花に嵐 27




 雪はしんしんと降り積もっている。
 秀吉はこれ以上雪が深くなる前にと言って帰っていった。
 左近もそれについていき、三成は今一人だった。
 雪のせいで音のない世界。骨身に染みる寒さに三成は身震いした。
 この雪が溶け、日差しが柔らかくなった頃、豊臣と上杉は戦になる。兼続が敵になる。
 その頃のことを思うと、妙な緊張感が三成を襲った。秀吉のあの態度。体躯は決して良い方ではないその人は、それでもそれまで三成にとっては大きい人だった。なのに上杉討伐の話題が出た時の秀吉の姿。笑った顔の奥底にあるのは焦燥だった。何に焦り、何に焦れて疲れているのか、今の三成にはわからない。
 上杉はそこまで危機感を感じる相手ではないはずだ。謙信の時代ならばいざ知らず。
 無論、上杉の負け知らずは今も変わらない。前回の戦にせよ、あの混沌を極めた戦で実際勝ったのは上杉だっただろう。三成の一命を取り留め、伊達政宗を捕縛した。
 その上で、上杉の立場すらも明確にした。それが、北の大地を豊臣の手から守るための手段だったのか、天下を狙い、上を目指すためのものだったのかはわからない。だが巷ではもっぱら後者だと話題になっている。
 確かに、政宗を上杉の手にとどめて豊臣を牽制するなどと、褒められた方法ではない。だがこれは上杉だから出来た手段だった。今まで天下をとるのを目的とせず、義の為と戦い続けてきた上杉だからこそ。
(だからこそ、上杉は敵に回しがたい相手だったはず)
 それは昔、秀吉が自ら言っていたことだ。兼続が天下を狙えばその座はたやすいだろうとも。そしてだからこそそういう意志を持たぬようおさえつけていなければならない。
 義の為だと言って憚らない上杉を不用意に敵に回せば、周囲も揺らぐはずだ。
 秀吉はその為に早急に決着をつけたいのだろう。
 だがそれこそ、上杉が、兼続たちが待っている結果な気がするのは考えすぎなのだろうか。
 それが伝わってくる焦燥感。
(…一体、何故だ)
 不安が胸を埋めていく。外の寒さもまた格別に身に染みる気がした。
 そうしていて、ふと誰かの温もりが欲しくなった。
 誰か、なんてものではなくて本当は、たった一人。
(幸村は…)
 どうしているだろうか。
 怪我をしてから、幸村と逢ったのはものの数回だ。兼続と共に見舞いに来た時と、その後一人で逢いに来た時。それから、里の視察を三成のかわりに行った時。最後に逢った時、幸村の様子はどことなくぎこちなくて、何かを酷く気にしていた。
 それからすぐ、季節は移ろい、三成は傷の療養に入ったまま冬を迎えてしまった。大気が凍えるようになると、傷が痛む。傷になった箇所から悪いものでも入ったのではないかと思うほど、身体は容赦なく悲鳴をあげていた。
 だから三成はこの冬は政務に取り掛かるでもなく、ただひたすら療養に明け暮れた。外にもまともに出ていない。
 幸村に逢いたいと思う気持ちはいつだってあった。だが、最後に逢った時の幸村の様子がおかしかった事が気にかかり、あの態度が拒絶のように見えて、三成は行動に移すことが出来なかった。
 だが今は。
 音は全て雪が吸い、人々は寒さに震えて門戸を閉じてしまった今、外からは何も聞こえてこない。
 そんな風に雑音が何もなければ、三成は気をまぎらわすこともできない。
 幸いなことに煩いことを言うだろう左近はその場にはいない。今なら秀吉の見送りの為、家人たちは外へ気が向いている。三成が外へ出るには絶好の機会のように思えた。
 勿論、まだ傷は完全に癒えていない。傷口は容赦なくその冷えた大気に疼いている。だが止める気はしなかった。
 気付かれぬよう外へ出て、久しぶりに感じる足の裏の土の感触と、雪の感触。それらに長いこと外へ出ていなかったことを実感させられながら。相当身体もなまっている。少し行けばそれだけで息が切れた。
(…幸村は今、何をしている?)
 この雪だ。やはり屋敷に閉じこもっているだろうか。いつもは太陽の下で汗をかき、元気だが。それともこの雪にも関わらずやはり外へ出ているだろうか。
 そんなことを考えていた時だった。

