花に嵐 34




 戦が始まった。
 話に聞いていた通り、豊臣と上杉の戦であり、その援軍として徳川も大多数の兵を動かす大掛かりなものだった。
 三成は内心複雑な気持ちを抱えたまま、本陣でその戦況を見つめていた。
 様々な伝令が飛び交い、それは三成と秀吉に伝えられる。
 兵は圧倒的に豊臣軍の数が上回っていた。上杉は瀕死の伊達と連合し、意外にも決定的な状況は回避し続けている。
 その「決定的な状況」を回避し続けている上杉・伊達の軍を見ていると、左近の得た情報というのが間違いのないもののような気がして、三成は粟立つ感情を抑えるのに必死だった。
 苛立ちが募っているのは、何も三成だけではない。
 どちらかといえば、その苛立ちは秀吉から電線してきたもののようでもあった。
 圧倒的な数を投入し、そもそも必ず勝てる戦だったはずなのだ。
 にも関わらず、今の今まで戦況は均衡を保ち続けている。これが異常でなくて何が異常だと言うのか。
 戦の前に、左近が入手した情報とは徳川の裏切りだった。
 徳川が、豊臣と手を切り、上杉・伊達につくというものだ。
 噂について、それが定かかどうかは三成には判別がつけられなかった。かといって、この戦に徳川の増援がないのもおかしな話だった。
 裏切るという噂が本当ならば、戦場で豊臣は決定的な遅れをとることになる。その場面をどう切り抜けるかで今後が決まる。
 その為に、左近はすでに本陣から戦場へ出ている。向かった先は徳川が布陣を敷くあたり。そのあたりに、兵を伏せている。
 何かあった時、左近が必ず迅速に動くことだろう。
 一歩間違えば左近の率いる部隊ごと危ない。だが三成はその点については心配はしていなかった。
 左近のことだ。恐らくはうまく立ち回るだろう。
 今問題なのは、とにかくこちらの情報を先回りするように動く上杉と伊達の軍だ。
 情報が漏れているとすれば、徳川からだろう。しかしこうも情報が漏れ続けていれば、秀吉もさすがに重い腰を上げるはずだ。そして徳川はとにかく窮地に追いやられる事になる。
 そこまでの事を、はたして徳川がやるだろうか。あの慎重すぎるほど慎重な男が。
「三成!」
 秀吉の声は酷く張りつめていた。
「はっ」
 すぐに秀吉の元へ行けば、やはり苛立った秀吉が声高に叫んだ。
「どうなっとるんじゃ!」
 秀吉の怒号にその場にいた者の背筋が緊張の為にぴんと伸びた。いまだかつてこんなに怒り狂っている秀吉を見るのはほとんど初めてと言ってもよかった。それだけに、三成も一瞬驚いたが他の者のように顔には出さない。
「申し訳ございません」
「結果を出すんじゃ、三成!上杉を崩せ。何か良い案はないんか!」
 しかし結果を出すにも今の状況ではこちらの手は読まれている。
 秀吉も頭の回転の速い人だ。そんなことがわからないはずではない。その上、今回の戦は数で圧倒しようとしたせいで、小細工はほとんどしない予定でいた。一夜城なり何なり、やろうと思えばできなくはない。だが、相手は兼続だ。こちらの手などいくらでも知っている。一夜城については以前に一度、西の方での戦で行った際、援軍に上杉から兼続が来ていたのだ。
 あの城が張りぼてだと知られれば余計に勢いづける可能性もあった。
「秀吉様。数では圧倒的に我らが有利。それは揺るぎません」
 落ち着いて下さい、と三成がそう言えば、秀吉は苛立ちを隠さぬまま舌打ちした。布陣では前線に真田が配置されている。予想通り、秀吉は真田の武勇をあらかじめ称え、前線へと配置した。信之も幸村もそれに従い、上杉と伊達の攻勢の前に身体を張っている。
 そして徳川はその後ろに配置している。位置としては豊臣本陣の目前でもある。もし万が一徳川が裏切りを謀った場合、真田も豊臣も危険だった。
「今しばらくお待ち下さい、秀吉様」
 しかしその裏切りの瞬間こそが、転機だ。本陣裏には、西からの増援が配置されている。徳川の裏切りを予期しての事だ。精鋭を揃えているから問題ないだろう。
 真田も、兄の信之は徳川とは縁が深いが、幸村に限っては裏切るなどあるはずがない。
 内心で断言し、だが三成は言い知れない不安を感じた。

