花に嵐 35




 左近は兵を伏せさせて、時を待った。
 徳川は動く。それはわかっていた。
 とはいえ、その為に兵力を分散させねばならないのは腹立たしい。正直、ずいぶんとお粗末なやり方だ。左近の兵の分も、上杉と伊達に充てられれば 多少、戦況は変わるかもしれない。
 だが、それは今のところ望めなかった。こうして兵を伏せている以上、あとは根競べのようなもので、どちらが先に動きだすか。それに尽きる。
 しかし、「その時」は予想よりもずっと早く訪れた。
 徳川の動きが慌ただしくなる。
 時が来た。しかし左近はまだ動かなかった。まだ徳川との距離はいくらかある。
 徳川の裏切りについては、実のところ筒抜けに等しかった。元々豊臣はいずれ徳川も併?するつもりだったから、あらかじめ間諜を紛れ込ませていた。
 そこから得た情報に、さすがに左近も最初は驚いた。だが、上杉が動くと考えればこれまでの事も全て腑に落ちる。
 三成が負傷した時の戦。あれほど用意周到に伊達を捕えられたのは何故か。その上で三成の応急処置を行い、恩人として扱われた。この上で上杉を叩くというのは、不義だという事になる。実際、もっぱら評判がいいのは上杉で、豊臣は器が小さいとばかり言われていた。
 それまで、秀吉の人心をつかむ手段は徹底していて、豊臣が天下を獲るのも時間の問題だったのだ。
 それが、一転した。
 それが兼続の考えた通りの策だとしたら、それは恐ろしいことだ。秀吉が昔兼続に言ったように、天下を狙える器だ。
(謙信公の言葉に振り回されてるだけの御人かと思えば)
 やってくれる。
 左近は改めてそう思った。無論、三成にはそのあたりは伏せてある。三成と兼続は親友だったし、実際一命を取り留めた事から、三成はずいぶん兼続に恩を感じているようだった。
 とはいえ、戦は上杉が相手。三成もその点については多少腹をくくったようだった。
 その上杉に、踊らされているのかそれとも違うのか。反旗を翻すべくして徳川が動きだす。
 最初の左近の伏せるあたりまで兵を率いて移動してくるのは誰だろうか。大体予想はついていた。
「来たな」
 こういう時、もしくは機動力が必要になる場面で、いつも迅速に動くのは決まっていた。
「将は捕えろ」
 確認を兼ねて、兵たちにそう告げると、左近は間合いを詰めて、ついに行動を起こした。誰もいないはずだった場所から、唐突に敵兵が現れたのを見て、徳川の先陣は陣形を崩しだす。
「堪えなさい!」
 甲高い声が戦場に響いた。予想通りだ。左近は自分の読み通りの人物が現れたことに口許を歪めた。
 それは、家康からも大事にされる、本多忠勝の娘。
 稲だった。
「将は生け捕れ!」
 有無を言わさず左近は声を上げた。士気の高まっている兵たちが、陣形を乱している稲の隊へ当たる。勝敗はその場ではっきりとついた。あっさりと崩された稲の隊は、そのまま雪崩れるように散り散りに戦い始める。
 ただでさえ女で、若いとなれば戦場での対応にはまだ慣れていない。しかも、彼女の隊はいつも機動力を理由に敵の裏をかく事が多かった。だからその逆は彼女にとってほぼ初めての事だったに違いない。
 うまく指揮をとれぬまま、自軍の兵がやられていく様に一瞬呆然とし、それから慌てて弓をとる。
 鋭い矢が戦場を飛び―――左近の眼前でそれは防がれた。
 左近の持つ斬馬刀がそれを防いだのだった。
「…っ、島、左近…!」
「おやおや、お嬢さん。どこへ行くつもりですか?」
 左近の言葉に稲は怯まなかった。
「どきなさい!」
「それは出来ない相談ってやつですよ」
 本多忠勝の娘。
 稲は徳川の言うなれば穴だ。弱い部分に当たる。過去、真田と徳川の戦で稲が捕縛された事があったが、あの時徳川はあっさりと真田の示した条件を呑み、撤退した。
