その日朝早く、庭に出ていた稲が珍しく花を手にして戻ってきた。
そういったものに興味のない素振りだった彼女にしては珍しいことだ。
「父上、ご覧ください」
夏に咲く花だ、とは知っている。が、忠勝はそれの名を知らない。
「朝にしか咲かぬ花でございます。これを押し花にして、信之様に」
そう言って部屋へ戻る娘の後ろ姿は戦場の時と変わらぬはずなのに、酷く女らしく見えた。忠勝は稲が戦場にいる時、それを娘とは思わないことにしている。ましてや女だとも思わない。本多の血を受け継ぎ、生きる者ならば男も女も関係ない。戦場に立つと決めたのならば、それすなわち、成すべきことをまっとうするべく尽力すべし、と。
忠勝が常日頃そうして育ててきたおかげか、稲はずいぶんと女らしい物事に疎かった。疎い、というとまた少し違う気がするが、すすんでそういうものに手を伸ばさない。そういう娘になった、と思う。
「…愚問」
ぽつりと呟いて、忠勝は朝の鍛錬を再び始めた。
嫁に貰ってくれる相手がいないのではないかとすら思っていた。生半な男では嫌がるとも思っていた。実際、つい最近まではそうだったに違いない。
きっかけについては、おそらくは稲が捕らえられたあの戦での事だろう。
信之の隊に捕らえられた稲は、悔し涙の一つも浮かべず、どちらかと言えば捕らえた相手の武将を気にしていた。
聞けば大筒の射程に稲の隊があり、仲間もろともに被害を受けてしまう事態であったという。それを助けたのが信之だった、とも。
なし崩し的に捕縛という事になったが、そんな時に助けてもらったとなれば、父の姿などとうに飛び越して、その男の姿が強く大きく見えるものかもしれない。
家康が先の戦で稲と信之の話をしていたことを思い出す。
確かに考えてみれば、これはまたとない機会とも言える。本陣にいた折に一度だけ話をしてみたその男は、忠勝にとっても爽やかな男であったと思える。
(殿は真田を徳川に取り込むおつもりか)
確かに悪い話ではない。兄の方は先の戦でも、弟の失態を立て直しそれ以上の被害を食い止めた。あれで前線がやられていたら、本陣での騒ぎはもっと波紋を呼び、どうにもならないところまで追い込まれていたかもしれないのだ。
しかし忠勝はどうにも引っかかるところがある。信之のことではない。その弟、幸村のことだ。
戦上手だと言うその男が、一体何故酷い状態にまで追い込まれたものか。
何かそれだけの要因があるのか。その要因が何かをはっきりさせねば、危うい。
そこまで考えて、家康が信之と稲との縁談を持ち出した理由をもう一つ思い至る。
(さすが殿…気づいておられたか)
忠勝はどうも何事においても武を極めることを基準に考えすぎるきらいがある。稲の縁談についても生半な男では、と思い込んでいたかもしれない。稲が、ではなく。忠勝自身もだ。
その忠勝にも、真田兄弟というのは武においても見所がある、と思わせる可能性があると。
幸村は後からきた小姓から薬湯を受け取ると、三成のもとへ戻ってきた。
どう接するべきかわからず、三成は何も言えずにいる。
「三成殿、起き上がることは出来ますか」
幸村に言われて、三成はいつものように無理だと言おうとして、さらに口を噤んだ。なんとも愚かなことではあったが、僅かな見栄が勝って、つい無言のまま起き上がろうとする。
「…っ!」
途端、鼓膜の奥まで響くびりびりとした痛みに、三成は起き上がるどころか息を呑んで痛みに耐えるしかなくなってしまった。
「み、三成殿」
慌てた様子の幸村が手を差し伸べてくる。思わずその手を強く掴んで、呼吸がうまく出来るようになるまで耐えた。痛みにそれどころではなかったが、三成の掴む強さに応えるように、幸村の支える手に力が篭っていた。
「…すまん」
どうにか痛みをやり過ごせるようになったのがどれくらい経った頃だったか。ようやくそれだけ言って、三成は再び布団に転がった。
幸村は何も言わない。
