あれはたぶん、夢の中の存在だ。
曹操を亡きものにしようと画策し、練りに練った策だった。が、一歩及ばず。しかし曹操を守った典韋は倒れた。倒れた彼は、多くの人々に信頼されていた。あまり頭は良くないようだったが、それでも自分の信じたものを守る、という彼に与えられた職務を全うする。期待以上の働きをする。彼は、そういう人間だった。
だからたぶん、あぁこれは殺されるな、と思ったのだった。とはいえ、仕方ない。十分に考えた策だったのだ。全力だったのだ。それがあと一歩及ばずだったのなら、それはもう仕方がない。戦場には魔物がいる。軍師の思い描くその場を、色を塗り替える魔物だ。それは時に、人の能力のすべてを超えて、別の次元に持っていく。今回は典韋がそれだ。もしくは、曹操自身の強運か。とにかく、賈クはその全力で策を弄したが、一歩及ばなかったのである。本当に、残念だけれど。
だが、曹操はその予想を超えて、賈クに対して自分のもとで働けと言ってきた。正直、意味がわからなかった。が、それは軍師にとってもっとも好ましい人物にも思えた。自分の感情で先走ることなく、合理的な物事の考え方。情に流されることなく、必要であればそのように感情を殺せる。
「やぁ、賈ク。ちょっといいかな?」
そんな曹操のもとでこの戦乱を生きることになった賈クの前に、立ちはだかったのは郭嘉だった。
立ちはだかった、というと多少言葉が悪いが、なんというか、とにかくしょっちゅう声をかけてくる。同じ軍師なのだから顔を付き合わせる機会は多いのだが、機会が多いのだから、仕事以外は無視したっていいはずなのだが、何をとち狂ったか、こうして酒を持参してやってくるのである。連日。
「また酒かい。あんた本当に好きだね」
「賈クは意外に真面目なんだね? まだ何かやっている」
部屋を覗き込まれて、書物の山を見つけた郭嘉はにこりと笑った。綺麗な顔である。顔が良くて頭も良いこの男は、当初の想像よりずっと遊び人だった。彼にはこの軍に加わって以来、仕事の山を押し付けられてばかりである。今日だとて、この刻限まで書物の山に埋もれていたのは、まわされた仕事をこなしていたからなのだが、どこ吹く風とばかりに微笑まれてはさすがに皮肉のひとつも言いたくなる。
「おかげさまで、酒を飲む時間もない」
「おや、それはいけないね。仕事は、長くやればいいというものではないよ」
「そいつは見解の相違ってやつだね。残念ながら俺はそういいきれる立場でもないんでな。じゃ、おやすみ」
言って、すばやく引っ込もうとする賈クを、郭嘉は勢いよく引っ張った。
「あはは。そうむきにならないで。少しくらい休憩した方がいい」
「酒飲んじまったら休憩で済まんだろうが」
とはいえ、こうなってしまったら郭嘉の誘いを断ることは出来ない。
典韋の一件があるから、店にいって飲む、というのはまだ遠慮していた。典韋は慕われていたらしい。いまでもまだ道々歩いていると、皮肉や嫌味は聞こえてくる。その程度でへこたれる人間だったら軍師はしていないし、その程度で弱るほどやわでもない。むしろ、それほどの人物に策の上で勝ったのだ、というそれが、自分の中で確かな事実として浮き彫りになるばかり。ともなれば、皮肉も嫌味も、そういった謗りを受けても仕方のない人間だよ、なんて思うのだ。
「しかしあんたもおかしな奴だ」
「私が?」
「あんた以外に誰がいる。俺みたいなのと飲んでも楽しくないだろうよ」
「楽しいかどうかはこれから決まるのではないかな?」
そうやって笑いながら、杯を手渡してくる。
(まぁ、あんたが俺と一緒にいる理由なんて、わかってるがな)
そう、わかっているのだ。
本当は監視していること。
