花に嵐 28




 幸村は三成の目を見ることが出来ないまま、微妙な距離に三成を押しとどめていた。
 どうすればいいのかわからない。ようやく吐露した思いは三成には理解が出来なかったようだった。どうしたいのかと問われても答えは出ない。
(違う)
 わからないのではない。
 望みを口にすることが出来ないだけだ。
 言えるはずがない。言ったところで叶うはずがない。叶うはずのない事を口にして、光成を困らせるわけにはいかない。
(昔に戻りたいなどと)
 三成との関係がこんなにぎくしゃくしていなかった頃に戻りたい。おかしな感情が入りこむ前に戻りたい。三成の事となると途端に前後が不覚になるほどわけがわからなくなるのが嫌だった。
「…言えぬことか?」
 三成の言葉に身体が震えた。
「…申し訳ありませぬ…」
 自分の気持ちを封印しても、三成との関係が昔のように戻るわけではない。
 その上で、今三成に流されてなし崩しに関係を持つのは厭だった。だがそれを、三成が理解するとは思えない。
 そうして俯いたきり、顔も上げられずにいれば、三成が優しく幸村を抱き締める。包みこむような抱擁に、幸村は抵抗もできなかった。
 三成は何も言わない。幸村も何も言えなかった。ただね気まずいばかりの空気が部屋を埋め尽くす。
 優しい抱擁にされるがまま、幸村は目を閉じた。
 そうして短いのか長いのか、わからないまま時を過ごした。三成の抱擁はいつまでも優しいままだ。
(このままでは駄目だ)
 切実にそう感じた。
 優しいぬくもりに甘えるばかりで、その優しさに引きずられているようではいけない。
 幸村の気持ちも、三成の気持ちも、同じ方向に向かっているはずなのに。
 このままでは、どちらも駄目になってしまう。それだけははっきりとわかった。
 今だとて、このままでは駄目だと認識しながら、その手を払いのけることもできない。与えられるぬくもりに甘えて、優しくされてそのままになっている。
 酷く泣きたい気持ちにさせられた。
 この心の奥底には修羅がいる。父、昌幸を処断された時に芽生えた憎しみを糧にして、いつまでも根を張り続けている。
 それがいつなくなるものなのか、幸村にはわからない。
 三成が死んだ時か。ならば先の戦で何故ああも動揺したのか。指揮もとれなくなる程動揺して、信之に叱責されるまで現状の把握もできなかった。
 だから自覚したのだ。自分は三成を特別に想っている。今だとてそうだ。三成にされるがままについてきてしまった。茶屋についた時点で、どういう展開が待っているかくらいは考えられたはずなのに。
「…幸村」
 それまでずっと黙っていた三成が、口を開く。
 幸村は声もなくゆるゆると顔を上げた。至近距離に三成の整った顔がある。何物も射抜くその鋭い双眸が、今はどことなく優しく見えた。
「俺には、おまえが必要だ。…それだけは、わかってくれ」
 だがその言葉にも、幸村は答えることが出来なかった。


 伊達の家臣が密かに米沢に入ったのは、これもまた雪深い冬のある日のことだった。
「あんたを連れてこいって景勝からのお達しだ」
 慶次はそう言うと、孫市を促した。
 冬になり、雪は容赦なくこの米沢の地を白く覆った。凍てつく大気に皆何もかもが死に絶えたようにすら思える。それほど米沢の冬は寒く、何物も拒絶していた。
「何かあるのか」
「あるから呼ぶんだろうさ」
 慶次はそう言うと、さっさと用意しろと支度を急がせた。天下の傾気者として名を馳せた前田慶次が、上杉の土地にいて、しかもきちんと召し抱えられているというのは一時期話題になった。謙信のいた頃ならばまだしも、その頃はちょうど謙信から兼続へ代が変わり、跡目争いで多少内々に揉めた。
 その為、その頃はちょうど外へ向けての警戒は薄れていたのだ。無論それを狙おうとする輩もいた。だが兼続は長引きかねなかった跡目争いを素早く片付けてしまったのだという。
 常々、直江兼続の話題は高まってもいた。そこへ来てこの前田慶次の登用。
 景勝の手腕というよりは兼続の手腕ではないか。それぞれがそれぞれ、好き勝手にそんな噂話に花を咲かせた。
「…切腹でも覚悟するか」
 孫市はそんな昔のことを思い出しながら慶次と共に雪の深い中、城へと向かった。

