あの男が嫌いだ。
とにかくやることが気に食わない。それはもう最初からずっとそうだった。
同じ人のもとで戦うことになってもうどれくらい経つか。それでも自分にしては、顔にも出さずよくやっていると思っている。
「いやぁ、顔に出てるよ、アンタ」
言われて、李典は思わず持ってきた書簡を渡す動作のまま固まってしまった。
そう言ってきたのは誰あろう軍師の賈ク。郭嘉の次に重用されている軍師だ。飄々とした態度と、人の悪い笑みと、人を食ったような顔をするその人は、そんな風でも自分の打ち出す策には絶大な自信を持っていた。その策をもって、曹操の命を狙い、彼を窮地に陥らせた。いまだに、彼がやったことに対する憤りはこの軍内どこかしらに残っている。が、李典の仕えるその人は、合理主義で実力重視の人間だった。彼を己の軍師とすると、その彼が、ここに打ち解けるのは実に早かった。
そう、ここは実力のある人間が生き残る場だ。だからこそ、今ここにいない「彼」がこの軍で大変な戦果を挙げ、重用されるのも当然で。
だからこそ、必死にその私情は押し殺してきたはずだったのだが。
「…そ、そんなに出てる…?」
「出てるね。まぁ俺はそういうのに敏感な性質だから気づいちまったってのもあると思うが」
「………あー…」
「あははぁ。その様子だとあんた、誰にも気づかれてないと思ったのかい?」
「え?」
「残念だね、少なくとも軍師連中はみんな知ってるよ」
「……郭嘉殿とか?」
「当然」
あの悠然とした男にもそれが知られているとは。さすがに李典は空を仰いだ。とはいえそこは屋内だから、見えるのは天井ばかりだったが。
「ま、でも安心しなよ。張遼殿は、気づいてないだろうさ」
「…………」
賈クのその言葉に、李典はどういう表情を作ればいいかわからず、頭を掻いてその場を逃げ出した。なんというか、これ以上賈クと話していると、何かしら暴露してしまいそうだったからだ。相手は軍師。どういう手段で情報を仕入れるかわかったものではない。
李典は張遼が嫌いだ。嫌いの理由は、過去に親族を呂布軍に殺されたからだ。呂布軍であって、張遼の手にかかったというわけではない。だがその頃、確かに張遼は呂布軍の人間だった。呂布を倒した際に、張遼だけが曹操軍に参入した。
張遼が、呂布軍の生き残りとして、李典の行き場のない怒りを一身に受ける形になったのである。
だが、共に戦ってみて張遼という男がどれほど強い人間かを知っている。その上、それに甘んじることのない人間であるとも知っている。何の遺恨もなければ、すごい奴だと受け入れられるだろうが、自分にはそうもいかない理由がある。
李典にとって張遼はいつまで経っても仇だ。だからその彼と肩を並べて戦うなんて受け入れられるはずもない。
感情論としては。
だが、この軍にいる限り、それは押し殺していかねばならない。いっそそれすら踏み台にして生きるべきなのだろう。だが李典はそこで足踏みをしている。
賈クの元であれこれ言われたせいか、どっと疲れた。その疲労を感じたまま、ふらふらと歩く。本来ならばこの後何をするか、予定は立ててあったのだが、すでにどうでもよくなっていた。
ふと視線を転じれば、張遼がいた。一人かと思えば、その横には郭嘉がいた。張遼の手には彼の愛用の武器がある。郭嘉は何も手にしていない。手合わせをしているわけではないのはうかがえた。どうやら談笑しているようである。
郭嘉もあんな男と話していて何が楽しいのか。
(いや、違うだろ俺。あの人はいつも誰と話してたって楽しそうなんだって…)
思い直す。そうだ。郭嘉はいつも笑顔を浮かべている人だ。楽しい戦になるといいね、なんてよく言っている。戦に楽しいも何もあるか、とは夏侯惇の言葉だったか。
張遼はどちらかというと寡黙な人間だ。全てを戦に、戦うことにぶつける。おかげさまで遼来々なんて言葉まで出来て恐れられるほどだ。それに奢ることもない彼は確かにすごい男なのだろう。
賈クとのあの会話の後だったせいか、堂々と前を突っ切る気にもなれず、自然と李典は二人の死角になるような位置で隠れてしまった。二人の声が、聞こえてくる。
「意外だね。張遼殿が子供好きとは」
「意外ですか」
「意外だよ。そういう話、ほとんど誰ともしないのでは?」
「…いや、賈ク殿には、多少。まぁ無理やり話をさせられたといいますか…」
「ふふ、賈クらしいな。でも彼から聞いたことはなかったな。存外彼も口が固い。そういう相手で良かったね」
「郭嘉殿であれば?」
「ふふ」
「なるほど、賈ク殿でよかった」
子供。
子供が好き?
