あなたが好きです



 好きな人がいるんだ、と。
 酒の席、完全な酔っ払い状態の馬超がそう言った。
 劉備に酌をしていた馬岱は、それを背中に聞いていた。もっと小さな声で、周囲の人間にしか聞こえないようにやればいいものを、元々感極まるとひっくり返りやすい馬超の声は、今完全に音量が調節出来ておらず、周囲の関心を一手に引き受けていた。
 それはそうだ。馬超といえば、堅物で口を開けば馬の話と鍛錬の話になるような男である。女性から色目をつかわれてもとにかく苦手意識丸出しで、どうやら積極的な女性はあまり好かないらしい。
 この蜀の地に来てからは、常に馬超の居場所は鍛錬のために使っている広場か、厩か、あるいは従弟のそばだった。
 だが、馬超はとにかく目立つ男である。整った顔立ちは趙雲などもそうだが、趙雲のそれよりずっと精悍なそれで、気になる女性も多いはず。そんな男に好きな人がいる、となれば。
「…馬じゃないですよね?」
 思いきって聞いたのは趙雲だった。周囲から、おまえが聞けよといった流れの末のことである。
 気分良く酔っぱらっているらしい馬超は、人だと言っただろう!と声高に抗議している。
 それを、馬岱は特に何も言わずに聞いていた。
「馬超に好いた者がいるとは知らなかった。馬岱は知っているのか?」
 物静かになった馬岱に、劉備が無邪気に問う。酔っぱらっていない馬岱はそれを、笑顔を浮かべてこたえた。
「いやー、実は初耳で!俺もびっくりしちゃったくらいですよ!」
 言ったことに嘘はない。
 実際、馬超に好いた相手がいるなど初めて聞いたのだ。全く知らなかったから、寝耳に水である。
 馬超はまっすぐな人間だし、きっとそういう相手がいたらわかるだろうと思っていたのだけれど、馬岱の思惑など軽く飛び越えて、馬超の心にはすでに誰かいるのだと言う。
「で、どんな相手なのですか?」
「…言えん」
「そ、そこまで言っておいてそれとは…!」
「相手に迷惑がかかってはいかんからな」
 趙雲とのやりとりに、馬岱は指先が冷たくなっていくのを感じた。
 本気だ、と。
 そう気付いたのだ。
 馬超の声は、言葉は、本気だった。その言葉に、はっきりとした意志があった。馬超は情熱的だ。誰かを好けば、途端に盲目的に、情熱的になる。幼い頃から一緒なのだ。馬超がそういう相手を見つけた時どうなるかなど、とっくに熟知していた。
 だからこそ、心臓の真ん中を射抜かれたような感覚があった。予想もしていなかったのだ。馬岱が気付かない間に、馬超が誰かを好いているなど。
「いつかご紹介いただける日は来ますかね?」
「わからん」
「これは、錦馬超ともあろう方が消極的な」
 そんな趙雲との会話を聞き耳立てつつ、劉備たちは馬超の好きな誰かを酒の肴にして談笑をはじめている。馬岱はといえば、どうすればいいかわからず、身の置き所もなく、立ち上がった。
「なんでぇ、どうした突然」
 張飛に声をかけられて、馬岱はやはり笑顔でこたえる。
「厠だよ」
 こう言えばまぁ大概逃がしてくれるものだ。さて馬岱はうまくその場を抜け出すことが出来た。酔っ払っていない馬岱は足取りも早く、外へ出た。とぼとぼ歩いていた馬岱は、そのままその場から逃げるように駆けだした。
(好きな人って)
 そうやって走りながらも、頭の中を占めているのは先ほどの会話である。
 今頃皆、馬超に誰のことなのかと質問責めのはずだ。馬超はそれに口を滑らすことはないだろう。どれだけ酔っていたにせよ、馬超はそういう一線は越えない。自分が駄目だと決めたことは、決して流されたり変わったりしないのだ。
 馬超の好きな人は一体どんな人なのか。
 きっと華奢で可憐な人だろう、とか、そんなことを考えて、その想像した誰かが馬超の横にいるのがあんまりしっくりくるから笑ってしまう。
(そうだ、そうだよ、それが一番いいんだよ)
 だから、そうだ。
 この感情は凍結させないといけない。封じ込めないといけない。もう二度と誰の前にも見せたらいけない。誰の口にものぼらせてはいけない。
 少し前のこと。
 馬超と馬岱は二人で酒を呑んでいた。というのも、馬超が何故だか酷く荒れていて、とにかく酒を呑もう、それで嫌なことは忘れよう、と何とか落ち着かせたのだ。二人で、酒を呑んだ。その日は月が煌々と輝いていて、少し肌寒いけど外で呑もうということになった。庭へ出る階段に腰かけて、二人は酒を呑んだ。荒れている馬超はもっとよこせと言いだして、馬岱が手にしていた酒瓶まで奪おうとした。これを阻止しようとして二人はずいぶん暴れた。
 その中で、何故だか馬岱は酷く自分のずっと隠していた感情を口にしたくなった。取っ組み合いをしている最中である。さすがにその欲求の順序立ったもののなさに呆れたが、酔いに任せて、言ってしまったのだ。

