花に嵐 29




 最近稲の周辺が騒がしい。
「少し大人しくしておれ」
 言ったが早いか、忠勝は鋭く襖を閉めた。稲が何か言っていたが、聞く耳は持たなかった。
 冬もまだ只中で、最近稲に言いよる男が現れた。稲の嫌いな忠勝とは間逆にいるような男らしい。その男は甘い言葉で稲に近寄ろうとしたが、さすが本多忠勝の娘。即座に弓を射かけて、男は逃げ帰った。それでもう来ないだろうと思っていたが、そのあては外れたらしい。返り討ちにしようとして、逆に迫られて酷く恥ずかしい思いをしたようだった。
「…真田に遣いを出せ」
 家人はすぐに頷くと、すぐさま遣いを出した。信之は忠勝が驚くほど素早く到着した。馬を駆けられるだけ駆けさせてきたらしい。
「稲殿」
 とはいえ、いざ稲を前にした信之は、実に冷静だった。それだけ馬を駆けさせて、忠勝の予想よりもずっと早くに屋敷に到着して、心は逸るばかりだろうに。
「の、信之様…っ」
 稲は驚いた様子だった。途端に頬が紅潮して、俯く。常に忠勝の真似ごとばかりして、どちらかと言えば男まさりに育った稲が女らしくなるのはこの男の前でだけだ。
「暴漢に襲われたと」
「そ…っ、それは違います!」
 大声で否定して、後は必死な稲の弁解が始まった。
 男はいかにも稲の嫌う女好きで、女と見れば誰にでも声をかけそうな奴だったという。馴れた様子で稲に近寄り、あれやこれやと甘い言葉を囁きかけてきた。だから弓を射かけて一度目は追い払った。だがすぐにまたやってきて、次は稲の行動も読んでいたのだろう。弓を射かける手は封じられて、つい悲鳴をあげてしまったのだと言う。
「…では、何もされていないのですね」
「はい」
「…わかりました」
 ふう、と小さく嘆息がもれた。どうやらここに来るまでいろいろ考えてしまったのだろう。誤解であった事がわかり、安堵した様子だった。
「も、申し訳ありません。信之様に…その、ご迷惑を…」
「いえ」
 言葉短かに否定して、信之は立ち上がった。
「の、信之様?」
「…忠勝殿にきちんとしたご挨拶もまだゆえ」
 そう言うと、そそくさと部屋を飛び出した。稲は呆然とその後ろ姿を見つめている。いかにも惚れた女の顔だった。言われたことを反芻して、稲はさらに耳まで真っ赤になっている。
 稲にも伝わったのだろう。信之が心配していたこと。
 その幸せが身体全身に伝わって、ほんの少しまで不快な目に遭ったと不機嫌だったり、忠勝に叱責された事に対して落ち込んでいたことなど全て吹き飛んでしまった様子だった。

 忠勝の前に挨拶に来た信之に、忠勝は何も言わずに頷いた。手元には木彫りの像がある。どうやら何か作っているようだった。あれだけの力で戦場を蹂躙する男が目の前の小さな木片をいじっているのは信之には新鮮なものに見えた。
「…信之殿」
「はっ」
「しばしこちらで過ごされよ」
「…ありがたきお言葉…感謝いたします」
 信之は礼を述べて、その場を辞そうとした。が、忠勝がその信之に声をかける。
「信之殿。外には気をつけられよ」
「…外、でございますか」
「左様。小賢しいものが嗅ぎまわっている」
 それは例の稲に言い寄ってきた男のことだろう。そもそもこの辺りの者ならば稲を知っている。稲から見て忠勝の真逆にいる男は嫌いだし、逆に説教をくらったりもする。
 それをわざわざ声をかけてきたという。しかも一度目は弓で射かけられたにも関わらず、だ。
「ご助言、感謝いたします。気をつけてまいります」
 とはいえ、どうするのがいいのか信之にはよくわからない。危険だからといって稲が外出するのを止めていいものかも判断がつかなかった。何せ信之は稲とは今のところ何の関係もないのだから。
 稲とのことを断ったのは信之自身だ。今の真田には何もない。領地もなく、ただ秀吉に飼い殺されているも同然だ。そんな状態で、稲を嫁に迎え入れるわけにはいかなかったのだ。他人に馬鹿だと言われてもそれだけは。

 その頃、孫市は屋敷の門が見渡せる高地からじっと人の出入りを見つめていた。先ほど馬で一人男が入っていったのを見ている。誰なのかはさすがに遠くてわからなかった。旗印もなくてはさすがに誰だったのかはわからない。 
 だが馬上の人物は鎧も何もつけていなかったおかげで、若い男だったのはわかった。とすれば、それは真田の長男ではなかろうか。
 稲との婚儀の話が進んでいるとか進んでいないとか、そういう噂を聞いたことがある。
「真田信之…か」
 春の戦で豊臣に数の力で押し潰された。
 父親はその戦で処断されたはずだった。
 婚儀の噂を聞いた時はさすがに驚いたものだ。確かに真田は武勇に優れた一門だと言う。だが、今の真田は何もない。敗戦の将だ。豊臣に飼い殺されている状態では、嫁にいったところで苦労は目に見えているというのに。
―――不安の種を蒔いてきてほしい。
 そう言った兼続を思い出す。
 稲から何とかしてみるかと思ったが、あれが本当に真田なのだとしたら、丁度いいかもしれない。
 そして、自分の勤勉な仕事ぶりに苦い笑みを漏らした。


