兼続が上杉に戻ったのはその後すぐだった。
「兼続、戻ったか」
上杉は漁夫の利の状態で勝ち戦を手にしていた。そして兼続が行った秀吉への勧告は他者がどう受け取ろうとも関係ない。
豊臣秀吉。その人がどう受け止めるかで話が変わってくる。
「首尾は上々。景勝様、迅速に兵を動かしていただき、ありがとうございます」
兼続のかしこまった礼に、景勝は無表情に頷いた。しかしその無表情にどことなく緊張の色も見受けられる。
「豊臣はどう出るか」
「おそらくは我らに矛先を向けるかと」
しかし兼続は恐れる様子もない。この程度で恐れる相手ならば、伊達政宗の首なり持っていって手柄にした方がよほど頭のいいやり方だ。
だが、そうしないのには理由がある。
「そうなれば、兼続。三成と戦うことになろうが」
「友に不義の気配あらば、止めてやらねば」
そうだ。豊臣の天下への道。徳川と組みそれまで同盟相手であった真田を数の力であっさりと打ち破った。
それを、上杉は許せない。
真田が負けたその時、逃げのびた者がいた。彼らが向かったのは上杉領。謙信の頃より、一度として私怨での戦をしたことがない、と噂に名高い上杉になんとか上田を取り戻したいという願いの為に。
「兼続。私は時々おまえが怖くなるよ」
景勝の言葉に、兼続は微笑んだ。
「義父、謙信とよく似ている。上杉の真の魂を受け継いだのは、私ではなく兼続かもしれんな」
叩き込まれた義への志。そういった教えに忠実に、鬼にもなる覚悟があるのは景勝ではなく兼続だ、と。
誰もがそう思うだろう。ましてや、秀吉の前で一歩もひかぬ態度をとったその後では。
「三成には、告げてあります。不義が過ぎれば上杉が叩くと」
「そうか。なるほど首尾は上々のようだな」
そう。告げてある。
家康が戦に時をかけるのも予想した通り。それに焦れて豊臣が動くのもまた。そしてそのうちに、三成が遣わされることも。
そして。
「政宗はいかがしておりますか」
「あぁ…、大人しくしている」
兼続は、景勝のもとを辞してすぐに向かったのは城の牢だった。静まり返ったその牢の中で、じっとしている人物が一人。兼続の姿に気づくと不遜に言い放った。
「三成は死んだか?」
隻眼であることが、このうす暗がりでさらに力を持っていた。不気味に片目がぎらりと光った気がする。
「死ぬわけがない」
「ふん、生き意地の汚いことだ」
しばし、しんと静まり返ってその場は沈黙に支配された。どこかから、水の滴る音が聞こえる。
それが一層そのうす暗がりを、鬱々とした気分にさせる。
「それでワシはいつまでここにいれば良いのじゃ」
政宗の言葉に、兼続は忌々しげに舌打ちした。牢の中にいるというのに、相変わらず政宗の態度はいつも通りだ。
「おぬしにはまこと、運の良いことだったな。伊達を、ひいては奥州を併呑する良い機会じゃ。豊臣には恩を売り、奥州にも恩を売り」
三成が命を取り留めたのは兼続のおかげだ、とあの場にいた誰もが口を揃えてそう言う。
伊達を一網打尽に出来たのも、上杉のおかげだと。
そしてその伊達を捕らえながら、豊臣に売ることはしなかった。兼続は伊達軍の将にも礼を言われるだろう。
「今後伊達には上杉の為に尽力していただこう」
「ふん。その為にワシが人質か?」
「そうだ」
「手段を選ばぬ。実に不義な行いだな、兼続!」
「毒をもって毒を制すだけだ」
兼続はそれだけ言うと、牢を後にした。
三成は療養する事となった。
とはいえ傷は深く、一日の大半を寝て過ごすばかりだ。今までが忙しすぎたんですよ、と苦笑する左近に三成はぼそりと呟いた。
「…閑だといらぬ事を考える」
とはいえ、三成自身もそれ以上の事が出来るとは思っていない。ねねが調合したという薬は思った以上によく効いて、酷く苦かろうがとにかく何とか飲み込まねばならなかった。