―――私はこのままではあなたの足手まといになります。

 夢での言葉だ。生々しくも明らかな夢だった。上田での戦の夢だ。一年前の春の戦。
 しかしその夢がどれだけ生々しかろうが、それは三成の見た夢だ。本物の幸村がどう思っているかなど、三成にはわからない。
「結果ならば、前線の者が出すはず―――」
 だがその言葉の途端、秀吉の形相が明らかに変わった。殺気立った顔色はいっそ恐怖に歪んだ。
 だが、秀吉は何も言わない。
 その迫力に一瞬言葉を失い、三成は呆然とした。言葉を紡げずにいれば、唐突に秀吉が己の胸を強く掴む。
「…っ」
「秀吉様…!?」
 三成の指先からさぁっと血の気がひいた。秀吉の身体は、力なく前のめりに倒れる。
 鎧が耳障りな音をさせた。三成はその様子をコマ送りでもするように見つめていた。
 本陣内が、騒然となる。
「秀吉様!」
 秀吉は酷い顔色だった。怒りによるものかと思っていたそれは違ったのだ。
 三成は慌てた。だが周囲たちが慌てるのを見て冷静さを取り戻す。
「静まれ!」
 秀吉を抱えあげ、急いで処置するよう手配している間。
 秀吉はうわごとのように何か言っていた。
 三成は何を言っているのか聞きとろうと耳を寄せ、その言葉に血の気を失う。
「…真田を処断するんじゃ…三成ィ…」
 何を言っているのです、と続けようとしてだが言葉は出てこなかった。
一体どういうことだ。
 真田を処断―――?
 それは、一年前の戦の時に言ったはずだ。信之と幸村の兄弟は役に立つと。
 豊臣の為に尽力するでしょうと進言し、秀吉はそれを受け入れた。この一年の間に、秀吉の中で大きく真田に対する評価が下がったということか。
 それとも。
(…まさか)
 嫌な予感が身の内を掠める。悪寒のようなものが背筋を走った。
「伝令!」
 騒然となる本陣に、伝令の声が響いた。
「徳川様、離反!我が本陣に猛攻してまいります!」


 上杉本陣では景勝と兼続がいた。
 伊達は別のところに陣を敷いている。
 景勝がぼそりと呟いた。
「徳川殿は裏切るかな」
 独り言めいたその言葉に、兼続が笑みを浮かべる。それは戦場ではとても異質な笑みだった。
「動きましょう」
「そうか」
 兼続の言葉に、景勝はそれ以上何も言うことはないようだった。僅かに浮足立つ気持ちを、兼続が肯定することでおさめた。
 上杉本陣は落ち着いている。今のところ、情報通りの動きしか豊臣側はしてこない。そろそろあの秀吉のことだから、何かしらの手を打ってくるのではないかとは思うが、ちょっとやそっとの事では上杉側の布陣が崩れることはなさそうだった。
「伝令!」
 足早に駆けてきた伝令が、戦場の様子を伝えてくる。
 前線では現在、真田との戦いになっているらしい。双方、同じくらいの被害を受けている。これといった突破口もなく、今のところ戦場での力は拮抗しているらしい。
 拮抗しているのにはわけがある。真田信之が、徳川の動きに呼応して寝返る予定になっているからだ。
 それを上杉側も知っている。だから決定的な猛攻は受けないし、しない。
 幸村については、まだはっきりとした答えは得られていなかった。個人的には幸村の力は頼りになる。兄と共に寝返ると言うのならばそれは願ってもないことだ。
 だが、兼続は三成の、幸村への執着を知っている。
 間違いがなければ、幸村も同じように三成を想っているはず。
 この二人が強く結び付いていたら、寝返るというのは難しいのではないかとも思う。逆に、信之の足を引っ張ったりするだろうか。
「…読めんなぁ」
 そこだけは読めない。
 そう思いながら、兼続はじっと戦況を見つめていた。
 三成は今頃どうしているだろうか。驚いているだろうか。苦い気持ちを味わっているだろうか。
 どうせなら。
(三成を秀吉の元から引き離せれば楽なのだがな…)
 しかし、それは兼続が上杉の元を去るのと同じくらい、ありえない話だった。ならばありえないたとえ話に夢を見るのはやめた方がいい。
 幸村についても同じだ。
 焦ることはない。
 少なくとも、この戦で負けることはない。豊臣が何か仕掛けてくるのだとしたら、これからだ。だが今までその気配はない。となれば、本当にひたすら数の力でおすつもりなのかもしれない。
 それでは上杉に負けはない。
 そうしていた時だった。
 徳川の忍びが上杉の本陣に現れる。
「秀吉、危篤…」
「なに!?」
「それはまことか」
 兼続の驚く声にかぶさるように、景勝が問う。忍び―――半蔵は頷いた。
「徳川殿に伝令を」
 兼続の声に、本陣がにわかに慌ただしくなる。
 勝つなら今しかない。
「徳川殿の話は本当だったか」
 景勝がその喧噪をよそに兼続へ意見を求める。確かにそうだ。秘密理に行われた会談で、家康は秀吉はあまり長くないやもしれないという話だった。ならば待っていればいずれ天下は傾く。だが、その方法では下手をすれば豊臣に天下が掌握されてしまう可能性があった。
 まだ北の大地が奪われぬ前に、行動をしなければならなかった。
 今頃、三成は大変だろう。そう思いながら。
「離反するならば今だ。急ぎ伝令を!」



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