花に嵐 31




 信之が屋敷に戻ってきたのは数日が経過した頃だった。
 数日前、忠勝からの使者が来るなりとるものもとりあえず出かけた信之は、戻ってくるなり一人にしてほしいと言い置いて部屋に籠ってしまった。
 幸村は兄の様子に首を傾げはしたが、なにせ稲のことで見境をなくして飛び出した兄のことだから、少しばかり気になりはしたが放っておくことにした。
 幸村は幸村で、気持ちの整理をつけねばならなかった、ということもある。
 三成のことを想う気持ちは本当だ。だがそのもっと奥底で、ずっと横たわっている黒い感情がある。それは、間違いなく憎しみとかそういった名のつく感情だった。
(…私が、このまま三成殿の元にいても何の役にも立てない)
 先の戦のような失態が続けば、三成もそのうちに気付くだろう。幸村が信頼に値しない男だということを。
 幸村以外の誰かに、三成がぶつける辛辣な言葉。冷たい視線。それらが自分に向かうことを考えると指先が冷えた。ぞっとする。
 三成はいつも幸村には優しかった。槍さばきを褒めそやし、戦働きには手放しで喜んでくれた。
 これまで当たり前のように与えられていた暖かな感情が、冷めていってしまったらと考えると恐ろしい。
 だが、このままでは自分の中にある二つの感情に縛られて身動きが出来ない。いっそこの手で三成の息の根を止めてしまえばいいのか。
 三成がいなくなってしまえば、こんな感情に苦しめられることもないのか。
 だが、それで終わるならば、先の戦の時のような失態などなかった。
 敵大将の目の前で我を失い、単独で突撃をかけるような事もしなかったはずだ。指揮をしなければならない立場であることを忘れて、恐怖に震えるなどしなかった。
―――わからない。
 結局、幸村にとって三成は生きていてもらわねばならないのだ。
 だけれども、胸の内を覆う靄に息苦しさを感じる。
 三成の、熱のこもった声や視線や、触れる指の艶っぽさに気をとられる反面で、何故こんな事になっているのか、幸村の中にある酷く冷静な部分がそうやってその場の空気に流されようとする幸村を引き留める。
 三成は苛立つだろう。幸村はすでに自分の想いを三成に告白してしまっている。なのに拒絶を繰り返されれば。
「……私は…」
 ぽつりと呟けば、余計に苦しかった。
 言葉にすればするほど、辛かった。
 そうやって考えていれば、ふと廊下に人の気配を感じた。はっとして顔をあげれば、襖に人の影。―――信之だった。
「幸村」
「は、はい」
 慌てて部屋へ通した信之は、いつにもまして難しい顔をしていた。何かあったのか、幸村は姿勢を正して兄の言葉を待つ。
 しかしなかなか信之は口を開かない。戻るなり部屋に籠っていた事も、たぶんこの沈黙と繋がるもののはずだ。
 信之は幸村を前にして、何事か悩んでいるようだった。
 だが、ついに意を決したように拳を握り、はっきりとした口調で切り出した。
「…おまえに、言っておく事がある」
「―――…はい」
 酷く慎重になっていた。
 そんな信之の様子に、幸村も自然緊張する。一体何を、と思えば信之も姿勢を正した。そして、周囲に目を配り、自分たち以外の誰もいない事を確認すると、ようやく口を開く。
「次の戦…私は徳川方になる」
「…?それは、どういう…」
 遠まわしすぎる言葉に幸村は首を傾げた。
「…徳川様は豊臣を裏切る」
「…な…っ!?」
 それはまことですか、と問えば信之は慎重に頷いた。声も自然ひそめられる。
「一体、何が」
「徳川様は真田の二の舞になるのを恐れたのだ」
「し、しかし。徳川と真田とでは地力も違いすぎます。その決断はあまりにも短絡的では」
「上杉が伊達と手を組んでいる」
「…え?」
「対豊臣の戦に挑むための同盟だそうだ」
「…で、では…っ、上杉は…、伊達と手を組んでいると言うのならば、それは…三成殿を撃ったのは方便だと言うのですか」