 その戦自体は話に聞いただけだったが、それ以来徳川を攻めるとしたらここだ、とずっとあたりをつけてきた。
「ならば正々堂々、あなたを倒して通ります!」
 清々しいほどの堂々とした言葉に左近は肩を竦めた。やれやれしょうがない、とばかりに斬馬刀を握りなおす。その左近に、稲は矢を抜き放った。
 空を切る音がして、矢が左近めがけて飛んでくる。だが先ほどと同じように左近はそれを斬馬刀で防いだ。
「効きませんよ」
 大振りの刀にも関わらず、左近はそれを機敏に動かした。
 降りかかる矢をなぎ払い叩き落としながら、左近は突進してくる。稲は咄嗟に馬から飛び降りた。身の軽さならば他の誰にも負けない。忠勝に稲が戦に立つ術として教わったことの一つが身のこなしだった。細身の身体で男に勝つ方法は少ない。弓を手にしたのもその為だ。
 稲の身が軽やかに宙を舞う。左近は一瞬その軌道に目を瞠る。それと同時、ひどく近い位置に稲の顔があって、左近ははっとした。
 きめの細かい白い肌。艶のある甘い香りのする髪が、左近の目の前を通り抜ける。
 女だてらに戦場に出るとはとんだお姫様だと断じていた左近だったが、眼前を通りすぎていった稲の酷く女らしい部分に目を奪われ、隙が生じる。
 稲はといえば、着地と同時に間合いをとった。詰められたら勝てない。
「……」
 左近は自分の失態に気がついて、舌打ちした。
 これはますますもって、稲を生け捕りにして徳川の士気を下げ、従わせなければならない。
 間合いをあけようとする稲の動きを知り、左近は無遠慮に詰めた。
 足元に、矢が刺さる。だが左近は逃げなかった。
 じりじりと間合いを詰めていく。気がつけば、稲の携えた矢はもうなくなっていた。


 徳川の離反の動きに呼応して、信之もその動きに同調した。
 幸村はといえば、身の振り方をぎりぎりまで迷いはしたが、結局離反はしなかった。
「幸村」
 信之の言葉に幸村は首を振る。
「私は、駄目です。兄上」
 血の繋がる兄弟の対決に、周囲は言葉もなく次の一手の行く先を見守る。
「ならばこれからは、血の繋がりはないと考えよ。私も、そうする」
 信之の言葉は冷たい。だがわざとそうしているのだという事もわかる。幸村は結局選ぶことが出来なかったのだ。三成の傍を離れるという選択肢を。
 そうして、長い間睨みあいを続けていた時だった。
「信之様!」
 それは忠勝の軍の者だった。忠勝の軍には屈強な者たちが揃っていて、常に家康の周辺を守っている。今もそのはずだったが、そのうちの一人がこの戦場のど真ん中を、馬を駆けさせてきたのだった。
「稲姫様が!」
「…!?」
 島左近に捕縛された。
 恐らく忠勝は家康のもとを離れることが出来ないのだろう。位置取り的に、今前線になっているのは豊臣の本陣のごく近いところのはず。
「…っ兄上!」
「…、幸村。おぬしとの決着はまた今度だ」
 それだけ言うと、信之は馬を反転させた。そして、戦場を駆けだす。
 幸村はその背を見つめた。
 きっとあの後ろ姿は、昔信之が稲を助けた時と同じ姿だ。

「離しなさい!離して!」
 気丈かと思えば二度目には気弱になった女の声で叫ぶ稲を取り押さえ、左近は今まさに前線になろうとしている豊臣本陣まで戻った。
「左近か!」
 三成の声に、はい、とだけ頷いて縄で縛りあげた稲を三成に差し出す。
「よくやった」
 稲の顔色はどんどん曇っていく。それもそうだろう。三成の顔色は酷く悪く、敵意に満ちた眼差しは異常なまでに冷たい。ただでさえ整った容貌は、敵意を剥き出しにするとそれこそ人形のようだ。
「私をどうするつもりです!」
「徳川を屈伏させる」
 三成の声は冷えていた。
「私などの命で殿は屈伏したりしません!」
「それはないでしょう。真田との戦の時は全面的に負けを認めたじゃないですか」
 言われて、稲はさっと青褪めた。それは、稲を助けようとした信之の行動から偶発的に生まれた状況だった。今とは違う。