――俺、若が好きだよ。

 途端、馬超は暴れるのをやめた。

――どういう意味で、だ。

 そう聞かれて、馬岱は「一番好きだ」とこたえた。それだけだった。だがそれでも十分馬超を黙らせたし、それ以上に、伝わってしまったことは感じられた。
 自分がずっと、胸の内に秘めていた感情が、馬超にはっきり伝わった、と思ったのだ。
 だがそれは、それだけだった。翌日、二人はその階段で目を覚ました。さすがに風邪をひきそうな状況だったのでそれを発見した者たちには大層叱られたのだが。
 馬超は、その酒盛りのことを覚えていなかった。
 伝わったと思ったそれは、結局伝わっていなかったのだ。それに安堵したり、残念に思ったり、複雑な気持ちではあったが、今まで通りいられるのだなと思えば安心した。心のどこかに痛みはあったが気にしないことにした。
 馬超は嘘をあまり言わないから、きっと本当に忘れたのだと思ったのだが、もしかしたら覚えていたのかもしれない。馬岱に気をつかったのかもしれない。それは、馬超にとって無視しなければならない感情だったのだろう。
 馬超にはもう好きな相手がいる。馬岱がずっと胸に秘めていた感情が、報われるような日は来ない。
「…っ」
 どれくらい来たか。
 息が切れた。木々の影に隠れて、馬岱はうずくまった。
(…よかった、うん…よかったんだ)
 必死にそう言い聞かせた。大丈夫、これは望んでいたことだ。馬岱の中で、馬超に対する感情はいくつももつれこんでいて、馬超を特別に好いているというそれと、馬超が、きちんとした相手を見つけて馬家の再興を目指してほしい感情と、だがそれをまともに祝える気がしない自分とがいる。すごく好きなのに、すごく嫌いだ。
こちらの気持ちも知らないで、まっすぐで驚くくらい眩しい人。
 大丈夫、そんな風に感情はいつだってめちゃくちゃにこんがらかっていて、だからこそ、馬超に好いた相手がいて、その人を紹介される日が来ても、きっと大丈夫。
(大丈夫、祝えるよ。大丈夫)
 自分の思いが届かないからといって泣きだすような子供ではない。思う通りにいかない世界だからといって、逃げ出したりしない。大丈夫。これまで通り、何も変わらない。いつも通り、暴走しそうになる馬超を軽い言葉でいなして、戦場で、あるいは仕事の中で、おまえは俺の宝だと、そう言われるこの立場に何の不満があるだろうか。
 大丈夫、だから、この感情はここで殺さないといけない。
「………」

