最近、目がおかしい。
「李典殿、目をどうかされたのですか?」
朝からずっとそんな調子で、首を傾げ傾げ、調練なんてやっていたら、楽進がそんなことを問うてきた。
「あー、いや。大丈夫だ」
おかしいことはおかしいが、常時おかしいというのではないから、適当に誤魔化す。が、誤魔化されたと楽進も気付いただろう。感情を隠せない楽進のこと、あからさまに心配そうな、あるいは不服そうな。そんな感情半々なのが見てとれる。
(ってもなぁ…)
おかしいにはおかしいのだ。だが、それは常時おかしいのではない。ある一定の条件下でのみおかしい。だから首を傾げている。本当ならば、その条件というのを深く追及すべきで。武将たるもの、身体に異常を来たしているというなら、それは自己の管理も出来ない無能として扱われてしまう。わかっているのだが、李典にはそれを深く追及したくない理由があった。
出来る限り、それについては考えない。変だと思ったらその条件に当てはまらないようにしてしまえばいいのだ。簡単なことだ。…簡単なことのはず、なのだけれど。
「おい、李典」
「は、はい!」
振り返れば、そこには夏侯惇が立っていた。腕を組んで仁王立ち。ただでさえ迫力のある夏侯惇に片目で睨まれている状態は、なかなか肝が冷える光景だった。思わず姿勢を正していれば、夏侯惇から次なる言葉が吐き出される。
「来い」
用件も告げられず、指示を受けたことに何とはなしに嫌な予感がした。お得意のそれとは違う、もっと簡単なものだ。言うなれば経験がものを言う勘だ。頭を掻きながら、李典は夏侯惇に遅れてその背について歩いていく。ちらりと周囲を見れば、やはり同じく今の状況、その成り行きを見守っている人々の心配やら好奇心やらのまじった視線。
「余所見をするな!」
その視線を居心地悪く思うのとほぼ同時。張遼の怒声が響いた。自然と、その場の視線は全て張遼に持っていかれる。今は調練の真っ只中である。夏侯惇の一声で皆の手が止まっていたのだが、見事なまでの怒声だった。慌てて兵たちは再び武器を振るい出す。
ちらりとその張遼を盗み見る。今の怒声。自分が嫌だなと思うのとほぼ同時だった。狙ってそうしたとは思えない。が。
(ああ…畜生)
まぶしい。
まともに視界に入れてしまえば、例の「異常」がはっきりと症状として現れた。だが張遼はこちらを見もしない。思わず舌打ちした。
「その舌打ちは何のためのものだ」
「あ、いや、その」
しまった、と思ったときには遅かった。李典は夏侯惇の後ろを歩いている。夏侯惇に対するものと思われても仕方のない状況でもあった。これはいけない。振り返った夏侯惇の表情は先ほどにも増して怒りが露になっているように思えた。とはいえどう説明すればいいのかわからない。李典は必死に言葉を探す。
「注目を浴びてたな〜っていう、やつで」
「ほう」
「い、いや〜さすがにこの状況だと俺何かした感じですし…」
「自覚がないのか」
「自覚…、えっ俺なんかやってます?」
ここのところ戦働きでへまをした記憶はない。人間関係もさほど悪い状況ではない。特に最近は張遼を避けていたから、それこそ穏やかなものである。だとすればもっと他のことか。必死に最近について振り返るが、どうにも思いつかない。焦るばかりだ。
「あははぁ。夏侯惇殿、蛇に睨まれた蛙って知ってるかい?」
そんな状況で、助け舟を出してくれたのは、賈クだった。手にはいくつかの書簡。彼も彼で忙しい最中のようだ。さらにその後ろには、徐庶がついている。
「なんだ賈ク。文句でもあるのか」
「あっははぁ、なんだなんだ。夏侯惇将軍ともあろうひとが。八つ当たりかい?」
「何をしに来た」
「何。俺は徐庶殿にあれこれ指南してるだけですよ。俺も仕事は楽になりたいからね」
徐庶はといえば、賈クよりも数段多い書簡や巻物、それに何に使うかよくわからないものなどを手にしている。
「だったらさっさと行け」
「いやいやぁ。そう言いなさんな。あんたあれだろ、郭嘉殿の言葉、真に受けたんだろう?」
「…悪いか」
「悪くはないね。実は俺らも気になってる」
「な…何の話?」
「あんたが最近、調子悪そうだっていう話」
「お、俺!?」
「郭嘉殿、少し前は具合が悪くて死にかけたりしていたんだってね? その人がそんなことを言うものだから、真実味があるように聞こえたんじゃないかな。皆、心配しているんだ。わかるだろう?」
