踏み荒らされた大地。転がる屍。倒れ泥にまみれた旗印。生と死の臭い。
後悔は次から次へと沸き起こり、何度も左近を振り返らせた。脚は次第に決戦の地から遠ざかり始めている。空は高く青い。秋の空だ。どうして自分はこんな場所にいるのか。どうして決戦の地から遠ざかろうとしているのか。こんなことがあっていいのか。許されるのか。こんな策を、受け入れていいのか。
(…殿)
胸の内から湧き上がるこの感情はなんなのか。軍師として、石田三成の傍らにいた年月。その結果がこの策。あまりにも、あまりにも。
(こんなのは、策って言わんでしょう、殿)
だが左近は立ち止まることが出来なかった。何度も振り返る。遠くなる決戦の地を肌で感じながら、それでもただひたすらに歩き続けた。この策について異論を唱え続けることが出来なかった、自分の負けだ。
負け――。
石田三成が、敗戦の将となって捕えられる。
その罪を問われて恐らく処断されるだろう。
間違っていたのが誰だったのか。それを、世間は徳川の声を通して知ることになる。
わかっている。それを、左近は認めるわけにはいかない。その為に今この場を離れている。いつか起こるはずの、最後の合戦の為に。
いや、いつか起こるはずと三成が睨んだ、本当に起こるかどうかわからない戦の為に。
(あんた馬鹿ですよ、殿)
湧き上がる言葉はどれもこれも、否定のものばかりだった。こんなのは策とは言わない。そんな起こるかどうかもわからない先を睨んで、自分は死ぬ。そんなことを許していいのだろうか。こんな策を受け入れて、真っ直ぐ立っていることができるだろうか。
彼の兄弟同然に育った、正則や清正は恐らくは馬鹿だと言うだろう。
彼の師とも、生涯仕えるべき相手でもあった秀吉は、何をしとるんじゃと怒るだろう。
彼を母のように包んでいたねねは、しょうがない子だね、と寂しげに笑うだろう。
そして彼の親友たちは―――。
兼続や、幸村は。
どうするだろうか。どうなるだろうか。
(俺なんかにそんな大役任せるなんて)
左近は今度こそ、もう振り返らずに山道を分け入った。共に連れているのはごく少数。果たしてこれだけの人数で、どうにかできるのだろうか。不安を覚えている余裕などないのはわかっている。だが、どうしても苦しかった。疑問を投げかける事で自分の感情をどうにか抑え込み、先を急ぐ。
急ぐ先に道などなく、帰る道もどこにもない。
戦場の臭いは少しずつ遠ざかっていた。
信玄に目通りを願って、まさかそう簡単に会うことができるとは夢にも思っていなかった。平伏した左近に対して、信玄は噂通り面で顔を覆っていて、その表情を読み取ることは出来ない。
手にした軍配でとん、とん、と一定の間隔、膝を打つ。左近はその間ずっと、平伏していた。
「島左近、と言ったかね」
ようやく信玄が口を開いた。顔を上げた左近に対して、信玄が笑ったように見えた。
「歓迎じゃよ、左近」
言いながら左近を立つよう促した信玄は、何事か頷いて、控えていた家臣たちに幸村を呼ぶよう話した。幸村、と聞いてもその時の左近には誰なのかわからず、首を傾げる。
「左近よ。真田というのは知っておるかね?」
「はぁ」
「真田家には今将来有望な兄弟が二人おってな。そのうちの次男の方と手合わせをしてみんかね?」
「次男、ですか。それが幸村という?」
「そうじゃよ。若いながらになかなか腕がたつ。左近がどう勝つか興味があってのぅ」
信玄は笑いながらそう言うが、左近は面倒なことになったなと内心舌打ちしていた。真田の名は知っている。幸村というのは知らないが、信玄が直々に手合わせしろと言い出すということは、若いながらにかなりの腕だということか。
左近は周囲の反応を窺いながら、その手合わせに勝つべきか負けるべきかを考えた。無論やるからには勝つつもりではある。だが、一体何の為にその手合わせを今この瞬間にやるのか。それを知りたかった。
「幸村…ねぇ」
ふむ、と呟いたところで庭に出た。そこそこの広さだ。しかも早くも観衆が集まり始めている。
「で、その次男坊の得物はなんです?」
問えば、信玄は軍配で風を煽りながら答えた。
「槍じゃよ」
左近はそれを聞いて思わず苦笑した。左近の武器は大太刀だ。間合いが違いすぎる。
「強いんですか?」
「強いのぅ、そりゃあもう」
信玄の言葉に左近はさらに首を傾げた。話から察するに、下手をすると初陣もまだ、というくらいの年齢に思える。なんというのか、信玄の言葉の端から滲み出る感情が、手塩にかけて育てている大切なものに対するそれのようだ。こうなると、はたして信玄の言葉がどれほど信じられるかわからない。
相手は武田信玄だ。軍略の天才。そういう人が、何かに肩入れしすぎる事があるか、という疑問もあったが、噂と違うことは往々にしてよくあることだ。
「信玄公相手では、どうです?」
「ワシと幸村じゃったら、ワシが勝つかのぅ」
「なるほど」
