花に嵐 33




 幸村はどうすべきかわからないまま屋敷を出た。
 豊臣の天下の近い今、北の方での動向が少しばかり怪しいからといって、この大阪ではそんなものどこ吹く風とばかりに城下の人々が行き交っている。
 活気のある、生活の臭いの溢れる姿を横目に、ふと幸村は少し前に左近から頼まれた里のことを思い出す。
 その里は静かなところで、物思いに耽るにはいい場所だと思ったのだ。
 ここからどれほどかかるかわからないが、行ってみようと思った。時間がかかったところで関係ない。
―――…徳川様は豊臣を裏切る。
 信之の言葉で今まで嘘だったことはない。
 だから、本当に戦は起こるのだろう。そして豊臣と上杉は戦い、その戦で豊臣の為に戦っていた徳川が離反する。
 その時に、その動きに呼応して信之も道を共にする。
 ならば、自分はどうする?
 答えはもう出ている。だがそれを答えとして信之に打ち明けるには、まだ整理が出来ていなかった。
 そう。答えなんかとっくに出ている。その答えはいつだって、三成を前にするとはっきりとした形を持つ。
 だがそれは、幸村にとって、あまりにも苦しいことだった。
(…私は、いつからこんなに女々しくなった)
 信じるものに裏切られたからか。
 信じたものは全て裏切っていくからか?
 三成はこんな自分を好いていると言う。こんな女々しい姿を見てもそう言ってくれるのだろうか。
(…離れる、べきなのだ)
 だがそれで本当に昔の自分に戻れるのかがわからない。
 幸村の中で、三成はとっくの昔に存在が大きくなりすぎて、特別だったのだ。そうでなければあそこまで戦で失態をしたりしない。今だって、三成さえ関係がなければ、幸村はいつだっていつものように槍を振れる。そんな気がしている。だが、このままではどうにもならない。
 信之に従い、徳川についたら今後は豊臣との戦になる。三成は秀吉に重用されている。戦に出ないはずがない。
 ならばどうすればいいのか。
 ふと、そんなことを考えていた時だった。
 どれほど歩いたものかわからない。が、気がつけば近くに水音がしていた。そして、その水音は少し向こうで激しく叩きつけられていた。
 それは、たいして大きくもない滝だった。とはいえ、小さいとは言い難い。道理で寒いはずだとこの水音で理解した。しかも、水は凍っていない。
水量の激しさを理解することが出来た。