控えめにしていた徐庶の言葉に、李典はさて今度こそ逃げ場がないという事に気がついた。十中八九、言われているのは目のことだ。賈クが助け舟を出してくれたと思ったが、実際は野次馬が増えただけだったというわけだ。三人に囲まれてしまっては逃げ場がない。
「どうなんだ、李典」
夏侯惇の言葉。
覚悟を決めるべきか。しかし真実を知られたくない身としては、ついつい適当な言葉で切り抜けようとしてしまう。軍師二人が目の前にいて、浅はかな考えであったが、そうしてしまう理由が、李典にはちゃんとあった。もちろんそれを説明することも出来ないが。
「い、いや。俺、全然健康ですけど!」
李典の声はやや上滑りにその場に響いた。
三人の視線が痛い。これはいけない。全然信用されていない。理由はわかる。事実上それが半分くらいは嘘だからだ。
異常ならある。だがそれを他人には説明したくない。説明をしたくないのには、理由がある。だがその理由だって、説明したくないのだ。順序立てて物事を考えたくない時というのはあるもので、白黒はっきりつけるより境界線なんて見えないくらいの状態で、放っておきたいことはある。
「本当ですって! 第一具合が悪いんだったら、調練に参加してませんから!」
「…李典殿」
徐庶が物凄く何か言いたげな視線を向けてきている。夏侯惇は、完全に信用していない顔だ。賈クはといえば、李典が嘘を重ねるのがいっそ面白いのかもしれない。にやにやと笑っている。…どの表情も、今の李典には真っ向から迎え撃つには強敵だった。心が折れそうである。
「徐庶、言ってやれ」
「お、俺ですか…」
夏侯惇の指名に、徐庶が困ったように苦笑する。
「ま、お手並み拝見といきますかね」
「いつかのようにな」
「あははぁ、趣味が悪いな夏侯惇殿は」
李典を放って、夏侯惇と賈クはやや楽しそうだ。いや夏侯惇の場合は楽しいというよりは、まだ苛立ちの方が上回っているようにも見える。徐庶は一つ息を吐き出すと、じっと李典を見つめてきた。
「じゃあ李典殿。俺の指示に従ってくれないか。ひとつだけでいい」
「…はぁ」
「すまない。じゃあ振り返ってくれ。真後ろだ」
嫌な予感が、した。
その予感こそ、李典が得意とする類。首筋にぴりりと感じる違和感。自分の進退にも関わりそうなことだからか。それとももっと奥深く、自分の感情の一番見られたくない部分に関わることだからか。
しかし従わないわけにもいかず、徐庶の言葉に従って、李典はそろそろと振り返った。その視線の先にいるのは――相変わらず熱心に調練を続けている、張遼の姿。
(ああ…畜生)
今だけ何とかなればいいものを。
だが、李典の願いも空しく、身体は律儀に反応した。思わず、ふいっと視線を逸らす。
「それが異常なんだろう?」
「………別に、こんなのは…」
「ま、異常は異常でもちょっと違うかね」
「なんだ、二人だけで理解するな」
「…気付かないのもどうかと思いますがね。なぁ李典殿?」
「………」
「あははぁ、だんまりかい。ま、仕方ない。徐庶殿、頼む」
「…そうやって面倒なところは俺任せ…。いや、いいけれど。李典殿、さっきはどうして視線を逸らしたんだい?」
「…嫌いな奴がいたからだ」
「張遼殿?」
「…あ、あぁ! そうだよ! 知ってるだろ!」
「いや、俺はそこらへんあまり詳しくないよ。何せ新参者だからね。嫌いだから視線を逸らしたのだとしても、身体が反応するのかな…?」
「………」
「俺から見ていて、李典殿は明らかに眩しいものを目にした時のような反応の仕方だったよ。嫌いな人をただ視線を逸らして見ないようにするのとは違う。もっと反射的なものだった。張遼殿のいる方は、俺たちが先ほどから見ているけど、眩しくなんてない。…だから、気になるんだ」
徐庶の言葉はいちいち丁寧だった。丁寧に、だがはっきりと異常を告げている。
「心当たりはないのかな」
「………」
「李典殿。あんた俺らをただの野次馬だと思ってるだろ?」
「………」
「何に対してどういう感情があったってな、ここではどうだっていいんだ。納得してなくたって動かせる理性があればそれでいい。曹操殿の下で戦って長いあんただ。そこらへんの理解はあるだろ?」
「ああ…」
「だがあんたのそれ、身体が反応しちまってんだから、もう異常なんだよ。理性でどうこう出来るもんじゃない。違うかね?」
