唇の上なら




 遠呂智が作ったこんな世界でも、多少の楽しみというのを人は作っていくものだ。
 いち早く陣地内に酒場が出来て、その日も夜が更けてくるごとに人は増えていった。それぞれ思い思いに楽しんでいる中で、馬超と差し向かいで呑んでいるのは秀吉である。
「なんじゃあ、馬超はずいぶんかたいんじゃのう!」
 ひと際大きな声でそう言った秀吉は、すでにだいぶ顔が赤らんでいて酔いがまわっている様子。さらにはその向かいにいる馬超も同じく、だった。しかもその時は話題が悪かった。
 堅物と評判の馬超を相手に、好きな相手とどこまでいっているか?なんて話題だったからだ。
 それをやり過ごそうとして、自然酒量は増えていく。馬超の早さに秀吉もつきあうから、結果ほとんど二人とも酷い状態だった。
「そもそも俺は、別にそんなことしなくてもいいと思っているのだっ!」
 顔を真っ赤にして言い切った馬超に、秀吉は目を丸くして、思わずのけぞっている。馬超の勢いもあったが、それ以上にその言い切った内容に驚いている感だった。
「馬超…そりゃあかんで…」
「な、なぜだ!」
 大きなため息をこれみよがしに吐いて、秀吉は肩を落とした。それから、ぐいっと膝をつめて馬超との距離を狭める。
「あのなぁ、それじゃ相手は不安になるじゃろ」
「…ふ、不安だと」
「そうじゃ!いくら言葉で好きだ好きだと言ったところでなぁ、みーんな、最後にはその証みたいなもんを欲しがるんさ」
 ちなみに言えば、秀吉は馬超が好きな相手のことを知らない。
 そもそも、そんな話題になったのも、たまたま秀吉の浮気癖を咎める流れになったからだ。そんなこと言ってもなぁと始まって、そこからねねには苦労かけてるんさ、と秀吉がしょんぼりし、苦労をかけている、という単語に馬超が反応した。
 俺もだ、と呟いてしまった馬超が、しまったと思った時には遅かった。なんだそんな相手がいるんか、と秀吉の猛攻が始まって、相手を暴露するには至らずとも、ひとまずどこまでいっているか?という話題まではさせられている状態だった。
 とはいえ、その馬超の特別な相手、というのが、他ならぬ馬岱のことなので。
 女好きで知られる秀吉に、相手が男だとか従弟だとかはさすがに言いだしずらい状態で、なんとかのらくらかわしてきて、今に至る。
「…しかし、そういう素振りは一度も」
 一度も、というか、そもそも伝えてもいない。
 伝えられるものでもないと思う。
 とにかく最初に立つべき位置が、秀吉と馬超とでは雲泥の差なのだが、秀吉はどうも相手は馬超とはすでに恋仲になっている、と思い込んでいる様子だ。話題がねねの時から続いているから、そう思われても仕方ない。が、その時の馬超はとにかくどうしてこうなっているのかわからずに必死だった。
「…馬超はのぅ、見目はええんじゃ。もっとびしっと強気でいくといいで!」
 いろいろ迷惑をかけているし、幼い頃から一緒だったし、一族の件であれこれあった後は、特に。そしてこの世界でのことも含めて。
 言葉にしきれないくらい、馬岱に対する感情は際立って特別になってきている。失えないし、失いたくない。そうなったら、そもそも言葉として思いを紡ぐのも難しい。ただでさえ、色恋沙汰は苦手なのだ。家族としてならばいくらでも言えるのだが。その線引きは奇妙にはっきりしていて、言葉に出来ないまま。
「…だ、だが」
「なんじゃ、煮えきらんのう!」
「………」
 結局そのあとは、やれ相手の甘えるのはいいとかそんな話を延々聞かされる羽目になった。酔っていなければ到底聞いていられないような話にも発展して、いよいよ馬超は泥酔状態になってしまったのだけれども。

