掌の上なら懇願の




 筆がことん、と落ちた。その筆は昔から馬岱が愛用しているもので、武器として使っている妖筆を作る際にあまったもので作られた、一応は普通の筆だ。大きさも実用的なもので、何かしら書きものをしなければならない時にはそれを好んでつかっている。
 それが、風も通りぬけないようなこの部屋でひとりでに落ちた。
 床に墨が散らばる。
 あ、まずいな、と馬岱が感じた瞬間、その肩にずしんと重みを感じて、膝をついた。
「…っ」
 言葉もなくその重圧に負けて、馬岱はゆっくりとその肩を振り返る。そこには、墨で出来ている虎の獰猛な爪があった。あり得ない状況だが、馬岱の表情にはどこか余裕がある。
「やぁ、久しぶり?」
 なんて軽く声をかけたりもして。
 だが、浮かべる笑顔とうらはらに、馬岱は膝をついて動けずにいた。どうにか床に手はつかずにいたが、かかっている重圧はかなりのものだ。押しつぶされないように必死に耐えている、といった風情で、だがこれが初めてのことではないらしい様子で。
 たまに、こういう暴走が起こる。
 妖筆は別に誰だって扱えるものだ。とはいえ妖しいものである事に間違いはない。そしてそれは大小の別はない。基本的な使用方法を間違えなければ問題はないのだが、たまにこうやってぞんざいな扱いをすると、使用者に対して少しの間、何かを主張するように自由を奪ってくる。
 画鬼、なんて呼ぶものだから、結局のところ鬼を遣っているというわけで、ならばこうして使用者に報いがあるのも、別段おかしな話でも何でもない。
 対処方法はわかっているし、冷静に行動すればいいだけの事なのだけれど。
「そんな怒んないでよ…今ちゃんとするから」
 言うと、馬岱は手を伸ばした。相変わらず虎の脚が肩にかかっていて自分の身体を屈服させようとしてきている。馬岱はそれに耐えつつ、床に転がった筆をとる。
 と、その時だった。
 廊下から聞こえる、足音。
 考えるまでもなくそれは馬超のものだった。その足音がどこへ向かっているかなど、考えるまでもなかった。
 見られる前に何とかしないと、と慌てた分、手元が滑った。せっかく手にした筆が、再び馬岱の手から転げ落ちる。

「馬岱!」

 馬超は相変わらず部屋の中にいる人の都合など考えずに扉を開け放つ。途端、馬岱の身体が自由になった。今までかかっていた重圧が解けたのだ。そしてそれと同時に、馬岱の視界にその虎が、扉を――馬超を目掛けて跳躍する。
「……っ!」
 身体にかかる重圧が解けた、その瞬間に馬岱は落としかけた筆を空中で掴むと、その虎がいる方へ勢いよく筆を動かした。
 ざっと描いたそれは、龍の絵である。
 描かれた龍は、すぐさま馬岱の意を解して虎の身体に向けてとびかかり、押さえつけた。
「…っ、と…」
 目の前で、虎と龍が暴れている。しばらくすると、その争いは両者引き分けのまま同時に消えた。
 それを呆然と見ていた馬超は、その墨絵――画鬼の向こうに馬岱を見つけて、難しい顔をした。
「おまえ、また」
「…危なかったよね、いやー何事もなくってよかった!」
 馬超が厳しい口調で何か言おうとした途端、それを阻むように馬岱が口を開いた。殊更大きな声だったのは、緊張が解けたからというのもあるし、馬超に皆まで言わせないつもりだったのもある。
「あ、ところで若は俺に何か用があった?」
「……馬岱」
「あーもしかして忘れちゃったり?目の前であんなの見たらまぁ忘れるよねぇ」
「おい」
「俺はねぇちょうどお仕事終わって、ちょっと時間が出来たとこだよ。遠乗りとか行く?」
「………」
 少し早口の馬岱に対して、馬超はどんどんと口が重くなってついには黙りこくってしまった。馬岱が馬超の言葉など聞く気がない、というのを察したからだろう。不機嫌極まりない様子の馬超は腕組みして馬岱を睨んでいる。
 だが馬超の切れ長の目で睨まれても、馬岱は慣れたものだった。
「あはは、若機嫌悪い!じゃあ俺、若の機嫌が直るまでちょっと逃げてようかな!」
 言うが早いか、馬岱はするりと馬超の横をすり抜けて、さっさと廊下へ出てしまった。その馬岱の手には相変わらず例の筆が握られている。残された馬超は微動だにしなかったが、少しいったところでわずかに振り返れば、馬超は馬岱の部屋へ入ったらしい。すでにその姿は馬岱の位置からでは確認が出来ない。
 少ししたら戻ろう、と決めて、馬岱はひとまず駆けた。とりあえず誰もいないところへ。

