花に嵐 18





 三成が負傷したという報は、いち早く大阪にも届けられた。
 秀吉の怒りは、半端なものではなかった。伊達軍を追い詰めろ、という怒りに任せた命令に、待ったをかけたのは兼続だ。
「それにはおよびませぬ」
 兼続は堂々としていた。普段は笑顔の絶えない秀吉の表情に、滅多に見せない憤怒のものがあったとしても、兼続は怯まない。
 むしろ挑むように、言ってのけた。
「上杉が、撤退中の伊達軍を追い詰めてみせましょう」
「…ほぅ」
 鮮やかな手並みだった。
 まるでこうなることを知っていたのではと疑わせるほど、兼続の、ひいては上杉の動きは迅速だったのだ。
 伊達軍は撤退する最中、上杉軍の後発隊と正面衝突することになる。
 決して楽な撤退ではなかった伊達軍は、唐突に現れた上杉の毘の旗印に、戦意を喪失した。最初に一度ぶつかり、その中で伊達軍の将何人かが討ち死にした。政宗を守る為だったと思われる。そして、二度目はなかった。政宗が、上杉に降った。
 それらは、伊達軍の撤退から数十日後。大阪に戻ってからさほどの日数はかかっていなかった。
 政宗は、上杉景勝に捕らえられている。処断の有無についてはまだわかっていない。
 連れてこい、と言われた兼続だったが、それについては断った。
「伊達については、我らにお任せいただきたい」
「なに?」
「ここで豊臣が伊達の当主を打ち首にしたとあらば、奥州は荒れましょう。伊達政宗という人間は、あれでなかなか使えます。ここは生かすべきかと」
「…伊達政宗を嫌うそなたらしくない、言い様じゃの」
「我ら上杉は義のもとに戦っております。なればこそ、一人の処断で奥州の民が苦しむ姿に、何の義がありましょう」
 普段は伊達政宗を毛嫌いしている兼続の言葉に、場は静まりかえっていた。兼続は少しも動揺しない。どれだけ睨まれようと、だ。
 幸村はそれを、拳を握りしめて見守っていた。兼続は、あの本陣にいて、一番に三成を助けたという。兼続の持ち歩く札があったおかげで、失血を抑えることが出来た、と後から人伝に聞いた。その札には毘沙門天の力が宿っていると昔聞いた。
―――まだ、一度も見舞いには行っていない。
「北については我ら上杉にお任せいただきたいのです」
 言外に、北の大地でのことに口出しするな、という含みを持たせた兼続の言葉に秀吉は何も言わない。
 実際、兼続の言うことには一理ある。奥州は短期間で伊達家に平らげられた。それは政宗の力に拠るところが大きい。
 その政宗が、打ち首にされれば今まで大人しくしていた奥州の者たちがまた周辺で覇を争いはじめるだろう。
 だからこそ、兼続は秀吉に強く出る。北はまだ、豊臣の力が及んでいないから余計に。
「天下でも獲るつもりなんか、直江兼続」
 秀吉の言葉にはいまだに怒りがこもっている。
 しかし兼続はそんな秀吉にもまったく動じない。
「我ら上杉は、義に拠って動き、不義を断つ。我ら上杉が天下を獲る、とはすなわちこの場におられる全ての方が不義でもなければ始まりませぬ」
 場が一瞬騒然となった。が、誰も兼続に対して声を荒げようとはしなかった。
 兼続にそのつもりがなくとも、伊達政宗を捕縛し、狙撃された三成を助けたのは兼続、そして上杉だ。
 今回の戦の全てが上杉の手柄となった。
 狙っていたのではないか、という噂すらある。
 だが兼続は、相変わらず涼しい顔でその噂をやり過ごしていた。




「幸村!」
 声高に名を呼ばれて、幸村は慌てて振り返った。
 幸村に歩み寄ってくるその人に、他の者たちが自然と場を譲る。気がつけば兄すら近くにいなかった。
「兼続殿」
「これから三成の見舞いに行こうと思うのだが、幸村はどうだ?」
 三成は、一命を取り留めたらしい。肩に受けた傷は命に関わるほどだったが、兼続の札の力で失血を止めた。どういう力が作用してのものかはわからないが、毘沙門天の力だ、と兼続は言っていた。
「大丈夫なのですか、上杉は…」
 三成の名が出たことで、幸村は自然に視線が足元に落ちた。俯いている事に気がついたが、顔を上げるきっかけもない。
「何、景勝様がいるのだ。私は何の心配もないよ」
「…その、私は…」
 行けません、なのか。行きたくありません、なのか。
 幸村にはわからず口ごもる。
 自覚した感情の行き場がわからない。そのまま顔を合わせるのは怖かった。
「今は安静にしていなければならないが、幸村が見舞いに行けば喜ぶぞ」
「………」
 喜ぶ、と言われて幸村は自然と顔が火照るのを感じた。三成の気持ちは、知っている。しかし本当に喜んでくれるだろうか。
「…幸村、戦での失態ならば気にすることはない」
「…いえ」
 幸村が、戦場で酷く動揺して一時は兵に対して指揮もとれなかったというのは、すでにあの戦に出た人は皆知っていることだった。
 政宗を逃がしてしまったのは幸村の失態だった。
 兼続は、幸村がそんな失態をしてしまったという事を気にしていると思っているようだった。
 本当は違うのだけれども。
 しかしどれほど渋ったものだったか。気がつけば無理やりに兼続に連れてこられていた。
 通りすがり、左近とすれ違う。
「これは、お二人とも」
 左近は少し疲れているようだった。普段は三成の補佐をする程度の彼だったが、今は三成のかわりに戦の処理をほとんど一手に請け負っている状態らしい。
「やぁ左近殿。三成の容態はどうだ?」
「まぁ、おかげさまで一時ほど酷くはないですがね」
「そうか。顔を出すことは出来そうかな」
「ええ、大丈夫ですよ。まぁ、あまり長い時間はご遠慮願いますが」
 左近の言葉に頷いて、兼続は幸村を促してすぐ先の部屋へ向かう。すれ違い様の左近の視線に、幸村は俯いたきり顔を上げることができなかった。
 そして兼続の声に、肩が震えた。
「三成!」
「…傷に響く」
 くぐもったような、掠れた声だった。いつものような覇気はない。それもそのはずだった。兼続がいなければ、三成は死んでいたかもしれない、と言われていたのだ。
「喜べ、幸村を連れてきたぞ」
 ほら、と兼続にまた促されて、幸村は引きずられるように三成が療養している部屋へ押し込まれる。
 そしてそこで、三成と視線を交わらせた。
「…幸村」
 呼ばれて、唐突に何かがぷつりと音を立てたような気がした。
 三成を討ち取る、と言われた瞬間から今この時までずっと感じていた感覚。
 おそるおそる顔を上げた。
 顔色のあまり良くない三成と視線が合う。
「………」
 何を言うべきかわからない。わからないが、自然ぽろりとこぼれ落ちた言葉。
「…よかった」
 呟いて、はじめてわかった。
 胸の中を渦巻いていた感情も、締め付けられるような感覚も。
 生きていた。
 よかった。
「…よかった、です…三成殿」
 三成は何も言わなかった。兼続も、何も言わない。
 気がつけば視界が滲んで歪んで、ようやく自分が泣いていると知った。
 止め方がわからないから、ただぼろぼろと酷い顔で、泣いていた。



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はったりをかますような会話シーンを書くのが好き(笑)