春だった。
 気候は穏やかで、全てのいきものが春の訪れに息吹をあげる。新緑は根ざしてこれから来る夏に向けて、陽にその背を伸ばす。人々はその息吹の中で、どこか浮き足だって、笑いあう。辛い冬がようやく立ち去り、暖かな風と穏やかな陽の光に誰もが自然と微笑む。
 そして、木々は花をつけて人の目をひきつけた。
 薄桃色の花弁は、その年見事に咲いて、一際人々の心を浮わつかせた。
「宴じゃ!」
 秀吉の鶴の一声で、春の宴は間をおかずに開かれた。ある日は見事な月を理由に。ある時は見事な桜を理由に。あるいはまったく理由などないままに。
 振り回されるのは秀吉配下の人間たちだったが、特にその中でも三成が割を食うことが多かった。
 まず酒宴の席が好かないこと。皆が浮かれた場でも、つい現実的なことが脳裏にちらついて場をしらけさせてしまう。好きでそうするわけではないがこれは性分だ。そのせいか、酒をあまりうまいと感じたこともなかった。
 それにこれだけ酒宴が続けば、秀吉の身体の心配もしたくなるというものだ。金の問題もある。何もかもが順風満帆というほどではないのだ。だがそんな三成の懸念をよそに、秀吉は今日も一番に騒いでいたし、その中には正則や清正もいた。いや、清正はさほどはめをはずしているわけではなさそうだったが、秀吉が楽しそうにしているのを一番に喜ぶ男だ。しかも今はねねから酒をすすめられている。遠目で見ていても、清正が内心喜んでいるのを隠しきれていないのがわかった。
「…いい気なものだ」
 ぽつりと呟くと、三成はため息をついた。宴の席から三成一人が外れても、これだけ騒いでいる場ならば気付かれまい。そう思って庭へ出た。桜の木の方へ向かえば、その木のそばに、誰かいるのに気がついた。
「………」
 誰だ、と問おうとしてやめた。
 そこにいたのは幸村だった。桜の幹に向かい合い、じっと双眸を閉じている。まっすぐな背筋。何か、瞑想でもしているのか。そう思うほどその姿は絵になっていて、かけるべき言葉は失われた。
 吸い込まれるように、その光景を眺めて、三成はつくづく思う。
(…真っ直ぐな、男だ)
 友、というものに縁のない三成には、幸村や兼続は眩しかった。
 上田で知り合ったのは同じだが、その後のやり取りは希薄で、久しぶりに会った時にあっさりと友だと言われて拍子抜けした。友、というのはそんな簡単になれるものなのか。なっていいものなのか。そう決めつけてしまって、いいのか。
 わからないまま、そこからぎこちなく友としてつきあってきた。
 兼続は常に堂々としていて清々しい。幸村は、何に対しても真っ直ぐで、好感が持てた。
 二人と話している時は、何故だか心が軽い。そして何故だか、いつもより浮き足だっていた。
 友というのは、そういうものなのだろうか、と考える。だが、それを誰に問えばいいのかわからないまま、三成はじっと一人になるとそれを考えていた。清正や正則も、それはそれで特別な存在だが、彼らとは幼いころからのつきあいだ。兄弟のようなものだ。失う以前に、切っても切れない。それがあの二人だ。だが兼続や幸村は違う。
 大切にしなければ、と思う。大切にしたい、と思う。
――大切に。
 ずっとそう考えていた時だった。
「何を見ている?」
 背後からの問いは、兼続だった。彼にしては声をひそめている。幸村がそこにいるのに気付いたからだろう。
「…幸村が」
「なんだ、見惚れていたか?」
 兼続の頬はすっかり赤い。白い肌に酒気を帯びたその姿は、いつもより少し言葉に飾りがなくなっていた。
「な…っ、ち、ちが…」
「違うのか?」
「………、違わない、が…」
 どう言葉を飾ったところで、桜と幸村という光景に目を奪われていたのは確かだ。まっすぐな立ち姿。均整のとれた身体だ。普段からさほどに騒がしい性質ではない幸村だが、桜の前に立つと、その静けさが際立つ。いや、静かな男、ではないのだ。幸村は。
「…幸村は、…不思議だ、と思って…だな」
「ああ、三成もそう思うか」
「…か、兼続もか?」
 兼続の言葉に驚いて、三成は思わずじっと兼続を見上げた。兼続は、幸村を見つめている。
「儚い、というのかな」
 兼続は難しい顔をしていた。儚い、という言葉が兼続の口から出た途端、三成はその言葉があまりにしっくり来る気がして、そうか、と頷く。
 だから、桜との対比に美しいと思ったのかもしれない。
 幸村は均整のとれた身体をしている。もののふらしい筋肉のつき方だと思う。顔立ちも綺麗という言葉よりは精悍という言葉の方がよほど似合う。なのに、あの桜を前にするとどうにも、ただただ美しく、そこにある。
「散り急がなければいいがな」
 ぽつり、と呟いた兼続の言葉は、三成の胸に深く刻まれた。
 桜から、連想する言葉といったら何なのか。薄桃の花弁。夜闇に包まれた中で抜けるような白さ。風にさらされて揺れる様。不思議と、桜の下には何かがいるような気すらしてくる。
 もしいるとすればそれは、人とは違う生き物の、別の感性の世界に生きるもの――。
(…らしくない)
 まさに幸村がそれのような気がして、三成の心臓は強く高鳴った。
「…ゆ、幸村!」
 いてもたってもいられず声をかければ、静寂に包まれた世界が一瞬でその緊張感をほぐした。
 閉じていた双眸が開かれれば、幸村の表情はいつものように、穏やかな中にある、熱を感じる目でこちらを見る。
「…お二人とも、いつからそこに」
「おやおや、真田幸村ともあろう者が他人が忍びよる気配すら気付けなかったのか?」
 兼続の言葉に、幸村は苦笑する。
「申し訳ありません。深酒してしまったようで。ここで酔いを冷ましていたのですが」
「そうか。まぁ仕方ないな。今日は酒の進む夜だ。なぁ三成」
「……そうだな…」
 静けさのあったあの世界。桜と向き合う幸村の、他者の入り込めない緊張感。
 綺麗だったな、と思う。そして儚いという言葉がよく似合う。これだけ、幸村は生気に満ちている気がするのに。
「三成殿も今日は呑まれているのですね」
「…あ、あぁ。少しな」
 ほとんど呑んでなどいなかったが、そう答えるのが精いっぱいだった。嘘をついた、という事実に三成は不思議な気持ちになる。今この場で、嘘をつく必要があったろうか。呑んでいないと言えば、幸村はそれでも笑っただろう。だが、幸村のまだ酒の抜けきっていない顔を見ていたら、どうにもその雰囲気を壊したくなかった。壊せなかった。
 普段なら、そんなことを気に留めもしないのに。
(調子が狂う…)
「そろそろ戻るか。ここは冷える」
 兼続の言葉に幸村が頷く。三成もそれに従った。確かに寒い。宴の席とさほど離れた場所でもないのに、ここは静かですらある。まるで切り取られた世界のようだった。
 前を歩く二人についていく三成は、ふと視線を感じた気がして振り返った。

 そして、その目に、一瞬幸村が倒れている姿を見た気がして――ぶる、と身震いした。



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