「…馬岱」

 はっとした。心臓が鷲掴みにされたように感じた。
「どうした」
「え、ああ、うん。ちょっと頭冷やそうと思ってさ」
「頭を冷やすのに全速力で駆けるのか、おまえは」
 馬超の声は相変わらずどこか酔っぱらっている様子のそれで、呂律もまわっていないように聞こえた。
 馬岱は振り向かず、そのままでこたえる。
「えー、それより若、全速力の俺にその酔っ払い状態で追いかけてきたの? 危ないなぁ」
「おまえが走るから悪い」
「そっか」
 会話は一旦そこで途切れた。馬超の視線を感じる。馬岱は大きく息をついた。不自然に思われるような行動はこれ以上とれない。振り向いたらもう全部、なかった事にしよう。あの朝の馬超のようにだ。
「何故走った?」
「…なんとなく?」
 そう、笑いながら振り返ろう。ただなんとなく、外へ出た。外へ出たら全速力で駆けたくなった。酔っ払いの行動に意味なんてない。それで押し切ろう。
 自分の中で、必死にそんなことを考える。少しでもおかしいと思われないように、取り繕えるように。
「おまえがどこかへ行ってしまうと焦った」
「はは、ごめんごめん」
 だが、なかなか踏ん切りはつかない。振り向いたら、忘れる。口ではいくらでも言えるが、それを実行出来る気がしない。振り向いて、馬超の顔を見たら、決心は音を立てて崩れそうな気がするのだ。それが怖い。この決心だけは、何としても変えてはならないことだというのに。
「…怪しまれたかもしれん」
「え?何が?」
「俺の好いた相手のことだ」
「………」
 ここでその話を、その続きをするのか。
 息が出来ない。唇を噛んだ。心臓が、その心臓から、冷たい空気が伝ってくるような感覚がある。血が流れているはずのそこに、びょうびょうと風が吹き荒れているようだった。冷たい。身体の全体が、真ん中から冷たくなっていくようだ。
「ずっと言おうか考えていたのだ」
「うん」
「…だが、馬岱には言わねばと思った。誰よりも先に、きちんと」
「そ…れは、光栄だなぁ!」
 そういう意味で特別。
 それで満足出来るはずだ。ずっとそうだったのだ。何も変わらない。何も。
「おまえとはずっと一緒だった。俺が一番苦しい時、ずっと一緒にいたのは結局馬岱、おまえだった」
「はは、そんな改まって言われると怖いなぁ」
 馬超がいつの事を言っているのか、わからないはずがなかった。それは一族が誅殺された後からのことだ。馬岱だけが戻ってきて、報告をしたあの時のことだ。
 そして、それ以来の馬超の荒れた様子。孤立していく中。馬超の決断に、異を唱える者も増えていき、馬岱だとて否定をした事だってあった。その日々のことだ。
「だが聞いてくれ。俺はおまえがいたからこそここにいる」
 馬超の言葉は、なかなか核心に辿りつかない。馬岱はひたすら苦しかった。こんなに長く苦しむなら、もういっそ自分で自分の心にとどめを刺そう。そう思い、拳を握る。
「それで若、ついに好きな娘が現れたってわけだね!」
「……気付いたのだ」
「……うん」
 馬岱の声の明るさに反比例するように、馬超の声は落ち着いていた。いつものようなそれとは違う、その声はさきほどの酒場でのそれと同じだった。馬岱が、本気だと気付いた瞬間のそれと。
「だから言わねばと思った。…俺は…その、…こんなことを、こんな酒の入った状態で言ってはならんのかもしれんが、酒の力を借りねば言える気がしない」
「…わかるよ、それ」
 数日前の馬岱だとてそうだった。言ってはならない感情を、ついぽろりと口に出したのはあの時、酒の力もあったはずなのだ。
「数日前、俺は荒れていただろう」
「…うん」
「荒れていた理由を、知っているか」
「教えてくれなかったじゃない」
「…おまえが寂しいと言っているのを聞いたからだ」
 その言葉に、どくりと心臓が跳ねた。思わず、長く沈黙してしまった。何とか、必死に言葉を紡ぐ。
「…………はは、えー、そんなこと、いつ言ったのかなぁ…?聞き間違いじゃない?」
 乾いた笑い。それは馬岱のものだけだった。背中に感じる痛いほどの視線に批難されているようだ。針でも刺されているかのように感じる。
「聞いたぞ。たまたまおまえが一人でいる時だ。独り言のように言ったのを聞いた」
「………」
「蜀に来て、そんな風に呟くおまえを見て驚いたのだ。それと同時に相談してくれぬことを悔しく思った。泣きたいほど悔しかったのだぞ!」
 馬超の語気が荒れていた。とはいえ、好いた相手の話を切り出すにも話題がずれている気がする。
「…ちょい、若。話ずれてない…?」
「ずれてなどいない。俺はその理由を知りたかったのだ。俺がいるだけでは駄目なのか、と悔しく思った。一体誰に、何に、そんなに心を奪われて、それで寂しいなどと言うのかと」
「…若、ねぇ、おかしいよ。ねぇ」
「おかしくない!言ったろう、怪しまれたかもしれぬと!あの酒場であの話題のあと、俺はおまえを追いかけてきたのだぞ!」
「…好きな娘の話を、俺に最初に言いたかったからでしょ?」
「そうだ。俺はずっと、言う機会を探っていたのだ!もしやわかってくれたのではないかと思ったが、おまえの顔色が悪かったので怖くなった」
「…わ、若」
 どくん、ともう一度。
 心臓が跳ねる。
 そんな風に、期待などしてはいけないというのに、自分の中で、勝手にそういう感情がむくむくとわき上がってくる。こんな都合のいい話があるか。もしかしたら夢ではないか。だとしたらこれは、自分の思う通りに進むだけの話だ。
「言わねば伝わらぬ。知っていたのにな、俺は」
「…ちょい、…待ってよ」
 だから、何とか止めようとした。夢なら早く醒めてほしい。だが、そうはならない。
「おまえが、あの夜言ってくれたのだ。俺もだ、とあの場でこたえるべきだったのだ。だがあの時、俺は混乱していた。そんな都合のいい話があるか、と」
 都合のいい話。
「………若」
「おまえが寂しいと言っているのを聞いた時、こんなに苦しいこの気持ちは何なのだと考えた。考えに考えて、得た結論だ。言えるはずがないと思ったそれだ。だがおまえが同じく思っているのなら、別だ」
 馬超が一歩、こちらに歩み寄った。うずくまっていた馬岱の肩に手がかかる。じわりとその指先から、掌から感じる熱に、ぞわりと肌が粟立った。これが、現実だという証明のように。
 この告白が夢ではなく、現実のもので、自分は今、それを期待する気持ちと、制止する感情で揺らめいている。