「そこまではわからぬ。だが徳川様は我らの二の舞となるのを恐れた。上杉と伊達は豊臣との戦に備えている。…これが、私の知る全てだ」
 幸村は呆然とした。上杉と伊達が手を組んでいる?伊達は卑怯とも言える手口で幸村たちの虚をついて、本陣にいた三成を狙撃した。
 その為に、三成は生死を彷徨ったのに。
「…兄上…」
「私は、…やはりどこかで豊臣を許せない。幸村、おまえはどうだ。父の仇を討つ気はあるか」
 こんなにも饒舌になった信之は珍しかった。いつも物静かだった信之は語る言葉も少ない。だからこそ幸村は稲との縁を最近まで知ることはなかった。
 そしてはじめて聞く、豊臣への思い。
 信之ははっきりとその口で「許せない」と言った。「父の仇」とも。
 この兄が、もしも三成と幸村との関係を知ったらどう思うだろうか。どうするだろうか。想う気持ちは本物で、だが幸村自身にも靄は広がっている。その隙が、心に揺らぎを作った。
 三成のことを想う気持ち自体が、間違っているのではないか。
 そう思い、幸村は膝の上に置いた拳を強く握った。それが恥ずかしさの為か、もっと別の感情からのものか、判別はつかない。
「…私は…」
 答えが出せない。
 言い淀み、結論を出せない幸村に、信之は無理強いする事はなかった。
「…幸村は、幸村で答えを出してくれ」
 兄の言葉に頷いた。信之は何の迷いもない。
 信之から得られた情報は、春になれば戦になるということだった。
 その時の相手が、伊達なのか上杉なのか、はたまた徳川なのか。それは全くわからない。
 だが、戦は必ず起きる。その時、信之はもう豊臣にはいない。徳川が同盟を破棄すると同時に、信之もまたその動きに応じて離反するということだ。
 ならば自分はどうすればいいのか。
 普通に考えれば、伊達と上杉の同盟に徳川が加わったところで、豊臣の力は圧倒的に思える。だが、上杉を敵に回すのは、すなわち世の中の人々に正当性を問われる戦になる。豊臣配下の武将たちがそれに呼応しないとは言えなかった。
 幸村は、うなだれるしかなかった。
 聞きたいことが山ほどある。
(兼続殿…、あなたは、我々を裏切っていたのですか)
 あなたも、また。
 不義は栄えぬと言って憚らない兼続。謙信の教えを受け、忠実なまでにその意志を引き継いだ。それまでの上杉は天下を狙うことはせず、ただ求められるまま転戦し、勝利をおさめてきた。己の私利私欲に動かない。そのあり方があったからこそ、謙信が祈る毘沙門天の力を得たのだとも言われていた。
 今、上杉には謙信はいない。
 代が変わったことで、そして時勢の流れによって、向かう目標が変わることはある。それが、景勝の代になって起こったのか。
 そして、三成。
(私は…どうすればいいのですか)
 このまま三成の近くにいてはいけない。三成の優しさに甘えていてはいけない。自分は結局、三成に何もしてやれないのだ。
 離れるのがいいと、頭ではわかっている。だけれども、兄の信之と同じ道を辿る決意は出来なかった。
 もう、三成と刃を交えることはしたくない。
 手にした槍が、自分のものではないような錯覚。目の前にいる人が、何故敵将として立っているのか、自分に戦いを挑んでくるのか、戦いの意味を追い求めることもできないまま。
(…私は…このまま、戦場に立つことすら…出来ないのでは)
 昔はどうやって槍を振るっていた?どうやって戦っていた?何を思って戦いに身を投じていた?
 武門に生きる者として、この問いはあまりにも情けなかった。
 そしてこうして思い悩むたび、思うことはひとつだ。

 昔に戻りたい、と。

 そして、何も知らず何も失わずにいた頃のようにまっすぐ生きていたい。
 それだけが望みなのに。




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