おかしな動きをしないよう、見張っていることを。
杯に注がれた酒が小さな波紋をつくる。それを見つめながらうっすら笑った。
一度大きな損失を出しているこの軍内において、この監視が解かれる日というのは、相当に努力し、多くの人間に認められてようやく現実のものとなるだろう。
それまで郭嘉は、こうして賈クのことを監視するというわけだ。軍師同士、仕事で顔を合わすことも多いし、郭嘉が酒が好きで遊ぶことが好きな以上、こうしてそれ以外の時間に賈クの前に顔を出してもおかしなところは少しもない、というわけで。
「大体あんた、毎日毎日」
「ふふ」
「なんでそこで笑う」
「また始まる、と思ったらね。賈クは意外と、私のことを気遣ってくれる」
「気遣うっていうのとは違うと思うがね。常識的に、あんた酒浸りだ」
そう。そして郭嘉はとにかく酒が好きだ。いくらなんでもちょっと目にあまるほどである。普通に嗜む程度とか、あるいはそれを少し超えている程度の酒ならば、賈クだとて飲むし、それを否定はしない。が、郭嘉は浴びるように飲むのである。その細い身体のどこに酒が入り込む余地があるのかと思うくらい。誰だって窘めたくなるというものだ。
「まぁでも、そういうのも飽きたかな」
「飽きた。あははぁ、いいご身分だね」
「そうかな?」
「あんたも寂しい奴だな。心配されるのに飽きた? 飽きるほど心配されて、気分はどうだい」
「…おや、辛辣だ」
「第一な、あんたのその酒浸りを心配しない奴は、あんたと同じ酒豪か、あんたのことどうでもいい人間だろうよ」
「なるほど。じゃあ賈クにとって私は、どうでもいい人間ではない、ということだね」
「…同じ仕事してるんだ。そりゃあそうだろうよ」
「ふふ、嬉しいな」
皮肉だったのだが、やけに前向きに受け止められて、嬉しそうにされてしまっては、続く言葉も出てこない。なんというか、郭嘉には何を言ってもうまく届かないような気がした。実際こうやって酒を飲んだとしても、彼がどれだけ酔おうが、基本的に郭嘉が計算抜きに接してくることがないように。
怒るだけ無駄だろうか。やけに嬉しそうに酒を煽る彼を横目に、小さくため息をついて、賈クもその酒を一息に飲み干して。
そんな風に、日々は過ぎた。
郭嘉は相変わらずだったし、賈クも相変わらずだった。が、あの日以来、郭嘉が賈クのところに来る回数は少し減った。忙しい身だから、それを気づいてはいてもどうこう言っているほど暇でもなく。
「賈クよ。励んでおるか?」
ある日、書簡やら何やら、いろいろ運びながら用事を済ませていたところに曹操と出くわした。忙しい人である。そのときも、許チョや夏侯惇、そして郭嘉を連れて足早に通路を渡っているところだった。
「お気遣いいただきまして。おかげさまで、日々励んでおりますよ」
許チョも夏侯惇も、実に不機嫌極まりない、という顔をしていた。曹操は、特に何も感じていないように振舞っていた。そんな中で、郭嘉だけは笑っていた。この空気の中で、笑える郭嘉は実はすごい奴なのではなかろうか。
そもそも、郭嘉はあの場にいたのだ。典韋が倒れる場面を。彼の背に矢が何本も突き刺さり、それでもなお曹操を生かそうとしたあの姿を。それを、その目で見ているはず。
だからこそ、反応として、夏侯惇や許チョの方が正しい。
そんなことを考えている間に、曹操は彼らを連れてその場を後にした。残された賈クは、ひとまず大きく息を吐いて、もともとの目的を果たすため、再び歩き出す。とはいえ、曹操の一行は目立つ。賈クと曹操のやりとりを見ていた面々は、それまで以上に嫌悪感を露にした視線を向けてきていた。
(あははぁ、これは一波乱あるかな)
