったのが雑賀の里だった。
秀吉もその戦に参戦していた。
「ずっとそれが俺の根のところにあるのかもな。…だが、これはあいつが持ってってくれた」
勿論、本能寺の変の真実はいつまでも自分を侵食し続ける。虚無感に襲われて、何も、どうにもならない事に苦しんで。
「…あの頃の、秀吉と、政宗が似てる気がしたんだ」
年若い当主は奥州一帯を平らげて、さらに領地拡大の為の夢を夢で終わらせる気はないと言い放った。無謀で無茶な奴だ。奥州一帯程度では逆立ちしたって今の豊臣にはかなわない。だが、生まれてくるのが遅かったとか、そんな理由で諦めるような男ではなかった。
秀吉も、孫市に向かって言ったのだ。おまえの業はわしが背負っちゃる、と少しばかりおどけた口調で。でも、本気の声で。
皆が笑って暮らせる世を、戦になど出ずともいい、幸せに女と町を歩いていられるような。そんな世界を、と。
二人とも、無理を無理だとは言わなかった。
「…それで…あの人の敵になったのかい?」
「そうなるな。それに、少しばかり期待もしたんだ。政宗なら何かするんじゃないかってな」
「…そうかい」
ねねは静かだ。相変わらず孫市には視線をくれようともしない。彼女は今どんな心境だろう。少なくとも、優しい気持ちになれるほどの余裕はないだろうけれども。
「俺はもう年だからな。ああいう、若さに任せて突っ走るような奴見てると、見守ってみたくなる」
「…わかるよ、孫市。あたしもそうだよ」
三成や正則、清正、秀秋。
ねねが一人ずつ名前をあげていく。皆、ねねと秀吉のもとで子供の頃から育った者だった。今後は彼らが豊臣を引っ張っていくのだろう。
「…聞けてよかったよ」
本当に?
言いそうになって、孫市は口を開くのをやめた。そんな問いかけは無意味だ。彼女の中で「聞けてよかった」と思うなら、それでいい。たとえ強がりだとしても。
「…もう、逢うこともないと思うけど」
「ああ…でも、困ったことがあったら何でも言ってくれ」
「ありがとね、孫市」
ただ、もう逢うこともないというねねの言葉は本当だろう。
気がつけば、音もなくねねの姿は消えていた。
煙が目に染みる、と一人呟いて、孫市は友人の死と、その親友が一番に愛した女性のことを思って苦い笑みをこぼした。
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