七日目。
伊達の本陣では、忠勝の挑発を受けて、今まさに出陣しようという政宗をどうにかしておさえようとする家臣とで揉めていた。
「この数を相手に勝つことは難しいと」
「わかっておる」
「ならば、どうなさるおつもりです」
こうして陣を構えて、徳川と睨み合いを続けてもはやどれほど経とうとしているか。政宗の今回の出陣に対し、家臣の中では完全に意見が割れていた。
が、政宗の意思は変わらない。常に攻撃的だ。
「我らはここで待機じゃ」
「しかし」
周囲に放っている忍びから、この周囲を取り囲む気配があるという報告を、すでに受けている。前方からは徳川。しかも忠勝が挑発を続けている。
この上左右から取り囲まれては、数の差は圧倒的。勝てる戦ではない。
が、政宗は一向に動じる気配はない。
「わしは元々この戦で勝とうとはしておらぬ。しかし負けるつもりもない」
「…政宗様」
「家康のことじゃ、事を構えるにしても勝機を完全に掴めねば動こうとはすまい。しかし秀吉はそうは考えん。わしの事を早く潰しとうてたまらんはずじゃ。わしはそれこそが狙いよ」
にやり、と意地の悪い笑みが漏れる。まだ年若いこの大将がそうやって笑った時、今まで勝てなかった戦は一度としてない。
家臣たちは皆、政宗の言葉に息を呑んだ。
「…秀吉といえば、子飼いの将の石田三成が到着したようですな」
「早う終わらせたいのじゃろう。よほどこの政宗が邪魔と見える」
「しかも兵を引き連れておるとか」
その数、一千。
援軍と称して送り込まれた彼らは、おそらくは家康の戦の監視方として到着したようだった。これも、忍びから伝え聞いた話だ。
「上杉も家康の陣におると聞きます」
そして、徳川の本陣には上杉の智将、直江兼続がいる。
「わしはな、徳川に勝とうとはしておらぬ。わしは、徳川にも豊臣にも、負けるつもりはない」
「…では?」
「石田三成じゃ」
その時になって、ようやく伝令が到着した。
―――雑賀孫市殿、予定通り策に移る、と。
「まさか…」
孫市は、政宗がこの戦の直前に雇った。雑賀の鉄砲隊といえば、金であちこちを渡り歩く傭兵稼業の者たちだ。火縄銃を使った攻撃に長ける。
雇ったがしかし、彼らの前に一度たりとも姿を見せたことがない。本陣内が一瞬ざわめいた。
「そうじゃ石田三成を、狙撃する」
それこそが狙いだ、と。
政宗が含み笑いを浮かべる。ただ徳川に勝つのではない。豊臣までもを混乱に陥れ、その隙に乗じて自分たちは撤退をする。
政宗の策に不安はある。が、家臣たちは皆政宗の言葉に従う以外に方法はなかった。
それから数刻。
伊達の本陣の左右から、唐突にあがった六文銭の旗印。それと共に見える、豊臣の旗印。信之の隊でもそれがはっきりと掲げられていた。
「あれは真田の!?」
「うろたえるでない!敵が誰であれ叩くのみじゃ!」
伊達の本陣内も俄かにその旗印に混乱が起こる。が、それは政宗の一喝でおさまりを見せた。
伊達の兵は皆、この奇襲を知っていたように陣を敷いている。そのかたい守りを、馬で崩す。幸村はその隙をついて、さらに勢いのまま敵陣を駆けた。目指すのは、大将―――伊達政宗だ。
先頭を駆ける幸村につられるようにして、兵たちが続く。地が揺れている。勢いは凄まじかった。固い守りを突破するのに時間はかからず、倒れる兵がいようとも足を止めなかった。
そんな幸村の突進に、背後で誰かが呼ぶ声がする。おそらく兄だろうとも思ったが、幸村は振り返らなかった。なぜだかはわからないが、無謀と罵られようともそうしたかったのだ。
一刻も早くこの戦を終わらせる。それが三成が幸村を伴ってこの戦に出てきた理由だ。ならば、なりふり構わず敵を倒せばいい。それで自分がどうなろうとも。
―――生きて戻れるな
言われた言葉がふと脳裏をよぎる。
―――昔を思い出してみたまでだ