内容を理解するのに少し時が必要だった。あれだけ生活感の感じられない男がまさかそんなことを言い出すとは。それは郭嘉も驚いている様子だったが、まったく笑顔を崩すことのない郭嘉に対して、李典はといえば、完全に表情をゆがめていた。
賈クがここを通りかかったら、人の悪い笑みを浮かべて去っていくに違いない。それくらい、自覚があった。
嫌だな、とつくづく思う。
張遼の、人間くさい部分など耳に入れたくない。
ずるずると隠れていた柱にもたれて座り込んだ。髪をぐしゃぐしゃと掻き毟って、俯いたままため息をつく。
他の誰に対しても、ここまで過剰な反応はしない。相手が誰だってそうだ。勘が鋭いのもあって、誰かと競い合うような風には生きてこなかった。そうしなくても、勝てる方法はあるし、その勘だって武器だと思う。まぁ、多少それが災いして不必要な面倒ごとに巻き込まれたこともあったが。
とにかく、そういう経験の中で、これだけ感情を逆巻くようなことは一度もなかった。誰が相手でもだ。だのに、張遼相手だけは違う。張遼のときだけは、どんな言葉だって自分の中に憤りの火が灯って、そこからどうすることも出来なくなる。馬鹿らしいとは思っても、不合理だと思っても、感情が、言うことを聞かない。
だから李典にとって、張遼に人間らしさなど必要なかった。だが、嫌っている中で、自然と彼のことが耳に入ってきてしまう。嫌っているからこそだろう。それはわかっている。自分にとって必要なのは無関心だ。だが、それが出来ない。それが出来ていれば、賈クにあんな風に言われることもなかったし、ここで隠れている必要もない。聞こえてきてしまった会話に、苛立ちを覚える必要もないのだ。
子供が好きだと言う張遼の。
たとえば彼が幼い子供たちに向ける目を想像する。どんな目をするのか、少しもわからない。考えれば考えるほど、浮かぶのは戦っているときの張遼の目だった。あの鋭い双眸。味方であっても気迫に飲まれるほどのあの眼光。敵と見れば全て殺していくような、しかもそれを息をするようにやっていく人間だ。そんな奴が、どうやって子供に、優しい笑みを向けるのか。どうやって、語りかけるのか。
「…………くそ…っ」
小さく悪態をついた。
今もまだ、郭嘉と張遼は談笑を続けている。いつになったら、ここを出ていけるだろうか。戻ればいい、とも思ったが、逃げ出すようでそれも癪で、動けない。誰に対して癪で、誰と何を競っているつもりなのだか。
冷静な自分が、冷静でない自分を揶揄するように笑う声だって聞こえる。だけれども。
動けない。動きたくない。
そしてこんな風に苦く思っている自分のことを、張遼は何も知らない。
それでいいとも思うし、何で知らないんだとも思う。悔しい。誰に対して、何のために悔しく思うのかすら、よくわからない。同じように苦しんでくれと思う。知らなくていいとも思う。この相反する感情がめちゃくちゃになっていて、酷く息苦しい。
どうしたいのか。その感情がうまく言葉になることなどない。どうやったとしても、きっと苛立つだろう。彼がこの感情を知り、表情を歪めたとしても。気にかけてくれるようになったとしても。無視されたとしても。そして、今のように気づかれないままでも。
李典はその柱に影に隠れて、ため息をついた。その表情は憂いを帯びていた。いつもの彼らしくない表情でもあった。
そしてこのままならない感情は、何だかまるで恋のようだった。