曹操が認めたこの才。この才のために、自分は生きてこの軍にいる。とはいえそれは一触即発。曹操の方針でもある、才がある人物を重く見る傾向を、この軍の者は皆知っている。だから誰も手出しはしてこない。
が、それでも不満は溜まっている。それは、曹操に対しても。だがそれを曹操に向けることは出来ない。となれば、向けられる矛先はひとつしかない。
さて。
どう出迎えてやろうか。
出せる策は限られている。なにせ仲間がいないのだ。今回は完全に孤立無援だ。策につかえる駒はひとつ。自分だけ。たとえば夜だけ逃げるということも考えたが、今回の場合、逃げるのは立場を悪くするだけだ。ならば逃げずに迎え討つのみなのだが、それにしてもやれることは実に限られていた。
賈クはいつものように、自室に仕事を持ち込んでいた。罠を仕掛けることも考えた。実際、そうしようとも思っていたのだが。
「やぁ、賈ク」
「………見計らったように…」
そういえばこの男は監視についているのだった。
となれば、罠を仕掛けさせるような隙は与えてくれないだろう。
「少し話をしたくてね」
「……珍しいな、あんたが手ぶらとは」
「たまには、ね。こういうのも、いいんじゃないかな」
言うと、郭嘉は賈クの返事も待たず部屋へ入り込んだ。その郭嘉の雰囲気がいつもと違うことに気がついて、賈クはその背を見つめて首をかしげる。いつもなら嫌味なくらい優雅な足取りで入ってくるのに、何だか。
「…走ってきたのか?」
「あぁ…早く貴方に会いたくてね」
「そういうのは女に言ってやれ。ま、そんなに息せき切って来ずとも、大したことは出来んよ」
郭嘉が来る前から、この部屋の周囲に不穏な空気が立ち込めているのは、知っている。剥き出しの敵意だ。殺意とまではいかずとも、多少痛めつけられるくらいのことはあるだろう。賈クは軍師で、戦いの前線に出る必要はない。従軍できて、策が出せる程度に痛めつけられる程度。…とは思っているのだが、そう考えていても、その場の空気が度を越す可能性は、なくはない。
「だめだよ、賈ク」
「ああん?」
「貴方は、諦めない人だろう?」
「息せき切って来たと思ったら、何の話だ?」
「貴方は私の押し付けた仕事もきちんとこなす人だ。献策も惜しまない。自分の価値をしっかり理解している。その貴方が、ここで諦めたらいけない」
「………諦めるっていうんじゃないんだがなぁ。軍師やってりゃ、人の恨みの五十や百くらいは引き受けるつもりだがね。こういう形でしか、恨みが晴れないっていう奴もいるだろうさ」
「それを許していたら身がもたない。人の恨みの五十や百くらい引き受ける? 貴方が支えるべき人は、そんな程度の人間ではないよ、賈ク」
「……あははぁ、なるほど?」
曹孟徳は、そんな程度の恨みで済む人間ではない。彼についていくならば、もっとたくさんの人間の恨みつらみをかぶって生きていくことになる。
――だから。
「だから、ここで諦めたらいけない」
「なんだ、あんた味方してくれるのか?」
こちらが変なことをしないための見張りだとばかり思っていたが。
「今は、貴方の駒になってあげよう。勝利条件は、無血で相手の戦意を削ぐこと…どうかな?」
「無血! あははぁ、あんたさらっと面倒な条件出すね。えげつないな!」
「軍師だからね?」
「ま、それが俺にとって必要なのはわかるさ」
これは典韋の無念を晴らすための行動。そこに溜まった鬱屈だ。しかしそうさせたのは曹操の決断で、それを受け入れた賈クにしか向けられないものだ。同じ軍の中、損害を出すことがあってはいけない。正当防衛であったとしてもだ。そこでもし、襲撃してきた彼らを殺しでもしたら、結局賈クがこれまで築いてきたものは無になってしまう。それは、避けなければならない。
だからこその、条件だ。