言葉の意味がわからなくて、幸村は言葉を詰まらせるばかりだった。
しかしそんな感傷じみたものに浸る前に、鼓膜に響く、重い音にはっとする。頬の近くを何かがかすった感覚は現実に引き戻すに十分の力があった。
「真田幸村!」
怒声があった。政宗の声だ。混戦となった戦場で、政宗は怒りを含んだ片目でこちらを睨んでいる。が、その表情に焦りはなかった。
視線だけで周囲を窺う。いつの間にか、敵地の奥まで単騎でたどり着いていたようだった。
政宗は、短筒の銃口を幸村に向けている。その周囲を、おそらくは伊達家の猛将たちが囲む。馬上の政宗は近づけないような気迫があった。
「猿の手下になりおったか、馬鹿め!」
痛烈な皮肉に、幸村は眉一つ動かさない。
対して、政宗も動じる気配はなかった。
むしろ余裕さえ感じられる。この混戦になっている場で。いつ命を落とすかわからないこの場所で、だ。
その違和感に、幸村は一瞬眉間に皺を寄せる。
「政宗殿…」
一体何故。そう続けようとした幸村の言葉を遮って、政宗は声をあげた。
「見よ!」
政宗の示す先は、遠く徳川の本陣だ。
「石田三成、討ち取ってやるぞ!」
唐突に出たその名前に、幸村は頭の中が真っ白になるのを感じた。
どういう意味だ、と問う余裕はなかった。
それより数刻前。
孫市がようやっと徳川の本陣の裏手に到着した。
やれやれ、とため息をひとつついて、狙う相手の後ろ姿を眺める。背中に見える、大一大万大吉の文字。あれか、とその場でまずは狙いを定めた。まだ機ではない。
秀吉子飼いの将である、石田三成の狙撃。
それが、政宗から請け負った仕事だった。
孫市と秀吉は親友だ。今でもそれに変わりはない。秀吉が、秀吉夫婦が三成のことを気に入っているのも知っている。小さな頃から育てていたのもだ。
ではなぜ受けたかと言えば。
(あの目が気に入った、ってとこかね)
政宗の目だ。徳川と豊臣とに真っ向から勝負を挑むなど自殺行為もいいところだ。だが、彼はむしろ動じた気配もなく、焦りもなく。
天を掴む人間というのは、こういう風なのかもしれない、と思わされた。
昔の秀吉もこんな風だった気がする。
三成を狙ってそれが成功したところで、待つのが一体何なのか。孫市にだってわかる。おそらく豊臣は弔い合戦と称して孫市たち雑賀の里も襲うかもしれない。
だが面白いと思ったのだ。
政宗がいまだ天下をあきらめていないことも。そして今の情勢に抗おうという若さも、何もかもだ。
「若さってなんだ…っと」
火縄銃を構えて、まずは手の感覚を確認する。
厳密に一人を狙うとなれば、集中に要する時間は多く必要だ。連れてきた数人に周囲を見張らせ、万全の状態で、孫市は今度こそ本番だ、と準備を始める。
今の情勢で、伊達を贔屓にするのは正直博打もいいところだ。
だが、孫市には感じられるものがあったのだ。政宗の眼光に。若さゆえの威勢に。ひっくり返すだけの力があるかもしれない、と。
天下を狙うとか、そういうのは孫市にとっては遠い世界のことだ。秀吉が天下をとれば、戦にかまけて男くさい中で暮らす必要もなくなる。若い女の後ろを歩いて、笑ってすごせる。だが、どうにもその平穏に馴染めない気がする。何故かはわからない。
―――孫市、わしに力を貸せ。石田三成は必ず出てくる。戦の最中に、あの男を狙撃するのじゃ。徳川も、豊臣も、その一発で揺るがしてやるのじゃ!
誰もが躊躇うような事だ。どちらも敵にまわすのを、その危険を顧みない。それとも何か、ちゃんと勝機があっての事なのか。
孫市は照準をあわせた。片目で一人を見つめて、孫市は手の震えを感じる前に、ぶれを感じる前に、その男目掛けて引き金をひいた。
耳をつんざく、鈍い音。木々に隠れていた鳥たちが羽ばたき、悲鳴のような鳴き声をあげて、消えていった。
|