自分が狙撃された事。それ自体が伊達が何を狙った上での事かわかっている。狙いは徳川のみではない。豊臣のみではない。天下だ。北の大地で生きる人々に、豊臣の威光は未だ伝わっていないということか。寝ている場合ではない、とも思う。
が、それ以外にもっと身近な点で、憂鬱なのだ。痛みの為に、どうしても身体を横たえた状態からうまく起き上がれず、何を口にするにせよ、人の手を借りねばならない。
それが億劫でならない。
「そうですか、じゃあ幸村でも呼びましょうか」
「…馬鹿なことを」
久々に出た幸村の名に、三成は酷くぐったりとした様子でため息をついた。
「…来るわけがない」
幸村との関係がぎこちなくなって、もうどれほど経ったかわからない。戦があったのは春だった。それから春が過ぎ、今はもう夏だ。
幸村が昔のような笑顔を浮かべなくなって久しい。三成の顔を見るたびに苦痛に耐えるような表情を浮かべるのも。
だがその変化に、三成自身がついていけずに未だに忌々しく思うのだけれども。
「わからないですよ?」
左近の含んだような言葉に苛々しながら、もう下がれ、と無理やりに命じた。痛みのせいか苛つく事が多い。
夏が近いからだろう。雨もまた多い。そのじっとりとした空気が三成の体力を奪う。思うように動けないことも、思うように快復しないのも、苛立ちの原因だった。
こうして怪我をして、いざ政務に携わることが出来なくなって思い知らされる。自分という人間がそれを理由に日々を忙しく過ごしていたこと。これといった趣味らしいものもなく、余裕なく生きていたことも。
―――だから、幸村のような人間が気になったのだ。何かにつけて外へ連れていこうとしたのも幸村だし、空の色の鮮やかな変化や、折々の季節に見せる草木の色に気づかせてくれたのも。
自分が見ていたものを、より鮮やかにしてくれたのが幸村だった。
幸村が綺麗ですね、と言えば今まで目にも留まらなかった野辺の花が美しく見える。凛としたものに見える。
少しずつ他のことに目が行くようになった。
(あの時の涙、は…)
一人になり、考えることといったら政務のことか、幸村のことか。そればかりだった。そして幸村のことになると、あの日兼続と共に見舞いにきた際の幸村が思い出される。
よかった、とそればかり繰り返す幸村に三成は何も言えなかった。
その涙が嘘のものとはとても思えなかった。
あの時、三成は何も言えなかった。久しぶりに見た、幸村の素の表情のように思えて、それが自分の事で見れたのかもしれない。そう思ったら、言葉にならなかった。
戦の後からずっと、幸村は何かに耐えているような表情しか浮かべなかった。そして僅かにしか表情を動かさなかった。
笑っている幸村が見たい。笑う声が聞きたい。その笑顔を引き出せるのが自分ではなくなったのだろう事が、こんなにも辛い。
「殿」
先ほどさっさと仕事に戻れと追い返した左近が部屋の前にいた。障子にうつる影でそれがわかる。なんだ、と少しばかり低く問えば予想外の名がのぼった。
「幸村です」
「…っ!?」
「通しますよ?いいですね?」
いいも悪いも聞かぬうちに、幸村が顔を覗かせた。兼続は上杉に戻ったという。ならば一人で、自分の意思で来た事になる。いくらなんでも、左近が手配したにしては間が良すぎる。
「悪いが、俺は仕事で忙しい。殿はまだ薬湯を飲んでないから、世話してやってくれませんかね」
「はい」
じゃ、と左近はすぐにその場を後にした。入れ違いで幸村が部屋に入り、ほどなくして薬湯が届けられる。
そうなってしまえば、ついに二人きりだった。
どうしてここに来た、と問うべき言葉は浮かんでは消える。それよりも幸村がここにいる事に、酷く安堵する自分がいた。
「三成殿」
呼ばれた瞬間身に染みる。
この声。もっと呼んでくれないだろうか。そしてその顔に、もっと笑みを浮かべてくれないだろうか。それだけで、この傷だって癒えるかもしれないと、そう思うのに。
|