花に嵐 25




 幸村は一人だった。
 朝というには早すぎる刻限に、たった一人、外に出て地面に槍を置き、その前に座して瞑目する。
 朝方特有のひやりとした空気が、冬の訪れを感じさせた。地に満ちる澄んだ空気。もう花はどこにもない。そのかわり、地面を覆うのは紅葉し落ちた葉だった。色とりどりのそれらに風雅だと微笑む余裕は、今の幸村にはない。
 力が足りない。
 そう感じたのは先の戦だったか。その前の戦だったか。
 守れない。守り切れない。そう言っている間に、父は処断され、三成は重傷し、自分はといえば、ただただ兵を無駄死にさせた。
 どうしてこうなってしまったのか、わからない。
 ほんの少し前まで、槍とはどう握り、どう構え、どう振るうか、少なくとも理解していたはずだった。にも関わらず、気がつけば何もわからなくなっている。
 息をするように握っていたものに違和感を覚え、振り回される。
 伊達政宗の前で、不様な姿を晒した時も。
 三成の前で、槍を構えた時も。
 力とは、どこから湧き上がりどこへ放出すべきだっただろうか。
―――三成殿と、戦うことになろうとは…。
 ほんの少し前までは友であった人。
 しかしあの戦、三成は敵だった。倒すべき相手だった。それまで、倒すべき相手を前にして躊躇したことなどなかった。
 それははじめてのことだった。こんなにも辛いと思ったのははじめてだった。
―――石田三成、討ちとってやるぞ!
 政宗の言葉に、幸村は腹の底からぞっとした。身体の奥から湧き上がってきたのは恐怖で、それは力にかえることは出来なかった。身が竦み、どうすべきかわからなくなった。
(…そうだ)
 わかっていたはずだ。
―――よかったです。…三成殿。
 起き上がることの出来ない三成を見て、青ざめて顔色の悪い三成を見て、それでもこの人が生きている。そのことに安堵した自分。
 いつだって、三成のこととなると冷静になれない。力を振るえない。
(三成殿は、信頼してくれているのに)
 幸村は強く拳を握った。
 左近から頼まれたことだったが、村へ行き農作物の様子を見、人々の話を聞き、そうやって様子を見る仕事は三成が自分を信頼しているから頼んできたのだ。
 村の人々も、三成の友人だと言えば警戒もせず。
―――素晴らしい武士だとあの三成様が珍しく褒めていらっしゃった。
 そんな賞賛を受ける資格も、今はないというのに。
 いつまでこうしているつもりだ。いつまでその好意に甘えるつもりだ。
 幸村はついに槍に手を伸ばすことは出来なかった。そうして、陽が昇るまで。
(私は、もう…戦えないのではないか)
 じわじわと感じる。
 三成の好意に、信頼に、応えることが出来ない。重い。
 槍の握り方がわからない。力の振るい方がわからない。
 その根源にあるのは―――。
 怒りと、やるせなさと、どうしようもなく失いたくない、という気持ちだ。
 矛盾している。
 どちらが本当の自分の気持ちなのか。
 今の幸村にはわからない。




 信之と稲の縁組に、驚くほど家康は乗り気だった。放っておけばすいすいと話が進む。信之はその勢いに多少なりとも戸惑った。
「はて、何故そのように驚かれる?」
 家康の言葉に信之はさて何と答えるべきか。しばし口をつぐみ考えた。
 が、やがてぽつりとつぶやく。
「…今、我が真田は里を追われた身…。稲殿にそのような苦労は」
「しかし稲の心は決まっておろう」
 そのような瑣末なこと、とばかりに家康は稲を話題に割り込ませた。こんなのはずるいやり方だ。稲はといえば、すぐ後ろに控えていて、家康の言葉に頬を赤らめて慌てている。少しばかり上ずった声で、殿!と怒った様子だ。
 稲の心が決まっている、というのはあながち間違いでもないのだろう。うぬぼれだと言われるかもしれないが、信之には今の反応で十分すぎる答えだった。
「……お心は嬉しく思います。しかし、私も武門に生きる者として、今の立場では…稲殿を娶ることはできませぬ」
「左様か…しかしそなたも、昌幸殿と同じく頑固なことだ」
 実に惜しい、そう言って残念そうに笑う家康に、信之は何も言えなかった。
 身に余ることだ。
 数日前、稲が直々に信之のところへ来た。書簡を持ってきたという話で、読めば宴への招待だった。実際のところそれは縁談を纏めるためのものだった。本多忠勝といえば家康随一の家臣だ。そしてその娘の稲は、女だてらに戦場にも立つ弓の名手。真田の嫁に、これ以上の縁談などないだろう。特に今の自分たちでは。その上で、真田家を再興させようともしてくれる。こうまでされて、その好意が嬉しくないはずがない。
 だが、あまりにも話が信之に対して良いことずくめで、逆に怖くなる。
 今の信之、ひいては真田にはそこまでしても得るものは何もない。
「稲殿、申し訳ござらぬ」
 だから信之は、別れ際にそう言った。稲は少し困った様子で微笑む。少し、我慢しているのがわかった。
「…いえ、お気になさらず。…稲も、信之様のお気持ちはよくわかります」
 そんな稲を見てつくづく思う。
 せめてもう少し、妻を娶るのにひけをとらない何かが自分にあれば。
「愚かな男の見栄とお笑いください」
「誠実なのです。…父も、きっと、そういうところを気にいっているのでしょう」
 稲の言葉に、信之は申し訳なさで押しつぶされそうになった。
 だが一度こうと決めたことを、取り消すつもりはない。
 一礼して、信之は馬に跨り屋敷を去った。
 残された稲は一人、信之が見えなくなってもじっとその場を離れずその背を見つめている。
「…女の目だな、稲よ」
「殿」
 いつのまにか隣にいた家康に、稲は驚いた様子で瞬き、そして再び頬を赤らめた。
「…はじめて助けていただいた時から…ずっとです」
「そうか」
 若い者たちの言葉に、家康はじっくりと頷いた。
 信之に迷いはなかった。少しは迷うかと思ったが、そうではなかった。あれは正面から、きちんとした形で受け入れなければ自分たちの元へは来ないだろう。自分の身をわきまえている。実際、確かにあまりにもいい条件なのだ。
 真田家は今はもうなく、彼らは豊臣に組み込まれてしまっている。
 後ろ盾となってやるも同然の婚姻の話。
 それを受けられぬ、と断れるほど信之が冷静であるとは思わなかった。
 その上、どうも二人は少なからず想いあっているのだ。
 それでも、その気持ちに流されない。
「…良い武士だ」
「はい」
 稲は嬉しそうに笑った。
 稲が納得しているのなら。そう思って家康は稲と二人、もうしばらくその場に残ることにした。

 季節は秋から冬へ。
 花はとうに落ち、木々は紅葉し、空は遠く淡くなり、もうすぐ冬がやってくる。



BACK / NEXT

オリジナル信之ですいません…。喋らせるとどうしてもなぁ…。