花に嵐 26




 秀吉が三成の元へ見舞に来たのは冬の真っただ中、大阪がその年はじめて雪に覆われたその日だった。
「秀吉様」
「ああ、起きんでえぇ」
 寒さのせいで傷が痛む三成は、冬になってからまた床につくようになっていた。痛みのせいで時折そこがしくしく痛む。とはいえ、寝てばかりもいられないというのが三成の考えで、そろそろ政務に復活したいと考えていたが、左近などに引き止められていた。
「どうじゃ、傷は」
「政務が滞っており申し訳ありません」
 三成の言葉に、秀吉は苦笑する。そういうものの考え方は変わらんのうと肩を竦めた。そうして、少しばかり力を抜いた。そうして力を抜いた秀吉を見てはじめて気がつく、疲れた様子。
 三成はどことなく嫌な予感を胸に抱いて、秀吉の言葉を待った。
「しっかり治して、復帰すりゃいい。三成の仕事は三成にしか出来んからな」
「はっ」
 実際、戦以外の細かい政務に関わることの多くは三成の判断が必要になることが多い。それはこの不在でよくわかったことだった。
 秀吉の中で、三成への評価は下がることはない。昔も今も。
「冬は戦もない」
 相変わらず徳川と豊臣は同盟を結んでいる。表向き、今のところは目立った戦は起こっていない。春になったら戦が起こるという噂も聞かない。だが各地は緊張状態のままだった。
 この冬が来る前の、徳川対伊達の戦での不始末が原因だ。
 豊臣は伊達の別動隊をついに捕えることのないまま、その捜索の手を緩めてしまった。
 手柄は上杉にすべて持っていかれた形の徳川は、結局伊達も倒せず、上杉の天下獲りへの台頭してくる機会を与えてしまったような格好でもある。
 しかも豊臣も徳川も、伊達政宗に対して処罰の一つも与えられず。
「秀吉様?」
 伊達の別動隊は雑賀衆だ。それは何となくわかっている。伊達は騎馬鉄砲隊を有している。鉄砲という武器で雑賀衆と繋ぎはとりやすかったはずだ。
「…三成」
「は」
 その雑賀は、今上杉に匿われているという。
 伊達政宗を事実上匿っているのも上杉だ。
「…この冬が終わったら、戦じゃ」
「…は?」
「上杉をたたく」
 秀吉は本気だった。そんなものはその目を見ればわかる。強いまなざしに、三成は思わず息を呑んだ。
「…それは」
「伊達の小僧をいつまでも匿うのが悪いんさ」
「…っ、秀吉様」
「おまえさんを助けたのは兼続じゃ。じゃがそれで甘い顔は出来ん」
「………」
 上杉の話は聞いている。三成の一命を取り留めたのは兼続で、撤退する伊達軍を追い詰めたのは景勝の軍だった。だが捕えた伊達政宗を、上杉はいわば盾にして、豊臣の北への侵攻に待ったをかけた、という。
 一部始終は左近から聞いた。駆け引きに出たのは兼続で、まるで秀吉に気圧されることもなく堂々としていたという。
 兼続ならやるだろう。その場にいなかった三成は、その時聞いた内容について認識が甘かったということだろうか。
「…はい」
 上杉が天下獲りへ名乗りを上げた、と。
 あれ以来ずっと囁かれ続けていたことだ。その噂は今の豊臣には恐ろしい。
 様子を見ている場合ではなくなった。そういうことなのだろう。
「…上杉んところに、伊達の別動隊がいるっちゅう噂もある」
「……それは…」
「義の為とはよう言うたもんじゃわ」
 そんな馬鹿な、とは思っても三成には何も言えなかった。
 万が一、兼続が本気で天下を獲るよう景勝にすすめればどうなるか。謙信の教えは彼にとって絶対のものだと思っていたが、そうではなかったとしたら。その教えすらねじ曲げる野心が彼にあったとしたら―――。
「真偽を確かめさせていただけませんか、秀吉様」
「それを知ってどうするんじゃ?」
「…今、むやみに兵を消耗する戦は…」
「知らんでええんじゃ。真実は」
「…秀吉様?」
「知ったところで結果は変わらん」
 秀吉の声は冷たい。いつものどことなくおどけた様子はどこにもない。この冬の空気のように、凍てついた眼差し。凍てついた声音。そして、揺るがないだろう決意。
「それまで、養生するんじゃぞ。三成には働いてもらわんといかん」
「………はい」
 頷いて、三成はそれ以上何も言えなかった。秀吉も何も言わない。秀吉は、元からあまり背の高い男ではなかった。だが今はそれが本当に小さく見える。戦の話をし、冷徹な決断に言葉もないというのに。
 嫌な予感がする。ずっとしている。
 もうずっと―――秀吉は、焦燥している。天下への道をひたすらに焦っている。そんな気がした。
(…何故だ?)
 これまで、秀吉の進む道に異を唱えることなどなかった。秀吉の進む道こそが己の進む道だと思っていたのだから。
 だが、今だけは。




