花に嵐 37




 戦は終わった。
 結局決着はつかなかったが、豊臣がとりあえず停戦を申し入れ、上杉方はそれを受け入れた。
 さて天下は今誰のものか。結果だけ見れば、豊臣の天下は目前で脆くも崩れたように思える。
「豊臣はまたすぐに戦を構えましょう」
 兼続はよどみなくそう言い切った。
 戦が終わり、その本陣での事だ。景勝はそうだろうなと頷く。今や天下は上杉景勝のもと、兼続が動かしている。
 上杉本陣には、豊臣との同盟から離反してきた徳川とその諸将、さらに伊達、真田が加わっており、勢いは誰にも負けないほどに感じられた。
 そしてその中で、一際その才を発揮しているのが兼続だ。
「しかし秀吉が倒れたと言うではないか」
 伊達の言葉に兼続はもっともだ、と頷く。
「秀吉は人心の掌握に長けている。そして豊臣には、彼に次ぐほどあの巨大な軍を動かせる人間はいない」
 それは三成も含めてのことだ。親友ではあったが、兼続はその点については秀吉に勝る人間などいないと思っている。だからこそ、信長死去ののち、事は秀吉へとあっさりと転がったのだ。
「どのようにしても足並みは乱れる。乱れたままには出来ぬ」
「だからこそまたすぐに出兵すると?」
「豊臣方は、秀吉の生きているうちに天下をとりたいはずだ。何としても」
 それらのやり取りを、幸村はどこか遠いもののように聞いていた。
 兼続には問いただしたいことがいくつもある。だが、まだその時ではなかった。何とかして、聞き出せないだろうか。そう思いながら。話はまだ続く。
「なれば、北方攻めは急務のはず。こちらは雪が深い。冬になれば誰も近寄れぬ。それは避けたいだろう」
 だからこそまたすぐに来る、と。
 兼続はそう断言した。
 そして実際のところ、それは事実となった。
 夏の足音も聞こえようかという頃に、豊臣はまた進軍を開始した。しかし今回の戦は、「弔い合戦」だった。
 ―――秀吉は死んだと言う。
 豊臣軍の総大将はまだ年若い秀頼だと言う。まだ幼いにも関わらずこれが初陣だという。
 さらに、彼らが目指すのは真田信之の首だった。
 信之は稲を助ける為、一度豊臣本陣へ姿を見せている。裏切り者の真田が、武功の為に本陣へ単騎突撃し、秀吉に傷を負わせた。その傷がもとで秀吉は死去したのだ、と。
 豊臣側はそういう事にしたようだった。
 おかげで、敵の士気は異常に高い。
 これはまた手のかかる戦になる、と誰かが言っていた。
 事実とは違う、でっちあげだと信之が声をあげても、豊臣はそれを聞き入れないだろう。信之は確かに離反した。裏切った者の言葉は軽く見られる事も多い。
 信之は別段気にしていない、と言っていたが、はたして本当だろうか。憤慨はしていると言っていたが、本当はもっと違うのではなかろうか。そう思っていた幸村は、兄と話すべく廊下を歩き―――信之のもとに、稲がいることに気付く。
「酷いです!」
 彼女の声は甲高く響く。信之の声は聞こえなかった。一方的に稲が憤っているのかもしれない。
「信之様をあのように愚弄するなど…!ありえません!」
 信之は困ったように稲に頷いている。頷いているというか、相槌を打っているというか。信之の怒りが露にならないのは、こうして周囲が憤っているからかもしれない。他の怒りに吸収されて、自分の怒りがどこかへおいやられてしまったような。
「信之様は…私を、助けに…」
「…稲殿、私なら平気だ」
「ですが!」
「わかってくれている人がいればそれでいい」
 信之の言葉に、稲はみるみるうちに頬を紅潮させた。きめ細かい絹のような白い肌が赤く染まれば、見る者全てに稲の好意の行先が知れるというものだ。
「気になさるな」
「…っ私は嫌です!!」
 落ち着いている信之に対して、稲は怒りが静まらないらしい。とはいえ、これ以上怒りを信之にぶつけても仕方のない事は理解しているらしい。だんだんと勢いをなくしてしぼんでいく様に、信之は頷く。
 そんな二人を少し離れたところで見ていた幸村は、稲がいる限り信之は平気だ、と納得して踵を返した。
 そうしていたところへ、兼続が顔を出した。
「信之殿は息災かな」
 にこやかな兼続はいつもの事ながら機嫌が良さそうだ。幸村はそれに頷く。
「稲殿との婚儀はまだなのだろうか?」
「まだのようですが、近々そういう話もありましょう」
「そうか、それは何よりだ。あの本陣で、稲殿は信之殿しか見ていなかったからなぁ」
 少し話をしないか、と兼続に言われ、幸村はまたそれに頷いた。
 信之と稲のいる部屋から少し離れた部屋に兼続を通す。―――その屋敷は、兼続のものだった。幸村たちは今、米沢にいる。
「話、とは」
「話があるのは幸村ではないか?」
 見透かされている。
 あの戦の直後から、いや本当はそれ以前からずっと聞きたかったことがある。兼続はそれを知っていたからこそ、戦の前にこうして訪れたのだろう。 あの戦のあとも、兼続は忙しくしていて、幸村の為に時間を割くことは出来ずにいたのだ。
「次の戦の前に聞いておかねばならない気がしてな」
「…兼続殿」
「うん?」
「三成殿の狙撃は、あなた方が手をひいていたのですか?伊達と、内通して」