「俺は、おまえが好きだ。…一番に、だ」

 あの時の夜、馬岱が言ったのと同じ言葉だった。
 だがそれで十分だった。十分伝わる言葉だ。声に熱のこもったそれ。馬超が今どんな風に、何かを捉えているか。それは声だけでも十分伝わる。
「おまえに、触れたい。寂しいなら、癒してやりたい。俺にそれが出来るなら」
「…若ってさ」
「な、なんだ」
「…馬家の、若なんだよ」
「あ、あぁわかっている!」
「…いや、ごめん。違うや、言いたいことはそうじゃなくて」
 そうじゃなくて。
 馬岱は、一つ深呼吸をした。それから、肩に置かれたままの馬超の手をとろうと手を伸ばした。途端に、馬超がその手を逆に掴んでくる。その強引さに、馬岱はじわりと心の中のなにかが溢れ出てくるのを感じた。
「俺も、若に必要なら嬉しいよ」
 握られている手に力を込めて、握り返す。
 この感情は片方だけでは成立しない。それが、片一方だけのそれではないと互いに、言葉以外に伝えるように。
「…一番、必要だぞ。…あらゆる意味で、だ」
「そっか。俺もだよ、若」
 笑うべきか、もっと違う表情でいるべきかわからずにいれば馬超が背後で大きくため息をついた。きっと緊張が解けたのだろう。だがそれがおかしくて、馬岱はつい噴き出してしまった。笑うな、と言われてはついにこらえきれなくなって、腹をかかえて笑いだした。
 そしてあの日の夜のように、二人はじゃれるようにして転がって笑い合った。



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超岱だけど逆でもたぶんいける…???かな。