「…三成、殿?」

 後ろから呼ばれた。久しぶりに聞いたその声に、三成は心臓が高鳴るのを感じる。
 そっと振り返れば、酷く驚いた様子の幸村がそこにいた。この雪だ。傷も癒えてはいない。その状況で三成と往来で逢うなどとは夢にも思っていなかった、という顔だ。無論それは、三成も似たようなものだ。この雪なのだから、今日くらいは屋敷にいるはずだとそう思っていたのだが。
「…幸村」
 その名を声に出して、音に出して呼んでみれば、雪が溶けるような不思議な感覚があった。雪はその年はじめてのもので、今まさにこれからしんしんと降り積もろうというのに。
「…き、傷、は…もういいのですか?外でお逢い出来るなど…」
 どことなくぎこちないのは変わらない。だが、幸村にとっては驚いたというよりも、逢いたくない人に逢ってしまったような、そんな風にも見えた。
 だが今の三成にはそんなことはどうでもよかった。
「…傷など、どうでもいい」
 少し前ならそんなことを言える状態ではなかったのに、幸村の顔を見た途端、全てが吹き飛んだ。幸村はその言葉に眉をしかめる。
「そのような…大切な御身ではないですか」
「幸村に逢いたかったのだ」
 いつもならばそう簡単に言えない言葉も、この時だけは躊躇いなく告げることが出来た。この寒さのせいで思考が出来ないからか、痛みに蝕まれているからか、幸村に逢えたことの喜びで、胸がいっぱいだからか。
 どれもこれも、三成には心当たりがあった。
 今ならば、何でも言える気がする。
「…ならば遣いを寄越していただければ…」
「俺が、この脚でおまえに逢いにいきたかった」
 自分の思うまま、三成は幸村へ一歩歩み寄る。
 だが幸村はその場から動かない。
「もうずっと、逢っていなかったから」
 三成は視線を逸らさない。少しでも長く幸村の姿をその目にとどめておきたかった。幸村は以前に己の抱えた想いを吐露している。同じ想いでいてくれるはずだ。特別に想ってくれている。ならば想いはひとつのはずだ。三成に逢いたいと感じてくれているはず。歩み寄れば、向こうからも同じように歩み寄り、距離は縮まるはず。
「幸村」
「…三成殿、屋敷へ…戻られた方が」
 幸村の言葉に、三成は唐突に何かが冷めたような感覚になった。
 それと同時に怒りがこみ上げてくる。
「幸村は俺に逢いたくなかったのか」
「そ、れは…」
 自分よりも背も高く、均整のとれた体躯の幸村がまるで小さく見える。
 その様子に、三成は先ほどの秀吉の姿を思い起こす。
 三成にとって、幸村はいつもまっすぐで凛としている男だった。同盟の頃からそう思い、三成にしては珍しく手放しで他人を褒めた。
 それまでせいぜい褒める相手など限られていた。秀吉は尊敬している人だ。左近はその能力と志を買い、自分と同じ録で共に歩んでいる。だからこそ、幸村のような三成にとっての「他人」は褒めたことがない。
 幸村はその気持ちにいつも応えてくれていた。
 三成は苛立って、性急に間合いを詰めた。雪を蹴るようにして前へ進む。そうすれば、幸村のすぐ手前まで歩み寄ることが出来た。
 幸村は相変わらず動かない。
「…来い」
 腕を掴み、否応なく引きずる。途端に引き攣れるような痛みに三成は息を呑み、眉間の皺を深くした。だが、悟られないように腕にこめた力は緩めなかった。
 幸村は、逃げない。
 ただ引きずられるままについてくる。
 傷を負い、それでも生きていた三成を見て幸村は良かったと言った。その時に見た姿は嘘偽りのないものだったはずだ。
 同じように特別に想っているとも言っていた。それだって嘘ではないはずだ。
 三成の想いは散々知っているはず。
 三成はそのままひたすら歩いた。たどり着いたのは花街の一角の茶屋だ。 そこの二階は逢引の為に使える場になっている。誰もいれるなと言うと店の者を追い出して、そこで改めて幸村に向かい合った。
 痛みはじりじりと熱を持っている。そこだけ熱くて、別のところにあった熱が全て持っていかれるような感覚だった。
 顔色も悪かったのだろう。幸村が口を開く。
「…傷が開いたのではありませんか」
「開いてなどいない」
「ですが」
「そんなことはどうでもいい!」
 思わず声を荒げた三成に、幸村は驚いた様子で身を竦めた。
 その様子に三成もハッとするが、止められない。
「俺のことなどどうでもいいのだ。俺は、幸村に逢いたかった」
 言いながら、幸村のもとへにじり寄る。身体が触れあうほど近づいてから、手を伸ばした。頬に触れれば、幸村はその指先の冷たさに敏感に反応する。
「…幸村」
 我ながら、声に色がこもった。熱のこもった声に幸村は戸惑っている。
「逢いたかった」
 このままもうどうにでもなってしまえばいい。
 そう思い、三成はからめとるように、幸村に口づけようとして―――止められた。
「…何故だ」
 不満を声に乗せて、無理やり押しきってしまおうとすれば、幸村ははっきりと拒絶を示した。
「お待ちください…っ」
 ならばどうしてここまでついてきたのか。三成にはわからない。もっと早い段階でいくらでも引き留めることは出来たはずだ。それをせず、この場で拒絶するとはどういうことだ、と詰め寄れば、幸村の指がおそるおそるといった様子で三成の肩を掴む。
 ほんの少し、強く掴まれただけだったが、痛みは強烈だった。
「……っ」
 幸村の正面にいては、痛みに顔を顰めても隠すことは出来ない。
「…無理は、なさらないで下さい」
「…久しぶりに幸村に逢えたのだ」
「…はい」
「痛みなど、何だと言うのだ」
「…駄目です」
「……おまえの気持ちは、本物ではなかったのか」
 その言葉に、幸村が酷く傷ついた顔をする。それがどういう意味の表情なのか、三成にはわからない。他人の感情の機微に、こうも気を取られたのははじめてのことだった。
「………私、は…」
「俺のことを特別だと言ったのは嘘か?」
「…それは」
「ならば俺の気持ちもわかるはずだ」
「………」
 しかし三成の言葉に、幸村はいちいち戸惑いを見せる。その様子に、ひどく焦れた。二人以外誰もいない部屋。外にいるよりずっと温かい部屋。なのに妙に寒く感じるのは、何故だろう。
「…三成、殿」
「………」
「私は…もう、私自身がどうにもならない…のです」
 幸村の声は震えていた。自信の喪失した声と、言葉と、目に三成はしばし黙り込み、それから今度は先ほどまでの性急さを忘れたように、そっと幸村の手を握る。
「…望みはあるのか?」
「…望み…」
「教えてくれ、幸村」
 三成は真剣だった。幸村はただその言葉に途方に暮れていた。
 言うべき言葉が思いつかない。そういった様子の幸村は、首を振る。
「…俺が、おまえの望みを叶えてやる。だから」
 だが幸村は、ただ何も言えず、俯くばかりだった。
 三成は知らない。
 言えるはずもないのだ、と。



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