「………」
「先ほどは楽進にも見破られただろう」
「………」
夏侯惇の言葉に、李典は言葉もなくこくりと頷いた。
「だから一度…どういうものでも、一度きちんとかたをつけた方がいいと思う」
「…かたをつける…って言われても」
「どういう方法でも、だよ。…大切なんだ、そういうのは」
徐庶の言葉に、李典はひたすら黙り込む。そんなことを言われても、どうすればいいかなどさっぱりわからない。李典にしてみれば、ただの無茶ぶりだ。どんなに言葉を尽くされたところで、野次馬としか思えない。が、李典にも、理解は出来る部分はある。このまま放っておいていいものではない。特にそれを他人にまで知られている状況ならばなおのこと。「使えない」と切り捨てられる可能性だって、なくはないだろう。
「………」
使えない、と。
ふと、その言葉が張遼の言葉で、声で、聞こえた気がした。ぞわりと肌が粟立つような感覚。ああ、ああ、駄目だ。それは駄目だ。使えないなどと思われることなど耐えられない。あの男にそう思われる日が来てしまったら、それは。
…それは。
ふらりと、李典はもう一度振り返る。やはり張遼を眩しく感じる。自然とその光を目に入れないように、直視を免れようと視線を逸らす。なんでこんなことになったのか。どうしてこんな風に。
「…俺、あいつ嫌いなんですよ」
独り言のように、呟いた。それは李典にとっては大切な言葉だった。そう、嫌いなんだ。嫌い。いけ好かないし、気に喰わない。どれだけあの男がこの魏軍で頼りがいがあるとされたとしても、なおのこと。あの男は自分の肉親を、特に自分を大切にしてくれた人を、良い思い出しかない相手を、斬ったのだ。実際手を下したのがあの男ではないにせよ、もう李典の中ではそういうことになっている。何度もそういう夢を見た。強迫観念のように何度も何度も。忘れないように、自らを律するように。何度も、何度も。だからあの男に対してそれ以上、それ以外の感情など抱いてはいけないのだ。わかってる。わかってるよ。何度も自分に言い聞かせる。だのに、どうしてだろう。そう思えば思うほど、その姿を目で追った。少しでも文句をつける為。少しでも嫌いなことを再確認するため。なのに自然と口をついて出そうになる。だから駄目なんだ。駄目なんだよ、と。
「………」
幸いなことに、張遼はどれだけこちらが目で追いかけても無視してくれている。いや本当に気付いていないのかもしれない。そう思って、どこか安心している自分がいた。なのに――そう。
「…目がね、あったんですよ」
嫌っている。だから目で追いかける。だが長らくそうしていても、張遼とまともに視線が合うことはあまりなかった。だからどこか油断していたのかもしれない。侮っていたのかもしれない。絶対大丈夫だと過信していたのかもしれない。だから、あの瞬間。
本当にたまたま、目が合った。
あの瞬間、まるで雷にでもあったかのように。李典は全身に衝撃が走った。
「…それから、です」
そう。それから。
張遼を眩しく感じてしまうのも。実際今だって、まるで輝いているようにすら見えるのだ。眩しい。
「…ああくそ…」
まるで諦めのような気持ちで悪態をつく。それまでずっとあれこれと口出ししていた三人は、黙っている。李典の動向をうかがっている。ああ、どうせなら今こそ騒いでくれればいいものを。自分の脳内を、雑音で満たしてくれればいいものを。どうして今、こうして静かなのか。どうして、誰も何も言ってくれないのか。
そうして、ふと。
調練をしていた張遼が、視線を巡らせる。気付いたのだろう。視線に。いや、気付いてくれなくていいのだけれど。その視線が、李典に向けられた。全身に感じるそれは、恐ろしいほどの緊張感。眩しい。苦しい。辛い。
「ちっ…」
舌打ちした。李典は、下唇を噛んで、拳を握る。このままでいいわけがない。わかっている。だけどどうしようもない。だけど。
「…っ、張遼!!」
叫んだ。
少し離れた位置にいたが、李典の声は届いたのだろう。張遼がじっとこちらを見つめてくる。眩しい。必死に双眸を眇めながら、歩き出す。心臓が、ばくばくと音を立てた。うるさい。自分はまともに歩けているか。それすらわからない。
「俺と手合わせだ!」
「李典殿とか」
「そうだ。嫌とは言わせないぜ」
「夏侯惇殿の用事は終わられたのか」