嫌な汗が今の痛みで一瞬にして吹き出したせいで気持ちが悪い。が、何故だかそういうことを言いたくなくて三成もまた黙った。
そうしていれば不思議な沈黙が満ちる。だが居心地の悪い沈黙ではなかった。
「大丈夫ですか?」
しばらくして、幸村が静かに問いかける。
穏やかな声で、三成はその声の雰囲気が好きだな、と思う。どことなく自分とは違う、明るさ。
「ああ…すまぬ」
「無理なさらず」
今度は幸村の手を借りて、三成はどうにか起き上がった。苦い薬湯をどうにか飲み干して、その苦味から解放されるまでのしばらくの間、また無言になる。
いつもならこんな苦いものが飲めるかなどと悪態もつくのだが、今だけはそんな気分でもなく。
「…幸村」
「はい」
「…その、なんだ…ありがとう」
もごもごと口篭りながら礼を述べれば、幸村はいいえ、とだけ言った。
「…突然…どうしたのだ」
「…わかりません」
わからないと言いながら幸村には迷うような様子はなかった。真っ直ぐ三成を見つめてくるその瞳に、三成は妙に気恥ずかしくて視線をそらす。
「ただ…逢わねばならない気が、したので」
「…どういうことだ?」
艶っぽい意味でとっていいのだろうか。しかしそれにしては幸村の言葉はどことなく悲壮な気配を感じられた。
「…いえ、その」
「なんだ?言えぬ事か」
思わず語気を強めれば、幸村はしばらく悩んだ様子の末、ぽつりと呟くように語り出した。
「…私は、三成殿との友情はずっと続くものだと思っていたのです」
「………」
「しかしそうではなくて…。この時勢、ずっと続く事などないとわかっていたはずなのです」
思い出しているのか、幸村は昔を懐かしむように目を細める。
「…その中で、三成殿が…私を、と思うようになったように、私も変わっていったのかもしれません」
「…何が言いたい?」
「…………………」
幸村が黙り込む。三成も答えを待って、ただ黙った。
先ほどとは違う沈黙が満ちる。なんというか、早く何か言ってくれないと間がもたないような。
「幸村?」
思わず名を呼んだ。幸村はまだ何も言わない。次第に幸村の頬が赤らんでくるのがわかった。一体何事か、と思う反面、その反応に、直前までの幸村の言葉に、淡い期待を込める自分というものを知る。
その自意識過剰さに、三成もまた顔が赤くなるのがわかった。
「ただ…その感情に、流されていいのかわからない」
「…幸村」
「…私は、たぶん……あなたが好きです。三成殿が、私のことを想ってくれるように」
「…ほん…とうか」
「……私の気持ちだけならば」
夢を見ているのだろうか。ふとそう思い、三成は手を伸ばす。幸村の手を求めるように伸ばした手に、幸村はそっと己の手を重ねた。
そのまま、少しずつ少しずつ、自分の方へとひいてみれば、自然と幸村の身体が前屈みになる。
本当は腕を伸ばすのも億劫なはずだったが、今はそんなことが考えられなかった。もう片方の手を伸ばして、近くなった幸村の頬に僅かに触れる。
触れた先の幸村の顔が熱いのがわかる。
同じだ、と言うのなら。
それに気づいたというのなら。
触れても拒まれないということだろうか。
頬に伸ばした指先に、僅かに力をこめる。たぐりよせるようにして幸村を自分の方へと誘ってみる。幸村は嫌がらない。
「……」
そのまま、あと少しだけ力を込めた。
幸村の髪で視界が閉ざされている。それくらい近い位置にいる。互いの息がかかるような距離だ。
そして、そのままほんの少しだけ唇を重ねた。
その感触に、三成は身震いする。嫌がらない。今まで一度だけ一方的に口付けたことがあった。しかしその時とはあまりにも違う。指先まで痺れるような感覚。
「幸村」
「…は、い」
ああ。
「…夢、か?」
思わず呟けば、幸村がいいえ、と首をふった。そうだ。まだ重なっている手のひらも、先ほど僅かに重ねた唇も、その感触も。伝わってくる熱も。
何も、夢などではない。
(本当、だ)
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