「さて、どうしようか?」
「どうもこうも。ま、ひとまずは」
言うと、賈クはこっそりと忍ばせていた短刀を郭嘉に投げた。
周囲の殺気は色濃くなっている。策を細かく練っている場合ではなかった。出たとこ勝負の三文芝居だ。このとき、賈クはだいぶ楽しくなっていた。楽しい、と思って笑うと途端に悪人面に拍車がかかるので、実に伝わりにくいのだけれど。
味方がいる。これが、どれだけ手詰まりだった策に無限の彩りをつけるか。
「さっきのあいつらの顔、いやぁしばらく忘れられんな」
「ふふ、まさか私の芝居にのってくれるなんてね」
「あははぁ、のるしかなかっただけだがねぇ?」
結局。
あの後、すぐに襲撃が開始された。荒々しく踏み込まれた部屋の中、郭嘉はその手に、賈クから渡された短刀を持っていた。もともと病的に肌の白い男のこと、ほんの少し手が震えている演技をしただけで、演出効果は抜群だった。そんな郭嘉の狙いを受けて、賈クが神妙そうに肩に手を置く。
「ああ…賈ク。私はどうすればいいだろう…?」
「いや、しかしあんたに怪我がなくてよかった」
「まさか彼女がこんなものを隠しているとは思わなかった…。貴方がいなかったら私は」
「間に合ってよかったじゃないか。なぁ? …っと、あんたらなんだい? 悪いんだが、今はちょっと立て込んでるんだがね?」
わざとらしく、ここでようやく侵入してきた彼らの存在に気づいたとばかりの反応を示す。彼らはその場の空気に動揺はしていたものの、まだ諦めた様子はない。――が。
「ああ、貴方は私の命の恩人だよ、賈ク!」
「っととと…。落ち着けって。あんたらしくもない」
飛びついてきた郭嘉を何とか支えようとして数歩よろめいた。が、郭嘉が賈クに抱きついたことで、彼らは完全に動けなくなってしまった。今ここで賈クを襲えば、確実に郭嘉にも被害が及ぶ。そうなれば、曹操の怒りは確実だ。そこまでの度胸は、彼らにはなかった。
「ふふ、でもよかった。私たちのやりとりに、まだ耳が貸せるだけの理性はあったね」
「ま、曹操殿の軍にいるんだからね。そりゃ、そうでなきゃな」
そうでなければとっくに殺されているに違いないのだから。
「ところで賈ク。これは貸しだよ?」
「…あー、だよな…」
「ふふ、もちろん」
「こりゃもっと仕事が忙しくなるか?」
「酒もね」
「女のところにでもいきゃいいだろうに」
「私はね、人生を楽しみたい。女性の柔らかな肌と、甘い香りもいいけれど。こうして貴方と話すのも、十分それに匹敵するよ」
「………」
呆れた。
「ふふ。断らないよね?」
「そこまで言われたらなぁ…」
根っからの女好き。享楽という言葉は彼のためにある、なんて言われ続けている彼の、言うことだろうか。とんでもない人たらしではないか。
実に無駄な能力だ。どうせなら女相手に使うべき能力じゃないのか。
そう考えていると、郭嘉はどこか安心したように笑った。
「ふふ。よかった。貴方にはもう私は見破られているからね。これで断られてしまったら、次はどんな手を使おうかって考えていたよ」
「そもそもあんたに勝てる奴なんていないだろうよ」
「貴方でも?」
「あははぁ、残念だが俺は合理主義者だからな。無駄なことに力は使わん。…ま、そういうこった」
「…貴方のそれも、怖いくらいの口説き文句だよね」
「これが口説き文句だと思うの、あんただけだよ」
「そうかなぁ。策に命を賭けてる、賈クの言葉だよ?」
「そこ、あんまりしつこく掘り下げなさんな。酒、行くんだろう? これ以上言うなら付き合わないがね?」
「あはは。それじゃ返してもらえないなぁ。…行こう。良い酒を出す店があるんだよ、賈ク」
「…そいつは楽しみだ」
そうやって、二人の関係も始まるのだ。