あの青空にたなびく雲に



 その日は雲一つない晴天だった。馬岱は準備を済ませると隣に住む従弟の部屋へ乗り込む。互いの部屋の合鍵は、もうごく当たり前に持っていたし、ノックもなしに部屋に侵入することに違和感も罪悪感も、とうになくなっている。
「若!」
 きっと寝ているだろう馬超を勢いよく起こすつもりで乗り込めば、馬超は準備万端、といった様子で振り返った。
「馬岱、遅いぞ!」
「うわー起きてると思わなかったなぁ…」
 出鼻を挫かれた感のある馬岱が玄関先でそう言えば、馬超はさも当たり前だと言わんばかりの顔で首を傾げる。
「なぜだ。時間は昨日決めたではないか」
「そうだけどさ〜。いつも学校行く時絶対起きてないのはどこの誰よ…」
「学校へ行くのとはわけが違う!」
「ま、そりゃそうか」
 言うと、二人は揃って外へ出た。玄関の戸締りもすると、顔を見合わせて揃ってアパートの廊下を駆け出した。
 この日は祝日で、馬岱と馬超が住む場所から少し離れた地域では、大きなお祭りが開催される。それは、普段であればいつもの催しで終わるのだが、今年は節目の年だという事で、その空を、戦闘機が飛ぶのだという。それはこの国に唯一ある展示飛行などを披露する部隊であり、今その部隊には、彼らの馴染みであるホウ徳が所属している。長らく音信普通だったのだが、そこで飛ぶかもしれないという情報を得て、二人は揃って遠出することに決めたのだった。
「晴れてよかったねー」
「あぁ!」
 ホウ徳は、馬超の父の部下だった人だ。幼い頃は詳しいことは何もわからないながらに、家にまで来たりするその人とはよく遊んでいた。
 大きくていつも冷静で、決して子供に慣れているわけではないその人は、それでも真剣に自分たちと向き合ってくれた。子供というのは真剣に向き合ってくれる大人を敏感に察知するものだ。だからその人の記憶は、二人にとっては共通の思い出だ。
 結局、父である馬騰が亡くなってからは、葬式以来一度も顔は見ていないのだが。
「ホウ徳殿、パイロットだったんだねぇ」
 今日は馬超のバイクも馬岱の自転車も置いて、電車での移動になる。道々歩く速度がもどかしくもあったが、それでも隣に並んで歩けるのはいいな、としみじみ思う。
「あぁ…何も知らなかったからな」
 たまたま、クラスにいるミリタリーマニアが持っていた本に、その情報が載っていた。そしてその情報が載っているページはその展示飛行をする部隊員へのインタビュー記事が載っていて、気がついたのだ。馬超がその雑誌を無理やり借りて馬岱のもとへ駆けてきた時の形相は、鬼かと疑うほどだった。
 興奮気味にホウ徳殿だ、と叫ぶ馬超に、馬岱は記事を一通り確認して、ホウ徳殿が飛ぶのを見に行こう、と提案したのだった。
 馬超が、ホウ徳へ複雑な憧れの感情を抱いているのを知っている。馬岱ももちろん、そういった感情は抱えているものの、それでも自分はまだ分別がついている方だと思うのだ。だけれども馬超は、いまだにあの頃の思い出を引きずっているところがある気がして。  会場として指定されている場所へ辿りつけば、予想以上の人出だった。人の多さに辟易している馬超を無理に引っ張りながら何とか見晴らしのよさそうな場所を陣取る。ちょうど設置されている本部テント傍にいれば、音楽がかかっていた。野外のことだから、周囲の人々の声にかき消され気味のそこに落ち着いていれば、しばらくすると、放送が入る。携帯で時間を確認すれば、予定されている飛行時間までまもなくだった。
 ふと隣を見れば、少し緊張した面持ちの馬超が、空を食い入るように見つめている。
(これで、若から連絡が取れるようになるといいんだけどな)
 馬騰が亡くなったのは、二人ともまだ今よりずっと若い頃。ホウ徳は馬騰の部下だったので、葬式が終わってしまえばもう会う機会もほとんどない人となる。彼自身にも部署異動の話が出ていたそうで、そう気軽に会える距離でなくなると聞かされて、馬超は怒った。親を亡くしたことへのショックと寂しさで荒れていた馬超にそれは酷く冷たく映ったのだろう。ホウ徳から差し出された連絡先の書かれた名刺は、馬超がその場で叩き捨ててしまった。あの頃、そこに書かれた連絡先が、今も繋がるのかはわからない。もう数年経過してしまっている。違うキャリアにかえてしまっている可能性もある。あの頃主流だった携帯は、今やスマホに取って代わられてきている。そういう時代の流れの中で、ホウ徳が昔のままのものを使っているかどうかは怪しかったけれど。
 あの時、その捨てられた名刺をこっそり拾っていまだにとってあるのだ。いつか、連絡が取れるようになったら。
「若」
「ああ」
 呼びかけても、振り向きもしないで空を見上げている馬超に苦笑して、馬岱はそれ以上声をかけるのをやめた。そうして、どれほど経ったか。
 お待たせいたしました、という男性の放送が入り、それまでかかっていた音楽が切り替わった。そして細かい紹介が始まる。展示飛行を行う部隊の名前、パイロットの名前。そしてそれと同時に、周囲がざわつき始めた。
「馬岱!」
「うん…!」
 飛んでくる、普段の空にはないもの。展示飛行用戦闘機だ。そしてそれが、頭上を恐ろしい速さで飛んでいく。それまで雲一つない青空に、機体の数だけの真っ直ぐな軌道の飛行機雲がたなびいていた。
 ホウ徳が乗っているのは何番機で、何を披露するのか、というのは、近くの本部テントから逐一細かく放送が聞こえていたおかげで、よくわかった。二人は揃ってホウ徳が乗っているはずの機体を目で追いかけた。
 展示飛行自体は、ものの数十分だった。今回の飛行については、特別な催しだったらしく、少し遠くの基地まで戻るのだという。だからこの近くで着陸する姿は見れない。それは少し残念ではあったけれど、思った以上に展示飛行を楽しんだ二人にはそれだけで十分だった。本部テントから聞こえてくる放送の、その中で出てくるホウ徳の名前。それだけで、十分だった。
「ね、ねぇ若」
「なんだ?」
 ジュースを飲みながらまだしばらく興奮気味だった馬超に、馬岱が思い切って例の名刺を差し出した。
「…これは…、なんで、おまえが持っている?」
「拾ったんだよ」
「……捨てたものを拾うな」
 途端にテンションが下がってしまった馬超に少し焦りながら、馬岱は根気よく名刺を差し出す。
「ねぇ、若。俺たちあの頃よりずっと大きくなったじゃない? だからさ」
「………」
「若」
「何年も経っているんだぞ」
「そうだけど、でもホウ徳殿はまだ繋がるんじゃないかな」
「……賭けるか」
「いいよ?」
「負けたら勝った方の言うことを聞く」
「いいよ」
 馬岱に迷いはなかった。そうして、馬超が緊張した面持ちで携帯を開く。 古くなった名刺を難しい顔をしながら睨んで、番号を押していく。考えてみればまだ電話に出れる状況でもないだろうが、展示飛行の興奮冷めやらぬ二人はまだ気づかない。電話は留守電になり、無言で切ろうとする馬超に、ホウ徳殿、おれおれ! 馬岱だよ! なんて、やや最近流行っている詐欺みたいな録音を残してしまった。
「若!」
「う、うるさい! 何を伝えればいいかわからんのだから仕方なかろう!」
「そんなのお久しぶりーとかでもいいじゃない!」
「そんなに連絡を取りたければおまえが取ればいいだろう!?」
「そういうことじゃないんだってば。…まぁいいよ。ホウ徳殿、折り返しで連絡くれるかなぁ。伝えたいねぇ、凄かったって」
「…………そうだな…凄かった。さすが、ホウ徳殿だ」
 馬超の表情が、少しだけ明るくなる。そうやって、ホウ徳を素直に褒めるその時の表情は、まだ馬騰が存命だった頃の彼のようで、馬岱は少しだけ懐かしくなった。  ああ、お久しぶり。そんな風に笑える君に。
 戻ってきてくれてよかった。まってたんだよ、ずっと。  馬超の少し照れたような笑顔に、馬岱も嬉しくなった。その日は一日祭りに便乗してあれこれ楽しんで、すっかり疲れきって帰宅したのだった。               