「あんたはそんなこと気にしなくていいんだよ! やるのか、やらないのか!」
「あいわかった。受けて立とう」
張遼はそれ以上は問わなかった。すっと武器を構えてくる。ゆらりと立ち上るように見える気迫。それが光のように見えた。勝てる気がしない。第一こんな状態で勝てるのか。
「李典殿!」
二人のやりとりを遠目に見ていたらしい楽進が、李典の武器を手に走ってくる。
「あ、悪ぃ」
「いいえ! 李典殿、頑張ってください!」
「あー…俺を応援してていいのか?」
「当然です! ですがもし李典殿が負けてしまった際には私が李典殿にかわって張遼殿を負かしてみせます!!」
「…あんたがそんなに前向きにやる気なの、ほんと珍しいな」
「はっ恐縮です! 張遼殿には負けたくないという強い気持ちがありまして!」
「はは。俺も俺も。ほんと負けたくねぇ。絶対負けたくねぇ。負けたって認めらんねぇ。絶対」
言いながら、李典は少しばかりおかしくなった。楽進の馬鹿正直な言葉に何だか少しだけ安心した。心臓がばくばくと音を立てていたけれど、ほんの少し、その騒音はおとなしくなったように思えた。これなら大丈夫だ。土を踏む足音が、聞こえる。武器を構えた時の手のひらに感じる重さもわかる。大丈夫だ。
張遼をそれ以上待たせるわけにはいかない。李典は大きく深呼吸すると、振り返った。
立ち上る気迫。光の渦のように見える。張遼はその中心で、どんな顔をしている? …わからない。
(…あんたの顔が、見えないじゃないか…)
ああ、それは嫌だ。しみじみそう思う。それは駄目だろう。それは許してはいけないものだろう。張遼がいつどんな顔をしているのか。それを見て自分はいちいち文句をつける。いつもそう。あいつ敵を倒す時、鬼みたいな形相なんだぜ。射殺しそうな目をしてる。なのに食事のときはほんの少し機嫌が良さそうなんだ。そうやっていつも見てきた相手だ。なのに、今はどんな顔をしているのかわからない。
(あんた、眩しすぎるだろ…。いちいちさ)
「行くぜ、張遼!」
「参られよ」
重く頷く張遼。にらみ合いが続く。とはいえ、目を合わせることは相変わらず出来ない。だから李典は、張遼の握る双斧の切っ先を見つめた。どちらが先に動くか――途端、その切っ先がぴくりと動く。その一瞬を見逃さず、李典は己の武器を思い切り振り回した。特殊な動きのその武器は、李典の行動にあわせて縦横無尽に動く。張遼はまずその武器の切っ先を己の武器で受け止めた。金属がぶつかりあう重い音が響く。それがきっかけとなり、あとは息もつかせぬ攻防が続いた。
「…っくしょ、あんたいちいち重いんだよ一撃が!」
やけくそのように叫ぶ。早くも旗色が悪い。手のひらは張遼の一撃一撃が重くのしかかって痺れはじめていた。このままでは武器を取り落とすかもしれない。ただでさえ李典の武器は重いのだ。歯を食いしばり耐えるが、時間の問題だ。負けたくない。そうは思っても現実はかわらない。何か決定的な一撃が繰り出せるわけもない。じわじわと身体にかかる負担は増していくばかりだ。ただでさえ、相変わらず張遼は眩しいのだ。まともに顔を見れない。それが余計に、李典への負担となっていた。先ほどほんの少しおさまったように思えた動悸はまた激しく動くことでもとに戻っている。
すると。
「――李典殿」
びくり、と肩をふるわせた。
「戦う相手の目を見ぬとはどういうことか!!」
激しい怒声。びりびりと肌を震わせる。息が、出来ない。難しい。あえぐように息遣いを繰り返す。が、張遼は攻撃の手を休めない。
(畜生、少しは手加減…っ! …っ)
そこまで考えて、李典は首を振った。違う。手加減なんてしてほしくないのだ。手加減など許していない。たとえこれが単なる手合わせであり、命を賭すようなものではないにしても。けが人を出すことなどあってはいけないにしても。張遼から、手加減を、手心を加えられるようなことがあったら。
それこそ耐えられない。それこそ。
…それこそ、その光に包まれる必要なんてない。ただの、普通の、人間に、他人になる。張遼、張文遠。そんな名前が、怖いものでもなんでもなくなる。そうじゃない。李典が望むのはそういうことじゃないのだ。わかっている。知っている。だから。
「…っ、くっそぉぉぉぉぉぉぉ!」
心の底から、叫んだ。