「馬岱…」
 よろよろと覚束ない足取りで陣地内の割り当てられている幕舎へ入れば、馬岱がこれみよがしにうわぁ、という顔をした。
「ちょい、若ぁ…呑みすぎじゃないのぉ?」
 酒くさいよ!と騒がれて、少なからず不機嫌になった馬超はそのまま寝台に転がり込む。誰の寝台かというのも気にかける余裕はなかった。とにかく頭がぐらぐらするし、足元はふわふわするし。その状態で、頭の中まで酒でいっぱいで何も考えられないならともかくとして、秀吉があれこれ語ったせいでそんなことばかり考えてしまっているから、余計困る。
「若、ちょい。それ俺の寝台…」
 ため息まじりに言う馬岱だったが、酔っ払いを無理に動かそうという気はないようだった。どうせ馬超の分の寝台はあいているのだから、そっちを使えば済む話。馬岱もそう思っているのだろう。
「秀吉殿と呑んだ!」
「ああ、そうだったね。楽しかった?」
「秀吉殿は好きな者とは関係をきちんと持てと言われたぞ!」
「ふうん?若そんな話題でよく我慢できたねぇ」
 馬岱が首をかしげながら、馬超の方の寝台に腰をおろした。この陣地内はとにかく手狭で、馬超と馬岱は同じ一族ということもあって同じ幕舎内で寝起きしていた。いつもは馬超が使っている方に腰を下ろした馬岱を、馬超は寝転がったまま眺める。
「お、俺もその…」
「うん?」
「……いる、からな」
「え?」
 言った途端、馬岱がもともと大きな目をこれでもかと見開いているのを見て、後悔したが、もう遅い。
「え、若そんな相手いたの!?うわー、誰!?」
 その上でこの反応。脈などこれっぽっちもない気がする。そもそも、特別視しろ、というのがまずもって難しい話だと思うのだ。こちらが特別に思っていようが、相手にもそれを期待するのは難しいはず。
「………」
「えー教えてよ若ぁ」
 好奇心からか、馬岱がこちらへ近寄ってくる。馬超が寝転がっているところに、視線を合わせるように寝台の横で膝をついて、同じ角度からこちらを見つめてくる。
 そうやって顔が近付いてみて、改めて気付く。馬岱のまつげとか、本当にほんの少し、青みがかった瞳の色だとか、やわらかそうな髪質とか。それから、どこか愛嬌のある笑顔とか。
「……馬岱」
「え、なになに?教えてくれるの?」
 酔いに任せて馬岱の肩をつかむ。ほとんど無理やり、顔を近づけさせた。馬岱は耳打ちでもするのか、と思っている様子だった。つかまれてそのまま、本当にすぐ近くに馬岱の顔があって。
 そのまま、肩をつかんでいた手を首の後ろに滑り込ませる。頭を固定された馬岱が、少し驚いた様子でこちらを見ている。
 一瞬の躊躇があった。完全に流されている。後悔する気がする。じわりと後ろにまわした手のひらに汗をかいた。が、それよりも。
 触れたい、という気持ちの方がたぶん強くて。
 馬超は、そのままほんの少しだけ頭を動かした。それだけで足りる距離だったが、心臓が破裂しそうでもあった。
「わっ…!?」
 何をされるか、気がついただろう馬岱の声を自分の唇でふさいだ。
 本当に一瞬だった気もするし、長かった気もする。
「………」
 ただ、その間馬岱は逃げなかった。
 身体を離した途端、馬岱と目が合う。当然だけれどその瞬間に後悔が押し寄せた。
「す、すまん!!」
「え、う、うん?」
 馬超はまだどこかふわふわした状態の身体を無理やり起き上がらせて、寝台の上で正座する。
 それを、寝台の横で膝をついていた馬岱は見上げるようにして。
「…えーっと、説明、してくれるのかな?若」
 これから叱られるのを待つような体勢の自分を見上げて、どこか苦笑気味の馬岱に、馬超はひたすら弁明を考えようとして、言葉にならずにうなり続ける。
 正座して、拳を握りしめて俯いていれば、ふと馬岱がその手に自分の手のひらを重ねた。
「ごめんごめん、若。無理しなくていいよ!」
 そして、その場にそぐわないくらいの明るい声で言われて。
 いつもいつも、そんな風に馬超が言葉に詰まると馬岱は逃げ道を用意してくれる。今もそうだ。このまま、その逃げ道に駆けこんでしまっていいのか、と考えて。
「…馬岱」
「うん?」
「お、俺は…!」
 それを良しと出来ないまま。
 馬岱をほとんど睨むように見つめて、意を決するように、むしろこれから一騎打ちにでも向かうような顔で、それまでずっと言えずにいた言葉を吐きだした。
 その様子に馬岱は弾けたように笑い出す。ひとしきり笑った頃には、馬超はどうすればいいかわからない気持ちでいたが、そんな馬超に、馬岱がそっと近寄る。
「ありがと、若。嬉しいよ」
 言葉の意味を理解した途端、馬超は顔をあげた。自分の解釈が正しいのか。それがわからないでいれば、ふと馬岱の耳朶が赤いのに気付く。
「……馬岱」
 いいんだろうか、と不安と期待がない交ぜになったまま、手を伸ばす。馬岱はやはり逃げないまま。
 逃げない馬岱を見つめて、確信する。いいんだ、と思うと途端に欲がわいて、馬岱を引き寄せた。身体がふわふわしているのは、身体が熱いのは、酒のせいなんだろうか。そういうことにしておいていいのか、考えながら。

 二度目の口づけは、終わった後二人して笑えた。



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