「じゃが左近相手だったら、幸村が勝つかもしれんよぅ?」
その言葉に左近は肩を竦めた。ずいぶん下に見られたものだ。いや、挑発なのかもしれない。そう思い直して、左近は深呼吸した。ちょうどその頃、幸村が姿を見せた。振り返れば本当に若い少年で、左近は品定めするようにその少年を見つめる。まっすぐ伸びた背筋が印象的だった。
「お初にお目にかかります。真田幸村と申します」
「ああ、俺は島左近だ。すまないな」
「いいえ。強い方だとお聞きしております。よろしくお願いいたします!」
幸村は礼儀正しい少年だった。手にしている槍も、彼の手に馴染んだもののように見える。ふと左近はその視界に彼より少し年下の少女をとらえた。少し離れたところでじっとこちらを見ている。
「あれは?」
「ああ、くのいちです」
幸村は難なく答える。
「…おまえの?」
「はい」
左近はへぇ、と改めて幸村への見解を変えることにした。すでに忍びが一人彼についている。まだ年若い少女だが、その目は真剣だ。
「…おまえに何かあったらくないでも飛んでくるかな」
「手合わせですから、そんなことはあり得ません」
「そうか、そうだな」
言い切った幸村に感心して、左近はじゃあよろしく、と告げてその場を離れた。すぐに準備に取り掛かる幸村を眺めて、とりあえず決めたことは二つ。
(あいつ、きっと強いな)
相手を少しも見くびっていない。自分の力を過大評価もしていない。きっちりと自分というものを持っている。自信がないわけでもなく、逸る心を抑えられないほどではない。信玄があれだけ言うのも今なら少し理解が出来た。
(なら手加減はしない。過小評価もしない)
その二つを決めて、左近は改めて、準備を終えた幸村に向き直った。
「いざ!」
幸村が声をあげる。
ふと、いい声だな、と思った。
「よう、大丈夫か」
吹っ飛ばした幸村にはすでにくのいちが駆け寄っていた。彼女の大丈夫かと問う言葉に頷く幸村。声をかければ、幸村の鋭い視線が左近をとらえた。その一瞬の視線に、言葉にならない感情がこもっているのに気がついて、左近はさらに感心する。
向けられた一瞬の視線に潜んでいたのは悔しいというものだった。年相応の視線だ。
「は、はい。お手合わせ、ありがとうございました」
「悪いな、つい本気になっちまった」
手を貸して起こしてやる。幸村は肩で息をしていた。手合わせ自体は互いに間合いを読み合う段から、しばらくして幸村から先に動いた。左近が少しも動かないのに焦れた、といった体だった。その焦りを見逃さず、左近が槍をいなして間合いを詰めた。幸村が息を呑んだのを見て、左近はこれで終わるかと思った。だが幸村は素早く槍で左近の刀をとらえた。
若いくせに粘り強い。若さゆえの血気盛んなところもあるかと思えば、それだけではないようだ。
そうやって何合か打ち合って、ついに左近が幸村を吹っ飛ばして、「そこまで」の声がかかった。
「…私など、まだまだです」
ちら、と幸村が左近を見上げた。その視線の意味するところを考えて、気がついた。幸村は肩で息をしているのに対して、左近はそうではない。場数の差があるからそうなっているだけだと返そうかと思ったが、それは言わないでおいた。
「幸村」
すっかり意気消沈したように見えた幸村の背に、声をかける。
振り返った幸村に、左近は笑顔を向けた。
「次、楽しみにしてるぜ」
「…は、はい!」
幸村にようやく笑顔が戻ってきたのを確認して、左近は一つため息をついた。やれやれ、と一息つけば、計ったように信玄が歩み寄ってくる。さて、今の手合わせははたして信玄の思惑通りのものだったのか。
「さすが左近じゃな」
「強かったですね、幸村」
「うむ、そうじゃろ」
相手の強さは打ち合ううちになんとなくわかるものだ。力任せに槍を振るっているわけでもない。基本がきちんと身体に叩き込まれている。その上で、幸村は槍の心得もしっかり身についていた。実戦に出て、場数を踏めば左近も勝てるかどうかわからない。そんな底知れない感じがある。
「信玄公のお墨付きなのもわかりましたよ」
「うむ。それでな、左近よ」
「はい?」
「おぬしに最初の仕事じゃが」
「はい」
「幸村の教育係で頼んだよ」
「……………は?」
予想していた答えと違う内容に、左近は口をあけたまま思わず立ち尽くした。
教育?これでも一応、軍師として、信玄の軍略を学びに来たのだが。
そう反論しようとした左近に、信玄はにやりと笑った。
「左近の最初の軍師としての仕事じゃよ。手、抜いたらただじゃおかんよう?」
「な…っ!」
横暴だ!と叫ぼうとして、叫ぶことはできなかった。気がつけば信玄は家臣たちに囲まれて、さっさとその場を後にしてしまったからである。
どうしてこうなった、と左近は憎らしいほど晴れた空に叫びそうになった。
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