「ここは相変わらずだな」

 近くで人の気配がする。それと同時に、知った声がした。
 幸村は慌てて身を隠す。それは、間違いようもなく三成のものだった。
 しばらくそのままでいれば、里の者だろう男と共に三成が現れる。
「先日の雪でだいぶ凍りましたが」
「そうだな。しかし相変わらずの水量だ。雪が溶けてきた頃は注意せねば」
 どれだけかかるだろうかと思っていたのに、どうやら例の里の近くまで、もうたどり着いていたようだった。
 この寒さだと言うのに、三成は政務に復帰していて、普段と同じように里の様子を見にきたといったところなのだろう。
「しかし、驚きました。この寒さに三成様がいらっしゃるとは」
「…身体を動かしていたくてな」
「それはお珍しい。島様がいつも三成様は鬼の形相で仕事してらっしゃると嘆いておられますぞ」
「…他に任せておけんだけだ」
「あの方はどうなのですか?秋の頃にここへ三成様の名代で来た…」
 自分のことだ。
 幸村の心臓がどくりと音を立てた。確かに村の者がよく自分のことを話題にしているとは言っていた。だがこうして隠れた状態で、その場に居合わせたとなると緊張する。
「嫌われた」
 だからこそ、三成のそっけない言葉に震えた。
「何をなさったのです?」
「わからぬ。が、俺は他人を不快にするからな」
「三成様は何事につけ素直な性分でございますから」
 自分の曖昧な態度がそう結論付けさせていたのだとしたら、酷く悲しい気持ちになった。
 そんなことはない。もう嫌というほど、幸村は三成を特別に想っている。 だが幸村の態度は常々曖昧だった。それはわかっている。三成のぶつけてきた気持ち一つ、まともに受け止められない。
 自分は―――。
「しかし、きっと大丈夫でございますよ」
「そうだろうか?」
「ええ。あの方の目を見ればわかりますよ。なんというか、実に三成様の好かれる立派な方でございましたし」
「…そう、だな。あいつは…」
「今何かありましても、最後にはきっと戻ってきてくださいましょう。何せ三成様は見る目のおありになる方だ」
 違う。
 村の者の言葉に幸村は首をふった。
 違う。違う違う違う!
 こんなに自分は迷い続けている。兄からの言葉にも何も言えない。
 そんな自分が、手放しで信頼されていいはずがないのだ。三成の想いにもこたえられるはずがないのだ。
「……夢で」
「はい?」
「戦の夢を見た。あいつが…昔の戦に囚われているような夢だ」
「おや」
「おいていってくれと言うんだ。俺は…どうしてもそれが嫌だった」
「はは、そうでございましょうな。三成様は信頼された方を置いていくことなど出来ますまい」
 里の者の言葉に、三成が珍しく微笑んだ。木々に隠れて見ていた幸村にもその笑顔が見えて、その笑顔が昔を思い起こさせる。
「…ああ。すまんが、少し他も見ていく。寒くて堪えただろう。あとは俺だけでいい」
「左様ですか。それでは申し訳ありませんが」
「ああ。悪かったな」
 おそらくはいつものことなのだろう。里の者はあっさり頷いて里への道を戻って行った。しばらくはその後ろ姿を眺めていたらしい三成は、振り返る。
「誰だ」
 それは鋭い声だった。敵意のある声に幸村の心臓は潰されそうに高鳴る。
「…そこに隠れているのはわかっている。出てこい」
 だがなかなか動く決心がつかず、幸村は三成が見逃してくれないかとそんなことを考えた。だが三成自身も、最近まで鉄砲傷で寝込んでいたのだ。そう簡単に見逃すはずがなかった。ざ、と足音がしたのを聞いて、幸村は慌てる。こちらに来るつもりだ。
「…っ」
 慌てた幸村は、そのまま走りだした。どこをどう行けばいいかわからない。実際ここまで来たまでも考え考え歩いていたのだ。
「…っ、待て!」
 駆けだしたのを見て、三成も走りだす。
 幸村が全力で駆けてしまえば、三成などまけるはずだった。だがそこはよく知らない土地で、三成はといえば、視察のために足繁く通っているのだろう。気がつけば足をとられ、転がり、もたつく間に、間合いはとっくに詰められていた。
「…ゆ、きむら…?」
 驚いた声に、幸村はおそるおそる顔をあげる。
 三成は慌てて駆け寄ってきた。今度は、敵を追い詰める足音ではなくて、もっと親しげな足音だった。
「ど、どうしたのだ。何故こんなところに…」
 何故。
 言われて、どっと嫌な汗が流れた。
 今後の進退について考えていたのだ、とはとても言えず、幸村はただ口ごもる。こういう時、もっと簡単に嘘がつければいいものを。
「…具合が、悪いのか?」
「……いえ」
「いや、顔色が悪い。この下に里がある。行って少し休ませてもらおう」
 三成はそう言うと、立ち上がった。
 顔色が悪いのはむしろ三成の方のはずだ。政務に復帰したとは聞いていたけれども、まだ傷は完全に塞がってはいないはず。なのにこんなところまで来て、その上こんな山の中で僅かであっても走ればそうなって当然だ。
 だが三成はそれについては何も言わなかった。
「立てるか」
「…は、い」
 相変わらず水音がよく聞こえる。冬の山は静かだ。だけれどもそこだけは、酷く生きている気がした。
 幸村はその滝に少しばかり気をとられながら、三成から逃げるわけにもいかずに里まで歩いた。


