手の上なら尊敬の
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ぬかった、と馬超は実に不服そうな表情で言った。 馬岱はため息をつきながら腕組みして、馬超の差し出している手を見つめている。 「若、俺みたいに指を保護した方がいいんじゃない?」 馬超の指先――その爪が、剥がれて痛々しいことになっている。 鍛錬の時にうっかり本気になりすぎた、と彼は言っていた。相手をしていたのは趙雲で、目ざとく指から血が出ているのを指摘されたらしい。相手が趙雲や張飛だと今回のように熱くなりやすい彼のこと、きっと痛みなど全く感じもしなかったのだろう。とはいえそのままにされては今後に関わる。 彼が槍を持つようになってから何度も馬岱も言ってきたのだが、どうもその癖は直らない様子だ。 「む…しかしな…」 「まぁ痛いのは若だからね、別に俺はいいけどさ」 第一怪我をしたのならまず最初に自分のところに来るのがおかしい。と思うのだが、ほとんど子供の頃からそうしてきたのだから仕方ない。馬岱も手慣れたものだ。もう一度ため息をつくと、腕組みを解いて差し出された手をとった。処置するためだ。 それに俺はいいけど、と言いながら実際一番気にかけるのも馬岱である。小さな怪我の一つだって放っておけば悪化するし、変な癖がついたりして元通りにならない事だってあるのだ。そういう、小さな事で馬超が戦場で本気を出せない事態になるのは避けたかった。 「いつもすまんな」 「懲りてないくせによく言うよ」 苦笑気味に肩をすくめて、馬岱は処置すると馬超をじっと見つめた。視線が合わさって、馬超は少しだけばつの悪そうな顔をしている。 どうせどれだけ言ったところで無意味で、喉元過ぎればあっという間に元通り。 結局また怪我をして、その都度ぬかった、と言いながら馬岱のもとにやってくる、と。 馬超本人も、馬岱からまたか、という反応をされるとわかっているだろうにこちらに来るところを見ると、他人に触れられたくないのかそれとも単なる習慣か。 おかげでこちらは軽度の怪我の処置ならお手の物だ。そういうところを見られて、諸葛亮からあれこれ頼まれるようになったわけだけれど。 「若、俺もう何度も言ってると思うけどさ」 「…う、うむ…」 馬超を真正面からじっと見据えて言う。怪我した手を両手で覆うように握りしめて、言い聞かせる。 「俺、ほんとこんな小さな怪我で若が今後戦場に立てないとか嫌だからね?」 少し大袈裟だと笑う人もいるかもしれない。だが、彼は錦と呼ばれるほどの人で、その名は自分にとって誇りと共にあるべきものだ。 「大丈夫だ。すぐに治る」 「爪って結構長引くんだからね。ちゃんと治るまで槍持っちゃ駄目だよ」 「……」 それは困るとでも言いたげな馬超の様子に馬岱はハァ、とため息をついた。これみよがしというやつだ。普段笑っている馬岱がそうやってため息をつくと、馬超は途端に居住まいを正す。 「すまん」 いつだって本気で心配しているのだが、馬岱自身もおどけて言っているし、それがすぐに伝わるとは思っていない。ため息をつく瞬間だってもう計算づくでやっている。どう言えば馬超が真剣に反省してくれるのか、とか。 本人にはそれ以上伝えないけれど、馬岱にとっては馬超はいつだって錦と呼ばれたその人だ。 小さな頃から武芸に秀でて、大人があっさりのされるような。 まだ一族が健在で、その頃から馬超は将来有望だと褒めそやされてきた。馬岱もそれをいつも聞いて育ってきて、自身と比べて劣等感を持ったことだってある。だが、その劣等感よりもずっと大きい感情が、ひとつ。 「ま、いいよ。いつものことだもんね」 「…昔」 「うんー?」 「昔にもこうして怪我をして、おまえに泣かれたことがあったな」 「あぁ、はは。だってそれ子供の頃でしょ」 「そうなのだが…」 「第一その時って若ほんとに危なかったじゃない」 馬岱の言葉に馬超は苦虫を噛み潰したような顔をした。