魂を揺さぶるような絶叫をあげて、李典は武器を振りかざす。こちらの理由なんて張遼は知らなくていい。ただただ、真っ直ぐにいてくれればいい。それだけで十分だ。こちらの理解の外にいる。少しもわかりたくなんてない。いつまでもそういう存在でいてくれてこそ。
振りかざした武器を、張遼めがけて振り下ろす。その瞬間。
下段から張遼がその攻撃を薙ぎ払うべく動く。それが酷くゆっくり見えた。そのせいだろう。張遼の、目が。
はっきりと、見えた。鋭い眼光。まっすぐ李典を見つめる双眸。ぞくりとする。こんな目か。こんな目で殺すのか、誰かを――いや、自分を。
途端、両の手のひらにこれまでにない痛み。支えきれずに武器を吹き飛ばし、李典はその反動で地面に転がった。立ち上がらなければ。そう思って本能的に動こうとし――そこで、張遼の武器が自分の目の前に突き出される。
転がった李典の身体、まっすぐその胴の上にまたがって立つ張遼が、こちらを見下ろしている。
「……降参」
両手をあげて、そう呟いた。その言葉を聞き、張遼は頷くとまたがっていた足をどける。
「っててて…」
「李典殿」
「…な、なんだよ…」
「良い気迫であった」
「あー………」
張遼はそれだけ言うと、李典が起き上がるのに手も貸さずに踵を返した。だがそれに怒りを覚えるでもなく、李典は起き上がりかけていた上体を、もう一度地面に転がす。
周囲の兵たちが、ひそひそとそんな李典を見ては呟いている。いつもならうるさく感じる雑音のはず。だが、今の李典には、ちょうどよかった。
冷えた地面に身体を転がし、そのまましばらく。
「り、李典殿?」
「あー、楽進殿。そのままそのまま」
「は…しかし」
「いいんだよ。少し放っておこう」
「で、では私も張遼殿に手合わせを!」
「ああ、そうしてこい」
そんな外野の声を聞きながら、李典は目を閉じた。
気付かないふりをしていた。ずっとこの感情に蓋をして、あまつさえ厳重に呪いをかけるようにして守ってきた感情が、あった。だがそれでもどうにも仕切れずに、身体に異常を来して。
それでもまだ、きちんと理解したくないことがあった。納得したくないことがあった。決め付けず、触らぬ神に祟りなしとばかりに放置すべきだと必死に目を逸らしたもの。
それが、こんな形ですべてを明るみに出してしまった。
「…どうしてくれるんだよ…」
知りたくなかったのに。気付きたくなかったのに。なのにもう、無視は出来ない。自分の、この感情は。今こうして溢れ出すようなそれは。
「…っ、…」
遠くで、再び金属のぶつかりあう音。ああ、楽進だ。楽進が張遼と戦っている。
またあの目で張遼は誰かと戦うのか。その双眸は別の誰かを真っ直ぐ射殺すように見つめるのか。楽進とは親友だ。親しくしている。だからそんな風に思うのはおかしい。だのに、感情をうまく制御できない。ああ、やめてくれ。見つめるなら俺を。なんて女々しいことを考えるほどに。
「…あんたまみれだよ、俺…」
苦々しくも、迎え入れる。ぽろり、一粒零した涙に気付いた途端、あとからあとから湧いてくるように涙がこぼれて地面に消えていく。気付きたくなかった。気付きたくなかったけど、もう限界だった。だから、もう仕方ない。迎え入れるしかない。これも自分の持つべきものだと諦めて、真っ直ぐに自分の感情と対峙するほかないのだ。
光としてそれまで認識していた感情を。
それまでの自分が必死に築いたものが崩れていって、新しいものが自分の中を埋めていく。それが、李典にはどうしようもないほど切なくて、まともに息継ぎすら出来ない。
李典は双眸をごしごしと擦って、ようやく少しだけ起き上がった。まだ戦っているらしい楽進と張遼の、その手合わせの方へ視線を向ける。
光は、眩しいほどの光はもうなかった。
そりゃそうか、と小さく呟く。
そしてその瞬間、楽進の武器が、張遼の一撃ではじかれた。楽進がその武器を取り落とす。
その一連の動き。
「あーぁ…」
呟いた。
「…もう、褒めるしかないじゃないか…」
張遼は、強い。たぶんこの魏軍随一だ。泣く子も黙る、なんていわれるだけある。
――だから。
泣き笑いのような表情を浮かべて、頭を掻いた。
「あんたが特別すぎるから…いけないんだ。…そうだろ」
誰にも聞こえるはずのない声で、誰にともなく呟いた。
ようやくまともに顔を合わせる。その感情の名は。
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