「よく集まってくれた」

 景勝は相変わらずの無表情でそう言った。
 兼続以下配下の者たちが一斉に頭を垂れる。その場には伊達家の重臣も数人含まれている。そして伊達政宗本人も姿を見せた。明らかにこれは伊達の存亡に関わる話になるだろうことは誰が見ても一目瞭然だった。
「書簡が届いた」
「秀吉でございますか」
 兼続の問いに、景勝はいかにも、という様子で頷く。内容はかいつまんで話してしまえば伊達政宗を引き渡せ、というものだった。春までに伊達政宗を引き渡せというもので、西を制覇した男の怒りが露わになった内容だった。
「いかがなさいますか」
「兼続はどう思う」
「…引き渡せば、米沢は安泰でございましょう」
 兼続の冷たい言葉に、伊達家の重臣たちが色めき立つ。だが張本人は一切動じる気配はなかった。何を考えてその場に座しているのか、孫市からでは眼帯しか見えず、どんな表情をしているのか。はっきりとはわからない。
「しかしそれでは今まで突っぱねてきた意味もない」
 この段になって政宗を引き渡すと言うならば、そもそも最初からそうやって、豊臣に媚を売るなりするべきだ。それこそが戦をやり過ごす方法でもあっただろう。
 だが上杉はそうはしなかった。政宗の身柄を捕縛した上で、北の地の主導権を握るべく待ったをかけた。
 元より、戦を待っていたとしか思えない。
「しかし数で押されては上杉にも勝ち目がない」
 兼続は静かな声で、まるでその場の全員を誘導するように語る。
 実際、誘導したいところがあるはずだ。だからこそ伊達家の重臣をこの雪の中呼び寄せ、政宗までも同席させている。
 万が一、協力しろと言われたら、伊達家に断る術はない。
「そこで…徳川殿に渡りをつけようと思います」
「ほう」
 景勝の特に驚いた風でもない相槌。
 兼続は伊達家の面々を見渡して、言った。
「伊達政宗を徳川殿に引き渡す」
 途端、伊達家の重臣たちが腰を浮かせた。
「どういうことですかな」
 一触即発とも思えるその場は、だが伊達家の面々が無理をするとは到底思えなかった。城内ゆえに、その場の誰も刀は帯びていない。
「徳川は豊臣とは同盟関係。徳川に引き渡す意味はおわかりのはず!」
「何がしたいのだ!」
 口々に声を荒げ、兼続を糾弾する彼らを尻目に、兼続は気分を害した様子もなく、ただじんわりと微笑んでいる。
 そこで孫市は、ようやく今まで感じていた違和感に答えを出した。
 これは芝居だ。そして役者は伊達家の重臣と、上杉の面々。中でも際立っているのは兼続で、彼を前にしては景勝ですら脇役だった。
 今、この場は舞台で、主役は兼続で―――。
 そして、孫市は観客だった。
「徳川を味方につけたい」
 孫市はそう言うと、ひどく穏やかに続けた。その場の怒号など聞こえていないのではないかとすら思うほどだった。
「徳川にはこのままでは未来はない。何故だかおわかりですか」
「………」
「豊臣との同盟です。真田は結局押し潰された。徳川はまだ地力があるが、数の力では豊臣にはかなわない。このままでは結局天下など望めないのです。家康殿はそういう同盟を、知っていて組んだ。そろそろ、後悔されているはずだ」
 春の頃にあった戦は、豊臣の圧勝だった。勝てるはずのない戦だったが、真田は立ち向かった。結果、昌幸は処断され、真田の領地も今はもうない。
真田と徳川はそれまで一度も友好関係を結んだことがなかった。戦は頻繁に起こっていた。それを支援していたのが豊臣だったが、度重なる戦での疲労を蓄積させた上で真田を裏切る形で倒したのだ、ともっぱらの噂でもある。
 さすが秀吉、自軍の被害を最小限に抑えた、と褒めそやされるが、ある一方では勝ち目のない戦に勇敢に立ち向かった真田を称える声もある。
力の差は圧倒的。西を制覇している秀吉の数の力はちょっとやそっとではどうにもならないほどだ。
「だからこそ、徳川を味方に引き入れたい。その為に伊達には動いていただきたい」
「どうするつもりだ…!」
 その時、兼続の視線がごく自然に孫市へ向けられた。
 その視線一つで、孫市は単なる観客から役者へと押し上げられる。
「不安の種でも蒔いてきていただきたい」
 その視線が物語る。その役目の適任者。
 孫市は本格的にその場を逃げ出したい気持ちにとらわれながら、ようやく口を開いた。
「…勘弁してくれ」
「ならばただ諾々と、家康に伊達家の存亡を任すのみだ」
 拒否権などないのだ、と。
 遠まわしな兼続の言葉に孫市は酷く嫌な気分にさせられた。
 そしてついに、孫市は頭を掻きながら声を上げた。
「…っ、政宗、おまえこれで本当にいいのかよ!これがおまえの望んだ世界か!」
 政宗はちらりと視線を孫市にくれたがそれだけだった。
 その沈黙の後を、兼続が引き継ぐ。
「ごく自然な形での、北の同盟というやつさ」
 孫市は今度こそがりがりと頭を掻いた。
「知ってる…!」
 だからこそ、孫市は迷いなくこの地を踏んだ。
 だからこそ、政宗の無謀な策に手を貸した。
 上杉が天下を狙う。その上で、強大な敵に向かうべくして組まれたはかりごと。
 上杉と伊達は、秘密裏な同盟関係にある。
「あんたもいい加減、役者になった方がいいぜ。武士より向いてる」
 孫市の皮肉に、兼続はそうかな?と肩を竦めただけだった。何を言ったところで通用しない。
「今、豊臣の警戒は我らに向いている。だからこそ、伊達に動いていただくしかないのだ」
 こちらも危ない橋を渡っている、と言われてしまえば、その場の伊達家の者たちはぐうの音も出なかった。
 政宗は豊臣が背後についている徳川に、勝てる方策をひねりだした。それがあの奇襲でもあり、そしてこの同盟でもある。
 孫市はもう一度政宗へ視線を向けた。ふと、その視線に気がついたのか、それとも気がついていて今まで無視していたのか―――とにかく、政宗と視線がぶつかる。そして、その意志のこもった片側しかない瞳に、孫市は頷くしかなかった。
 政宗の今の不遇も、上杉の態度も、全て政宗がわかっていて受け入れていると言うならば。
「…やり方は、任せてもらうぜ」
「ああ」
 頷いた兼続は、すでに先ほどまでの役者のような動きはなかった。
 孫市の言葉で、もう幕は閉じていた。
 結局のところ伊達に加担した時点で、もう逃げ場などどこにもないのだ。
 ならばもう、やれるところまでやるしかない。ふとその脳裏に、本多忠勝の娘を思い出す。
「…寒いなぁ」
 呟けば、慶次がだろうなと笑った。


 


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