 遠まわしに尋ねる余裕はなかった。早く、一刻も早くきちんとした言葉を得たかった。だから幸村は、まっすぐに問いただす。兼続はその視線を受けて、またまっすぐに幸村を見つめ返してきた。
「伊達と内通、というのもおかしいが。伊達と手を組んだのは景勝様が政宗の捕縛をしてからだ」
「………」
「政宗は年若い。血気盛んだ。父の死去から伊達家を背負い、奥州を平定した。奥州勢は強い当主を好む。一つの敵に皆が当たれば、一致団結するだろう、と。まぁ、その後の事を深く考えなかったのか、それとも我らが政宗を生かすだろうと踏んでいたのか。そこまでは聞けていないが」
 兼続の言葉が本当ならば、景勝が援軍として出兵していて、伊達軍を挟み打ちにしたのも偶然だと言うことだ。
「上杉は、豊臣の天下についてどうこう言うつもりはなかった。が、豊臣はおそらく力で天下をとろうとしていた。真田を従属させなかったのが、その顕れだ」
 兼続の言葉に「真田」の名が出たことに、幸村は酷く遠い気持ちで聞いていた。だから今があるのか。だから、上杉が出兵し、天下を狙う有象無象に紛れ込むのか。
「政宗を捕縛したのはちょうど良かった。良い節目でもあった。我らは謙信公の時代から培った、私利私欲に塗れず戦うという大義名分もある。奥州は政宗がいなくなれば再び荒れる。それは避けたい。米沢にも豊臣の力はいらぬ。ましてや、数の力で圧そうとする戦はなおいらぬ」
 幸村は何ともいえず、口ごもるしかなかった。どれが本当で、どれが嘘なのか。兼続の様子からそれを察するのは難しい。だが、今の兼続の言葉に嘘は感じなかった。天下を獲れる器だと称され、警戒されているこの男は、それでも幸村には嘘をつかない。
 ―――そんな気がした。
「…私は、幸村がこちらに来てくれてとても嬉しい」
「……兼続殿」
「ずっと思っていたのだ。どうせだから、三成も幸村も、上杉で迎えられればどんなにか、と」
 兼続の笑顔がまぶしい。三成も、兼続も、幸村の昔の武勇をよく知るからそう言うだけだ。今のように、力を発揮出来ず、槍をどう振るうかすら忘れることがあると、知らないから。
「…三成殿はともかく…私など、何の役にも」
「信之殿を生かして帰したではないか」
 何を言う、とばかりに兼続が言ったことに酷く驚く。
「…そ、それは、兄はもともと一人でも何とか出来たはずです」
「どうかな?私はそうは思わん。信之殿は実際危なかった」
「………」
「誇っていいことだ。幸村。兄を無事に返すため、殿を立派に務めた」
「…しかし、私は…三成殿とは、戦えませんでした」
 戦えと言われても、槍を振るうことは出来なかった。酷い汗をかいた。恐怖に何も出来なかった。ただ、避けるのが精一杯で。
 自分の気持ちを知ってしまったからこそ、戦えない。上田での戦の時は、わけもわからぬまま戦っていた。戦いたくないという気持ちと、それを許してくれない状況とであがいて、幸村は抵抗し続けた。
 結局は、最初から目的がはっきりしていた三成に勝てるわけもなく、捕縛されてしまったけれども。
「……そうか。幸村はそれが気になっているのだな」
 思い出し、身を縮ませていれば、兼続が酷く優しい声でそう言った。だからだろうか。素直に自分の感情を吐露することが出来た。
「………あの人と戦うのは、怖い。…怖いのです」
「何故だ?」
「そ、それは」
 自分が三成を特別に想っているからだ、とは言えなかった。いくら兼続が相手でも、その点については自分の口からは到底言える気がしない。その上、今では敵同士なのだ。
「幸村が怖いのなら、きっと三成も同じだな」
 それを察してかそれともそうでないのか。定かではなかったが、兼続の言葉に幸村は首を振る。
「…そんな、ことは…」
「怖いと知られるのを恐れて、強く出る。失うのが怖いのは、誰もが同じだ。失うことに強い人間などいない。失うことに何も思わぬなら、それはもう人ではないのだ」
「………兼続殿」
 三成は怒りに身を沈めていた。はじめて自分にぶつけてきた、その感情に幸村は凍りつきそうだった。だからこそ、思いついたのだ。甘い甘い夢。
三成の手にかかってしまえばいい、と。
「自棄になるな、幸村」
「………」
 また見透かされた。
 幸村はその事に少しおかしくなって、酷く不自然な笑みを浮かべる。
「…そうだ幸村。いいものをやろう」
「…?」
「札だ。愛染明王の力が宿っている。きっと幸村を守ってくれるぞ!」
 そう言って、兼続は懐から取り出した札を素早く幸村の手におさめた。
 兼続のものだから、本当に力の宿ったものなのだろう。そう言えば、信之もあの札に救われたと言っていた。
「…ありがとうございます」
 幸村は、静かにそれを受け取った。
「肌身離さず持っていれば、いつか力を貸してくれる」
 兼続の言葉に頷いた。今度は歪んだ笑顔にならないように、気をつけながら顔をあげる。
「…幸村…」
「はい」
「…泣くといい。それで、少しは心の平静も保たれる」
 途端に、ぼた、と存外に大きな音がした。何の音か、と床を見つめれば、水滴がひとつ。その上に重なるように、ぼたぼた、と続けて水滴がこぼれていく。
 それを見つめて、ああ自分が泣いているのか、と幸村はようやくその事に気がついた。




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