―――夜。
 わざと気配を殺さず、孫市は屋敷の傍をうろついた。
 これでたとえば本多忠勝自ら出てこられたら、とにかく逃げるしかないななどと情けないことを考えつつ、辺りをうろつく。
 さすがにこの時間だ。稲が自ら出てくるような真似はしないだろう。
 とはいえ、初対面でちょっと甘い言葉を囁いただけで弓を射かけられたくらいだから、孫市の常識がどこまで通用するものか、少しばかりあやしいが。
 どれほどそうしていた頃だったか。ふと気配を感じて孫市は振り返った。暗闇の中、そこに立っていたのは―――。
「何をしている?」
「あんた、真田信之か?」
 質問に答えずにそう問えば、男は一瞬返答に窮したようだった。が、すぐに持ち直して答える。
「いかにも」
「そうか、あんたに逢えたのは行幸ってやつだな」
「…何を」
「俺は雑賀孫市だ」
 信之に敬意を払い、孫市もまた名乗った。雑賀衆といえばある程度功績は知られている。信之ももちろん知っていただろう。
「…鉄砲隊の」
「ああ、そうだ。あんたに言いたいことがあってね」
「―――私に?」
 ここは本多忠勝が居を構える屋敷だ。にも関わらず孫市がこうして気配も殺さず外をうろつき、誰かが出てくるのを待っていた。その待っていた相手が信之だ、と言われても本人はいまいち反応が出来ない。怪しむばかりだ。
「まぁ、変に思うのも当然だ。別に元々あんたを探してたわけでもない」
「…それで、用件は」
「大したことじゃないんだがな。…家康に渡りをつけたい」
「…ならば忠勝殿に言うべきではないか」
 忠勝のような男では駄目なのだ、とは口にはしなかった。家康への忠義を貫き、家康から「過ぎたる者」などと言われる男では到底揺らいでくれない。
 だからこそ、信之が適任だった。孫市の果たすべきは「不安の種を蒔く」ことだ。
「なぁ、あんたあの娘との縁組断ったってのは本当なのか?」
 だからこその話題に、予想通り信之はその表情を僅かに歪めた。他人にどうこう言われたくない話題なのだろう。勿論それは、孫市にもわかる。自分が信之の立場だったら、それこそ放っておいてほしい。
「…本当だ」
「武門の意地ってやつかね?俺はあんたに、手柄を立ててみないか?って思ってな」
 ほとんど口から出まかせだった。それは信之にもそこはかとなくばれているのだろう。口調がかたくなる。
「…赤の他人に何故」
「赤の他人にも都合ってものはあるんでな」
「………」
 信之は黙りこむ。どうすべきか咄嗟に判断が出来ないのだろう。そこへたたみかけるように、孫市は口を開いた。
「戦が始まるぜ」
「何?」
 予想通り、この話題に信之は食いついてきた。
「豊臣と上杉だ」
「それは真実なのか」
「真実も真実だ」
 見てみろ、と孫市は書簡を取りだした。それは、上杉宛に届いたものだった。脅迫めいた言葉の強さに、信之は絶句する。
「今はまだ冬だ。米沢は雪が深い。侵攻するにもあの雪じゃ死にに行くようなものだからな。春だ」
 ご丁寧に孫市はぺらぺらと情報を漏らし続けた。
 信之は考え込み黙りこくっている。孫市はさらに続けた。
「戦は、上杉と伊達で手を組む。そこに徳川も加わってほしいってわけだ」
「…何故それを、私に言う」
「何故?豊臣との同盟の危険性を、あんたはよくわかってるだろう?」
 春。
 桜が舞っていた季節。
 戦があった。それは真田の領地に豊臣が攻め込む形で―――数の力で押し潰され、多くの命が散った。
「…徳川殿と、真田とでは状況が違う」
 しかし信之はかろうじて冷静だった。その言葉に孫市は頷く。
 確かにそうだ。所領の規模も、真田と徳川とではだいぶ違う。そもそも同じ手を二度も続けて使うとは思えない。豊臣には知恵者が多い。彼らが効果的な策も考えてくれるだろうに。
「ああ、だが同じことになる」
「………」
「だから、上杉と手を組まないかってことだ」
 信之は黙りこんでしまった。今の世の中は、真田の最後が例え話になって、徳川を離反させようという魂胆か。
「…頼むぜ」
 孫市はそれだけ言うと、ひらひらと手を振って踵を返した。これ以上そこにいてもこれ以上の不安の種などないだろう。
 そうして信之に背を向けた時だった。

「待て、雑賀孫市」

 あわや忠勝かと肝を冷やしたが、その場には二人以外には誰もいない。振り返った孫市に、信之が問うた。
「石田三成を狙撃したのは、あなたなのか」
 一瞬の沈黙が全てだったような気がしたが、孫市はあえてそれについてははっきりとは言葉にしない。
「さあ、どうだったかな」
 豊臣からの追跡の手はすっかり緩んでいて、今や「誰がやったのか」については放置されている問題だった。だがそれにわざわざ答えて、手柄を豊臣方に持っていかれても困ってしまう。
 だから答えなかった。だが、信之にはその微妙なところを、感じ取られたかもしれなかった。
 背中に突き刺さるような視線を感じながら、孫市は夜闇の中へ紛れていった。





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