 ******




 馬超の携帯が、登録されていない番号に呼び出された。
 それぞれの部屋へ戻っていたので、その電話を馬超は一人でとることになった。馬岱のところへ駆け込むべく靴をひっかけたところで、足を止める。通話ボタンを押したのだった。電話の向こう側で、落ち着いたあの声が、呼びかけてくる。懐かしいものだった。
 馬超はそれを、実に清々しい気持ちで受け止めた。脳裏に浮かぶのは、あの青空。あの白い雲。
「ああ…馬岱が持っていた。まだ繋がるか賭けたのだぞ…ああ、そうだな。賭けは俺の負けだ。どうしてくれるんだホウ徳殿! …その、こ、今度、うちに遊びに来ないか。馬岱には内緒で…そう、驚かしたいのだ。…ああ、わかってくれて嬉しいぞ、ホウ徳殿! そうなのだ。…俺たちが、こうして連絡を取れたのも、馬岱のおかげだ。…だから、礼をしたいのだ。…今日は凄かった。さすがホウ徳殿だ。一生かけても、きっと俺は貴方にはかなわん。…それを伝えたかった」
 馬超は玄関で、ぽつぽつと電話の向こう側の相手へ近況を語る。そうして、自覚する。その中でも相変わらず、滲むように自分の生活へ影響している馬岱へ。  きっとこの再会がかなえば、喜んでくれるだろう。
 自分は一人だけでも連絡を取ればよかったのに、そうせずに機会を待っていた君へ。
 せめてもの、贈り物を。




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ホウ徳殿のパイロットスーツわっしょおいってなって書きましたね…。わっしょおい…。