 思い返せば妖筆で戦場に出よう、と決めたのは本当にまだ幼い頃。
 たまたま土産に渡された筆を馬岱がいたく気にいって、肌身離さず持ち歩いていたところから端を発する。本当かどうかはともかくとして、馬岱がそうして酷く大事にしていた筆で絵を描けば、本物のような迫力でそれらが空中を躍った。
 だがその筆を折ってしまった事があった。たしか妖筆で戦場に出たいと言った時に笑われたからだったか。それが悔しくて辛くて、とにかく近くにあるものに当たり散らしてしまった。その中にその筆があって。
 それ以来だ。
 筆を粗末に扱うと、ああやって画鬼がどこからともなく出現して襲いかかってくるようになったのは。


 どれほど走った頃だったか、ようやく馬岱は足を止めた。前から趙雲と劉備の姿が見えたからだ。出来ればこれもまた今会いたくない人たちだ。予想通り、二人はこちらの姿を見とめると、親しげに手をあげて近寄ってくる。が、だいぶ近づいたところで劉備が表情を顰めた。
「おお、馬岱か。どうした?ずいぶん、顔色が悪いが…」
「ここちょっと薄暗いからですよ」
 劉備が心配げに近寄ってくるのを気付かれない程度に避けて、馬岱はへらっと笑った。実際ちょうど三人のいるところは日陰になるところで、そこで立ち止まったのも何か言われた時の保険を兼ねている。
「そうだろうか…?趙雲、どう思う?」
「そうですね、確かにあまり顔色が良くないかと」
 だがしかし、劉備も負けてはいない。連れ立っていた趙雲に問いかける事で、馬岱の逃げ場をふさいできた。そんなつもりもないのだろうが、ややひきつった笑みを浮かべてしまったのは仕方のない事だと思う。あまり追及されたくない事だってあるのだけれど、その場の二人にそんな話が通用する気配はなく。
「…ちょっ…と、そう、気分が悪いかもしれないので、諸葛亮殿のところに行きますよ!」
「ああ、そうするといい」
「お送りしましょうか?」
「いや、見ての通り大丈夫。じゃ!」
 これ以上この二人の傍にいたらあれこれといらないところまで踏み込まれそうで、馬岱はいつものように愛想よく笑顔を浮かべると大仰に手を振って、さらに二人の横をすり抜けた。とにかくさっさとこの場を離れるに限る。
 とはいえ目的地があって走っているのではない。とにかく今は誰もいないところへ行きたい一心だった。

