花に嵐 36




 徳川の離反。それに呼応して真田も離反した。
 稲を一旦は捕縛した豊臣方は、しかし本陣でそれを取り逃がす。
 本陣に単騎で駆けてきた信之に、稲を奪還されてしまったからだ。
 追えなかったのには理由がある。
「……」
 左近はすでに息絶えているその人を見つめて、だから徳川があの時に離反したのだ、と察した。こちらにも間者がいたように、徳川方からも間者はいたということだ。
 三成は何も言わない。
 とにかくこの死はしばらく隠すしかなかった。せめて戦場で死んだのではない事にしなければならない。素早く秀吉の死から立ち直った左近は、すぐに周囲へそう指示した。無論、この事は敵方に知られている。だから死んだのは秀吉の影武者だという事にしなければならない。
 しかも、この場をそそくさと撤退するわけにもいかない。
 このまま撤退しては、北方が調子に乗ってしまう。ただでさえ今、豊臣は世で言う悪者になっているのだ。
「殿」
 いつまでもうなだれている三成に、左近は声をかけた。
 秀吉がいない以上、誰かがこの場の指揮をとらねばならない。とはいえ、この本陣に詰めていたのは三成だ。
 秀吉の他の血縁は、皆それぞれの場所で布陣を敷き、今もなお徳川方と戦っているはずだった。
「左近」
「はい」
 秀吉の亡骸を見つめていた三成が、ようやく口を開いた。声は意外にもしっかりしていて、左近はまずその事に安堵する。
「…誰がこの戦の情報を、敵に漏らした」
 それは左近も気になっていた事だ。無論、徳川方の忍びがいたのだろうとは思うが、忍びよりも的確に、隊を率いる将でなければ知らない策まで漏れている。これはおかしい。
 しかしそれは調べなければわからない事だ。無論、徳川か真田か―――そのどちらかなのは明白だけれども。
「真田か?」
 三成の口からあえてその名が出た事に、左近は違和感を感じた。秀吉を失った事で、天下はこれからまた一波乱も二波乱もあるだろう。
 徳川の離反と、秀吉の死が同時に起きてしまったのはあまりにも時期が悪い。
「…追え、真田を」
「殿、それはもうやっています」
「…俺が出る!」
「殿!?」
 ここにきて怒りが爆発したような三成は、家臣たちが止めるのも構わず馬にまたがり、単騎で本陣を飛び出した。その形相に家臣たちはすっかりおいていかれた形だったが、左近が慌てて叫ぶ。
「連れ戻せ!」
 ―――秀吉の死。
 徳川の裏切り。
 上杉と伊達の連合。
 恐らく敵方にも、とうに秀吉の死は知らされているだろう。
 それまで、一瞬前までほぼ安泰だった天下の座が、急速に危ういものとなった。
 それを肌で実感しながら、戦場へ目をやる。遠くあちこちから煙が上がっている。あの近くで、何人もが死んでいるだろう。
 いまや不義と罵られるのは豊臣だ。上杉は大義名分を得ている。その大義名分もあやしいものだったけれども。
 左近は三成のいなくなった本陣を、三成にかわって請け負うしかなかった。


 幸村は、戦場に立っていた。
 信之が稲を連れて戻ってきた時、幸村はもう心を決めていた。
 信之を助ける―――と。
 それは、以前の戦での失態を雪ぐ為でもあった。だが、結局のところ、血縁を敵に回すことなど出来ないという気持ちと、そして信之の稲への気持ちをその目ではっきりと見たからだった。
 殿としてこの場を、信之をとにかく逃がそう。信之は徳川と共に離反し、上杉と伊達の軍と行動を共にしている。ならば、上杉の本陣まででも行くことが出来れば。
 じりじりと後退しながら、幸村は槍を振るった。こんな時ばかり、槍は自在に動く。周囲の敵を薙ぎ払い、倒していく。以前の自分に戻ったように、その動きは快活だった。思うまま、槍をさばく事が出来る。
 ならばやはり、自分は三成の元を離れるべきなのだろう。武士である自分が、その力を出せなくなるならば。
 にも関わらず、未練を残して信之と共に離反するとは言えなかった。
 それもこれも、全て三成に起因する。ならばこの感情ごと斬って捨ててしまえばいい。
 槍を一閃するごとに、この想いも消えてなくなればいい。
 そう考えていた時だった。
「幸村…!」
 それは聞いたこともない冷たい怒号だった。その声を聞いた途端、背筋が粟立つ。槍を持つ手に脂汗を感じた。何とか、槍を握り直して振り返る。そこには三成がいた。
 普段からさほど機嫌のいい人ではない。気難しい一面もあったから、どちらかといえば怒っている姿をよく見かける人ではあった。だが、今の三成はそれでも見たことのないほど怒りに顔を歪めていた。
「三成、どの…」
「おまえも裏切るのか」
 怒りの形相とは裏腹に、三成の言葉は酷く悲しく聞こえた。胸を締め付けられる。足場がぐらつく。それほどまでに想っているのに、その感情一つ一つを斬り捨てられるのか。
「………」
 だが、ここで手のひらを返して豊臣にまた戻るわけにもいかない。幸村はもう信之の逃亡を助け、豊臣の兵を倒している。
「…見ての通りです。三成殿」
「…っ、ならば戦え!」
「………」
 出来るわけがない。
 このまま戦えば、十中八九、幸村が負けるだろう。三成の手にかかって、死ぬことになる。
(……三成殿の手にかかって)
 三成は幸村を信じていると言っていた。何度も何度も。どれだけ失態を繰り返し、秀吉の怒りを買っていたとしてもだ。その信頼を裏切るのは苦しい。自分の、色恋の感情を抜きにしても。

「幸村様!」

 信之の隊の誰かが撤退を促す。しかし三成がそれを許さなかった。馬の腹を蹴り、突進してくる。幸村は、三成の突進を何とか避けて再度向かい合った。
「おまえは…っ、幸村、おまえは俺を裏切るな…!」
 言葉は空しく宙で彷徨う。その言葉をぶつけられた幸村は、受け止めきれずに泣きそうになった。
 裏切りたいわけがない。でも、それでも、もう決まっている。
「…私は、あなたの傍にいない方がいい」
 そう言って、幸村は踵を返した。馬を上杉の本陣のある方へ駆けさせる。追ってくる気配はなかった。
 手のひらに浮かんでいるだろう汗はじっとりとしている。三成と対峙して、そこまでの緊張を強いられたのだった。
 ぐ、と拳を握る。
 これからは敵だ。
 だが、幸村の中で一瞬浮かんだ願望に近い何か。
―――……三成殿の手にかかって。
 それが、酷く甘い何かに見えた気がして、幸村は薄暗く口許を歪めるしかなかった。



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