 里の外れにある使われていないというあばらやにたどり着き、そこでとにかく休むことになった。
 幸村は気まずいまま口をつぐむ。三成もあまり口数は多くなかった。
 ぽつりぽつりと、この里のことを語るのみだ。
「…ここは、俺が時折つかわせてもらっている」
 なるほど、だからこんなあばらやではあっても誰かの手によって綺麗にされているのだ。いつ三成が来てもいいように、と。
 幸村ははい、とだけ頷いて、それで話は終わってしまう。それからまたぽつりと三成がこの里のことを語る。あの滝はいつも冬が来ても凍らない。どうも水量が多いらしく、雪解けの時期は地盤が緩み危ないのだと言う。
 夏になれば、時折里の男たちがそこで度胸試しをするのだとか。
 だが、何年か前に事故があり、それ以来はその度胸試しもやめてしまった。
 幸村はずっと、はい、はい、と頷くだけだった。
 そのうち、三成も語る言葉がなくなってしまったのだろう。黙りこむ。
 そうすれば、あとはもう先ほど三成がつけた炎の爆ぜる音だけだ。
 幸村はその火にあたりながら、ぼんやりと考える。どうして今こんなところにいるのか。どうしてこんな風にぼんやりとしているのか。
 考えなければいけないことは山ほどある。
 上杉との戦のこと。
 そうだ。三成は知っているのだろうか。このことを。
 上杉が豊臣との戦に出る。伊達と手を組み、そして。
 その動きに呼応する動きもあることを。
「み…みつなり、どの」
 幸村は緊張していた。緊張がはっきりと声にも現れた。三成が顔をあげる。
「なんだ?」
「…その…春、に…」
―――次の戦…私は徳川方になる。
 兄から聞いたことを全て語り、問いただそうとした幸村に、信之の言葉が思い出された。
 そうだ。信之はもう決めている。戦が起こったら、その時には確実に信之は三成とは敵になる。そうなったら、この情報を三成に漏らすのはまずい。
信之の命を、危険に晒してしまう。
「春に?」
「………」
「何故黙る?何か言いたいことがあるのではないのか」
 三成の言及は厳しかった。それはそうだろう。三成はいつだってこうなのだから。
「………その、この里へまた…来たい、と」
「…………嘘だろう、幸村」
「………」
「…だが、ならば春にまたここへ来よう。今度はちゃんと二人で」
 黙りこんでしまった幸村に、三成は小さくため息をついた。そして仕方がないとばかりに幸村の嘘に付き合う。
「…申し訳ありません」
「…最近の幸村は謝ってばかりだな」
 しかし三成に、幸村の下手な嘘につきあわせてしまった事は、予想よりもずっと申し訳ない気持ちにさせられた。三成はいつも自分に素直な人だったから、余計にそう思ったのかもしれない。
「………ここへ、来た…のは、考えごとをしたかったので…ここならば、きっと邪魔も入らないだろう、と」
「そうか」
 結果的には三成とはち合わせすることになって、考えが纏まるとかそういう話でもなくなってしまったが。
 三成もそれに気付いたのだろう。
「ならば俺は出ていこう」
「…っ、い、いえ…!」
 慌ててそれを止めて、だが止めたところでどうしようもないまま、幸村は三成をただ見つめるしか出来なかった。
「…幸村は…俺には、よくわからん」
「………」
「近くで見ればわかると言ったのは幸村だったな。俺には、わからん」
「………」
 昔のことだ。
 まだ同盟だった頃、三成とはその頃から親交を深めていた。酷く誤解されやすい人だとは思ったが、それでもやはり近くにいると、彼がとても素直で純粋な人なのだと言うことが理解できて、幸村はそれがとても嬉しかった。
「…たぶん、その頃から三成殿のことを特別に、思っていたのだと思います」
 そう告げれば、三成は驚いた様子だった。
「…そう、か」
「無自覚でしたが…そうだったのだ、と思います」
 今ならば、そう思える。
 だが気付くのが遅すぎた。戦は起こり、父昌幸は処断され、所領は奪われた。何もかもがなくなった頃に、追い詰められてようやく知ったのではあまりにも遅すぎる。
「…私は」
「幸村」
「…はい」
 遮られ、自分が何を言おうとしていたのか。わからないまま三成に視線を戻した。三成も、しっかりと幸村を見つめている。
「…俺は変わらない」
「え?」
「…もし、万が一、おまえが変わったとしても、俺は…俺の気持ちは、変わらない」
「三成殿…」
 こんなに信頼が重いものだとは思わなかった。
 こんなにも、三成の想いが重いとは思わなかった。
 嬉しい気持ちは確かにある。自分の中を、深く包み込むのは幸せだと思う気持ちだ。温かなものに包まれたような気すらする。だがそれと同時に、やはり駄目だと思う気持ちも確かにあって、身動きがとれなくなる。
 そして。
「…私、も。三成殿と同じ思い、です」
 そう言うのが精一杯だった。



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