 それにしても、先ほどの画鬼のあの動きははじめてのことだった。
 いつも画鬼は自分に向けて何かしらやってくるばかりで、まさか他人に向けて突進しようとは思わなかった。
 あの一瞬、頭が真っ白になった。真っ白になって、何もかもが吹っ飛んで、馬岱は取り落としかけた筆を手にしてその筆を握り直し、画鬼を新たに生み出すまで、ほとんど時間はかからなかったと思う。今までで一番対処も早かった。それほどはっきりと、身体が動いた。
 もしあのまま、馬超に画鬼の虎が飛びかかっていたらと思うとぞっとする。ぞわり、と背筋に冷たいものを感じて、途端に指先が震えた。気がつけば酷く指先が冷えていて、今まで感じたこともないくらい恐怖を覚えていたことをようやく知る。
 間違いがなくてよかった、と息をついた時だった。
「うわっぷ…と、ごめ…あれ」
 角を曲がったところで、唐突に誰かとぶつかった。
 慌てて謝ろうとして、それがまず最初に逃げてきた相手である事に驚く。
「え…あれ、若…どうしてここに」
「おまえこそどこへ行くつもりだ?」
 仁王立ちである。表情も相変わらず剣呑で、怒っているのはすぐにわかった。
「え、いやぁ…」
「どうせ人のいないところでも探していたのだろう」
「う、いや…うーん」
 逃げ場はないな、と馬岱は腹をくくった。いつの間にか回り込まれていたということだろうか。それほど自分は前後不覚な状態で走っていたのだろうか。だが、何はともあれ馬超が今、馬岱の目の前にいるのは間違いない事実だ。
「大丈夫なのか」
「あ、うんさっきのはもう片付いたよ?見てたでしょ、俺の華麗な筆さばき!」
「そうだな。確かに見事だった」
「だからそんな怖い顔しないでよ、若!」
 いつにもまして陽気に声を振り絞る。だが馬超は仁王立ちしたまま、馬岱を射るように見つめてくる。こういう時の馬超は普段の鈍感なところを忘れたような目をする。
「………手を出せ」
「え?」
「手を出せ」
「うん?…はい」
 馬超の言葉に従って、何も持っていない方の手を差し出す。それを見て、馬超は無造作にその手をとった。
「ずいぶん冷えているな」
「あー…たまたまね」
「そうか、たまたまか」
 本当は、あの画鬼が馬超を襲ったことに対する衝撃で、血の気がひいているのだ。馬超は両手で馬岱の手のひらを包み込む。特に指先をさすって、血の巡りを良くしようとしているようだった。
 何でそんなことを、と思ったが、それ以上に馬超の手のひらが酷く温かくて、ぼんやりとされるがままでいると、馬超が口を開いた。
「昔もあったな」
「うん…」
「その時おまえは男のくせに大声で泣いていた」
「…そ、そうだっけ?」
「そうだ」
「…まぁ、ほら、小さい頃のことだし」
「馬岱」
「うん?」
「俺はおまえを信じているぞ。誰よりも」
「…どうしたの、あらたまって」
「今、言っておこうと思ったのだ。あれが俺を襲おうとも、俺はおまえが何とかすると信じている」
「………」
 今回はたまたまうまく言ったけれど。もし次があった時どうなるかなんて保障はどこにもない。だというのに馬超は簡単にそんな風に言い放つ。こっちの身にもなってよ、と弱音を吐きたくなったがどうにか堪えた。馬超は、そういったこともわかった上で言っているのだろうから。
「そっちの手も出せ」
「…あ、いや、こっちは…」
 筆を持っているから、と言おうとしたが、馬超の手が伸びて、後ろに隠したその手を力任せに手繰り寄せる。
 ぎゅっと握り込んでいるその筆を見て、馬超は先ほどと同じように温めようと包み込んできた。
「馬岱」
「うん?」
「何も心配するような事は起きん」
「…若」
「俺もただではやられんからな」
 言われて、ふと万が一のことを考える。考えればそれだけで身震い出来たが、それと同時に何故だか酷く滑稽な、馬超が画鬼と戦っていてしかも勝っている姿までが鮮明に浮かびあがった。
「…そうだね、若だもんね」
 だから、思わず笑ってしまった。
 それまでのつくった笑顔ではなく、自然と浮かんだ笑顔だ。
「ああ、そうだ!だから、大丈夫だ」
 言うと、馬超はふと何かを思いついたように、馬岱の握りこんだ指先に口づけた。
「…っ!?」
 何事か、と慌てる馬岱がまた筆を取り落としかけて、馬超が素早くそれを掴む。
「これだけ強く握り込んでいれば、血の巡りも悪くなる」
「……若」
「前におまえが俺に言ったように、おまえもその手は大事にしなければ筆を持てなくなるぞ」
 言いながら、ようやく開いた馬岱の手のひら、そこに爪の食い込んだ跡を見つけて、馬超はそこにそっと唇を這わせた。
 それはおそらく馬超からの、言葉にならない言葉だ。
――だからおまえも信じろ
 そう言っているのだと思うと、くすぐったくて笑ってしまう。
 そしてふと、あの時画鬼の虎が馬超を目掛けて襲いかかったのは、自分の心の大部分を馬超に占められている事を嗅ぎ取ったからかもしれない、と。
 今さらながらに気付かされて、なんだか酷く情けない気持ちになった。
 自分自身、よく理解しているつもりだったけれど、自分が実感として感じている以上にもっとはっきりとしていたということかもしれない。
「若、くすぐったいよ」
 そう言いながら、そのまま。
 馬超が手を離さないのでそのままにしている。気持ちがよかった。
「…若」
「なんだ」
「…心配してくれて、ありがと」
「そうだな」
 言って、馬岱はふと思い出した。
 そう、幼い頃にもこういう事があった。その時は馬岱は龍にのしかかられて、今にもとって食われそうだった。あの時、助けてくれたのは馬超だった。絵は苦手だと言っていつも筆を触ろうともしない馬超が、折れて真っ二つになったそれを拾って、馬岱を助けてくれたのだ。
 その時描いたそれが、たとえばあんまりにもあんまりな絵だったとしても。
「若ぁ」
「なんだ」
「久しぶりに若の絵、見たいなぁ」
「………笑わないと誓えるか?」
「え、どうだろ…」
 錦だなんて言われる前から馬超は自分にとっては眩しいくらいの存在で、苦手なもの一つとってみてもそんな過去がある以上、馬岱にはもうどうにもならない。
 あの画鬼がそう動いたのすら今なら本当に、不可解も何もなくていっそ恥ずかしいくらい。

 目の前の存在に、心を奪われていて、もう取り戻せない。


 


BACK

ひらけごま。