 その頃、幸村は大阪城にいた。ねねから直接呼び出されていたのだ。
 ねねと幸村はさほどに面識はない。秀吉の出る戦には出てくる事が多かったから、戦場で見たことがあるとか、三成の母のようなふるまいとか、そういったものを遠巻きに見たことがある程度だ。
 この雪の中、一体何事か。
 緊張した面持ちで幸村は通された部屋でじっとしていた。
 何度来ても、大阪城は馴れない。つくづくそんなことを考えながら。その豪華さに気圧されてしまう。
「こんな雪の中、ごめんねぇ」
 しかしそう考えている間に、ねねがやってきた。
 親しい者に話しかけるような調子で、にこにこと満面の笑みを浮かべている。幸村は、緊張で凝り固まったまま頭を下げた。
 そうすれば、固くならないでいいんだよ、と母親のごとく優しい声をかけられる。
「…此度は、何用でしょうか」
「……うん、ちょっとね。聞きたいことがあるんだよ」
 だから雪をおしてでも来るようにと使者をよこされたわけだ。
 しかも城の様子では秀吉はいない。この雪の中、そう遠くへは行かないだろうが。
「あのね…幸村、…最近、ちゃんと眠れてるかい?」
「…え、あ、はい」
「嘘は駄目だよ、幸村!」
 何を言っているのかわからない。
 ねねは秀吉の正室だ。その人に直々に呼び出されて、一体何の沙汰があるものかと思っていた幸村に、ねねの言葉は拍子ぬけも同然だった。
 だがねねは本当に心配しているようだった。
「…何故、そのような」
「幸村、辛そうだったよ。三成のこと、心配してくれたんだろう?」
 そう言うとねねは幸村の目の下のくまを指摘された。
 改めて言われて、頬を赤らめた。思わず俯いてしまう。赤面しているのを見られたくなかった。
「そ…その」
 そんなに顔に出ていただろうか。その頃、自分は何もわかっていなかった。何も理解できていなかったから、ただ胸の内にある靄をどうにかしたくて苦しかった。それは、わかる。
「三成は…少し、不器用な子だから。勘違いされやすくってね。でも幸村は三成と親しくしてくれていたから」
「…そ、れは」
「三成ね。本当に生きずらい子なの。だからきっと、いっぱい迷惑もかけたんじゃないかい?」
 母親のようだ。
 その言葉に、振り絞るように幸村は口を開いた。言わなくていいはずの言葉が、ぽろりとこぼれおちる。
「………何故、ですか」
「ん?」
「何故、そのような事を、私に言うのですか」
 何も出来ないのに。
「…うん。幸村は三成のこと、大切にしてくれるって思ったからじゃないかな」
 ねねの言葉は率直なものだ。なのに幸村にはそれが酷く辛い言葉に聞こえた。ぐ、と強く拳を握る。
「…私は、何もできません」
「幸村?」
「私は、何も出来ないのです。先の戦で、痛いほどわかりました。私には…期待されるほどの力もない。…本当に」
「幸村…」
 本当に何もできない。ねねの言葉に今まで感じたこともない重圧を感じた。
 それを誇りに思う力も今の自分にはない。自分には何も出来ない。
 そればかりが今の幸村を強く縛り付けている。
「…も、申し訳ありません…」
「…迷ってるんだね」
「………」
 何も言えなかった。そうだ。迷っている。どうしようもなく。
 それまで何の揺らぎもなかった足元が、今は地盤が緩んでしまって、何を縋ればいいのか。何を信じればいいのか。何を貫くべきなのか。
「…そんな時に、悪いことしたね。…ねぇ、幸村はどんな時に頑張れる?」
「……わかりません」
「私はね、なんたってあの人の力になりたいって思った時かな」
「…秀吉様ですね」
「うん、そう」
「私は」
 誰の為?
 いつどんな時に力を出せるんだろう。いつどんな風に思えば。
 そうだ。今はもう槍の握り方すらわからない。戦うとはどうすればいいのかも。
 ねねが眩しく感じられた。
 昔は、たとえば三成が思い描くような世を、と。そう思っていたはずだった。
 今はどうだろう。今は少しでもそんな風に考えられるのか。
 わからない。
 いつになったらこの闇から抜け出せるのか。そればかりを考える。
 今の自分に、少しの余裕もないのだから。



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不穏な気配です。