 だが、そんな事をこの二人に言ったとしても意味はない。
 女だから狙われたのか。その前例があったから狙われたのか。
 稲は不安に苛まれるしかなかった。
 近くで戦の喧噪が聞こえてくる。だいぶ戦線がこの本陣に近づいている証拠だった。秀吉の姿はない。倒れたという話はやはり本当なのだろう。半蔵の入手した情報に間違いはない。
 そうしていた時だった。
 唐突に、周囲が騒がしくなった。馬蹄がして、振り返った先に、赤の鎧。
「………っ!」
 その場にいた全員が息を呑んだ。
「真田…っ」
 信之だった。馬の勢いは衰えず、そのまま突っ込んでくる。目指すのは稲だ。このままでは稲が馬の下敷きになる―――その瞬間。
 信之の身体が馬上から消えた。手を伸ばし、稲の身体を引きずりあげる為、信之は最大限身体を地に近づけて、片手で手綱を握りしめ、片手で稲の身体を抱きあげる。
「…っきゃ…っ!」
 動作は乱暴だったし、攫うようにして稲の身体を引きずり上げた。体勢を崩しかけた稲をどうにか馬上に押し上げて、自分も元通り戻る。
「真田信之!」
 三成の声だった。鉄扇が信之めがけて弧を描く。信之はそれを刀で弾いた。無論威力のある鉄扇はそのまま地面に突き刺さる。そして信之の刀も折れた。
 引き時だ。信之は馬の腹を蹴った。
「その男を追え!謀反人だ!」
 三成の言葉に、馬に追いすがるようにして兵たちが群がる。何とかそれを振り払いながら、信之は馬をひたすら駆けさせた。
 しかし次第に追い詰められる。そのうち矢が飛んでくるようになった。生きて戻れないかもしれないと思ったが、今は後ろを振り返る余裕など微塵もなかった。
 が、何故だか矢は信之の馬を避けているようだった。何故だ、と思ってふと気がつく。懐に入れたままだった、兼続の札。
―――身離さず持っていてくださればよい。お守りだとでも思っていただければ。
 兼続は「気休めに」と言っていた。だがとんでもない。信之は兼続に感謝しながら、馬をとにかく走らせた。
 そうして、走った先に。
 赤い鎧。
「…っ、幸村!」
 幸村は信之と共に離反はしなかった。今狙われれば稲もろともだ。刀は折れて使い物にならない。だが、それでもその刀を構えるしか手はなかった。
 さすがに幸村相手に兼続の札が有効とは思えない。
 幸村は、そんな信之から視線を逸らさない。
 そしてそのまま槍を頭上で一閃した。持ち手を変えて、いざ戦に挑むように姿勢を低くする。その姿に、信之はなす術もなかった。
 幸村が馬の腹を蹴る。前門の虎、後門の狼といった状況で、信之は覚悟を決めた。
 稲を守るようにして無理やり頭を低くさせる。そうして、信之は折れた刀のまま戦いを挑もうとした。
 ―――が。
 槍が空を切った。その一閃に大気が揺らぐ。
「ぐあ…っ」
 呻き声を上げたのは、信之でも幸村でもなかった。ましてや稲でもない。
 振り返れば、信之を追ってきた豊臣の兵だった。
「…幸村!?」
 先ほどは離反しないと言っていたはずだ。
 にも関わらず、この態度。すでに豊臣の兵を倒した後では、豊臣に忠義を誓ったところで信じてもらえるはずがない。
「兄上、行ってください」
「しかし…っ!」
「ここは私が守ります。何人たりとも、行かせません」
 幸村は振り返らなかった。続々やってくる豊臣の兵を息をするように倒していく。
 戦場に立つ幸村はいつも強かった。それはいつも間近でその戦いを見ていたからこそ、信之はよく知っている。
 だが振り返らないその後ろ姿に、信之は唐突に不安を覚えた。
 何故だかはわからない。ただ、その後ろ姿が、頼もしいはずの背が、酷く頼りないものに見えたのだ。





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