花に嵐 32




 気がつくとそこは何もない場所だった。
 周囲を見渡してみても、何もない。ただただ暗闇が広がるばかりで、一点の光すら見つけられない。足元は存在が希薄で一歩動いた途端に崩壊するのではないかという気持ちにさせられた。
 少し手を伸ばしてみても、何かにぶつかる気配はない。
「………」
 その世界で、彼はただただ呆然と立ち尽くしていた。
 そもそも自分は何と言う名前だっただろうか。
 一度それすら疑問に思うと、不安が胸の内をじわじわ食い荒らしていくようだった。このままではいけない。
 だから三成は、その暗闇の中、自分に近しい人の名を叫んだ。
「左近はどこだ!」
 しかし返答はない。その場に人の気配もない。
「秀吉様!」
 どの名を呼んでも同じだった。
 そもそも人の気配がないのだ。自分以外、生きている気配がしない。
 これはいよいよ自分の名が思い出せなくなるかもしれない。
「兼続!」
 何故自分がここにいるのか、そもそも自分が誰なのか。
「…、おねね様!」
 自分の中の近しい者の名は、そうやってどんどん闇の中へ吸い込まれていった。
 誰にもこの声が届くことはない。ただひたすらにしんと静まりかえる暗闇の中。
 その中で、何故だか一人だけ、呼ぶのを避けている名があった。
 しかしそう親しい者も近しい人もいない自分にとって、その名を呼ぶのはわりとすぐだった。
「……、幸村!」
 何故その名を呼ぶのをためらっていたのかはわからない。
 だが、その名を呼ぶと同時にその闇の中に変化があった。
 背後に何かがいる気配がする。慌てて振り返る。足元は相変わらず曖昧で、何を踏んでいるのかわからない頼りなさだった。
 振り返ったそこにいたのは、赤い鎧に身を包んだ―――。
「幸村」
 赤い鎧。手には十文字槍を携えている。戦場の幸村の様相そのものだった。
 己はというと、普段のままだ。
 唐突に、心細さが胸を占めた。
「…三成殿」
 ああ。
 そうだ。幸村に呼ばれてはじめて思い出した。自分の名を。
「何故このような場所にいるのです?」
「…気がついたらここにいたのだ。幸村、ここは…」
 相変わらず周囲は暗い。だがどうにか幸村の姿だけは判別できた。物々しい装備の幸村は、その表情が酷く暗い。
「…あなたがここに来るはずがないのです」
 幸村の言葉に意味がわからず、三成は首を傾げた。どういう意味だ?と問えば、幸村はその手の槍を、周囲の闇を払うように動かす。
 すると、途端に見えたのは、恐ろしく郷愁を誘うような夕焼けの空だった。何と表現するのが一番いいのかわからない。ただひたすら続く平原に、太陽が西へ傾いて落ちていく。それが命の終わる色のような赤を引き連れている。
 風が吹いた。その風に、三成はふと戦場でかいだことのある臭いだと気がついた。
―――まさか。
 そう思ってざっと辺りを見渡せば。
 そこかしこに、知っている旗印が倒れていた。足元に、たくさんの人間が転がっていた。どれもこれも、血を流し、土はどす黒く、ぬかるんでいる。
「…っ」
 だから幸村が鎧の姿だったのだ。
 その結論にたどり着き、三成は慌てて顔を上げた。途端に幸村が微笑む。
 茜の色に染まったその微笑は、三成の内心を酷く粟立てた。
「どうして、あの場にいたのです?」
「…ここは、どこだ」
「……知っておられるでしょう?」
「待て、俺にはわからん…」
「そんなはずはない」
「……っ」
「ほら、思い出して下さい。あの桜。あの山々…」
 三成の視線を導くように、幸村の指が、それぞれを指していく。
 だが三成はそれをどうしても否定したくて、必死に首を振る。そんなはずはないと叫びたくて、だが出来ない。
「ここは、上田です。あなたが、私を捕縛した」
 あの戦ですよ、と。
 幸村は相変わらず微笑んでいる。三成は背に走るおぞましい感覚に震えあがった。
「…戦はもう終わった」
「ええ」
 ぽたり、と音がした。
 他の音は何も聞こえない。
 何の音だと思ってみれば、それは幸村の血だった。
 そうだ。あの戦では、三成と幸村は刃を交えた。その時に幸村は怪我をしたのだった。勿論それは、三成自身がつけたものだ。
「…幸村、手当てを…」
「あなたがそれを言うのですか?」
 幸村の笑みは顔にへばりついたままで、剥がれそうもない。にも関わらずその笑顔が酷く三成を追い詰めた。
 なんなのだこれは。
 三成は意味もわからないまま、幸村へと手を伸ばす。だが、幸村はその手を拒んだ。
「敗戦の将に手など貸されますな」
「…っ、だが!」
「あの時のあなたは手を差し伸べたりはしませんでした」
「…そ、それは…!」
 あの時は三成も必死だった。幸村は強い。それは三成自身がよく理解していることで、その幸村とこういう形で戦うことになった以上、幸村の足止めはもちろん三成の仕事だった。戦場での幸村は平時に比べて頭の回転が速く、また腕も立つ。だからあの時は、幸村を捕縛するのに精一杯で、緊張の糸はすっかり張りつめきって、どうにもならないほどだった。
「あなたは、いつも先を歩かれる方でした」
「…幸村」
「私は、ずいぶんと置いていかれてしまいました」
「………」
「私は、この戦からもう動けない」
「こ…こんなのは…っ!」

 夢だ。

 叫ぼうとして、だが三成はその言葉を口にすることが出来なかった。
 違うはずだ。とっくに戦は終わり、次の戦が待っている。
 次の戦は上杉とだ。秀吉がそう決めた。相手はあの兼続だ。秀吉が天下もとれる器だと称した男がいる。
 だが幸村は何も知らないようだった。
「…だから、おいていってください。三成殿。私はこのままではあなたの足手まといになります」
「そんなことはない!俺がこの戦をおこしたのも、元はといえば真田の…いや、おまえの力が欲しかったから…っ」
「なればこそ、私は足手まといです」
「何故だ!」
「きっと」

 あなたのくびもいただきましょう。

 酷い風が吹いた。視界すら覆うほどの風で、三成は目をあけていられなくなった。風の音にまぎれて聞こえる、戦の音。
 風が止み、ようやく目をあけた先には幸村はいなかった。
 振り返っても誰もいない。
「幸村…っ!?」
 叫んでも、自分の声がこだまするばかりで、誰もこたえなかった。
 一人だ。
 もう誰もいないのだ。
 その事に気がついて、三成はその戦場に力なく膝をつくしかなかった。

―――その夢は、夢だと言うにはあまりにも生々しく、現実だと言うにはあまりにも矛盾が多すぎた。
 目が覚めても、しばらく動けなかった。





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