昔、まだ馬超が本当に初陣間もない頃。その態度が生意気だ、と身内に強く罵られ、一騎打ちになった事があった。馬超自身も今より断然恐いもの知らずで、それまで負け知らずだったせいでその一騎打ちを受け、あっさり負けた。さすがに熟練の猛者と初陣間もない彼とでは、雲泥の差があったというわけだ。 馬岱も当然ながらそれを見守っていたのだが、あの時は傍目に見ていても命の危険すら感じられるものだった。 若、若、と何度も呼びかけて、慣れない手つきで必死に傷の手当てをしたのも覚えている。 それなのに馬超は何としてもこの遠征に参加すると言い張って、馬岱は最後まで気が気でなかった。正直あまり思い出したくないし、馬超自身もどちらかといえば思い出したくない話だと思っていた。 「ただ、いつも思い出す」 「あの時のこと?」 「あぁ…」 頷く馬超に、そっか、とだけ言って笑う。 あの時馬超は本当に死にそうに見えて、馬岱は必死だった。守らないと!と思っていたけれど結局出来た事といえば馬超の横についているのが精一杯だった気がする。そんな目に遭わされたにも関わらず、馬超は全く戦うことに恐怖を覚えず、怪我をしているとは思えない様子で戦っていた。 むしろあの姿を見た馬岱の方が、戦場を恐いと思った気がする。 そうして、彼自身の汚点のような話はいつしか錦と名前を変えた。あんな事があってもその時の戦いぶりは実に見事だった、と。 「あの時からだろう?こうして馬岱が心配するようになったのは…」 「ああ、そっか。そうかもねぇ」 そう言われてみれば確かにそうだ。しばらく大丈夫?が口癖だった時期もある。ただ、その返答に馬超は一度だって痛いとは言わなかった。幼心に痛みとか感じないのだろうか、と思ったこともある。 (あ、そっか…) ただ、辛そうに歯噛みしている彼を見て、ただ言わないだけだと気がついた。 それに気がついたら、いてもたってもいられなくなって、それこそ泣きながら訴えたのだ。 ――痛いなら痛いって言ってよ。俺には言ってよ!若が辛いの我慢してるの、俺は嫌だよ! 最初はそれでも馬超は何も言おうとしなかった。だが馬岱が泣き出したのを見て、慌てたように言ったのだ。 ――い、痛い、が!俺は大丈夫だ!この程度なんてことは…い、いや。違う。痛いし辛いが…うう。 馬岱が泣きながら見上げてくるのについに根をあげて、馬超はそれこそ仕方ない、といった様子で白状した。 ――痛いし、辛いが、俺がここでこれに屈してしまえば、…皆失望する。馬岱だってそうだろう? 俺はその方が怖い、と。 馬超がそう言った。そこでようやく理解した。小さな頃から周囲は常に期待していた。期待に見合った力も技も磨けば磨くほどその手に馴染んでいった。そうしていつしかそう簡単に負けを認めることができなくなって、どれだけ痛かろうが、立ち上がらずにはいられなくなった。周囲の期待が、その視線が、彼を立ち上がらせる。怖さは、戦場で感じるよりもずっと重かった。 それを聞いて、馬岱はそれこそ怒って、怒鳴りつけた。 ――だから俺にはって言ったじゃない!俺はどんな若だって格好悪いなんて思わないよ!どんな時だって若の味方だよ! だからお願いだから無理しないでよ、と。 そう言ったのだったか。 「…なっつかしいね」 「うむ。…ここに来て、はじめてこういう怪我をしたら、妙にそれが懐かしくてな」 「はは、だから俺のとこ来たの?」 「あぁ」 「若もほんと物好きだよねぇ。俺のとこに来たら、小言つきだってわかってるでしょうに」 「…だが、楽だ」 「……なんかあんまり素直に喜べないよ?」 「だろうな。だが一番安心出来るし、気楽だ。おまえの前なら、何でも言える」 「…はは」 馬超の言葉に、馬岱はくすぐったい気持ちで笑った。 幼い頃、必死に訴えたあの言葉。確かにそれ以降、馬超はいつだって自分に対して本音をぶつけてきてくれた。そしてどんな事を言われても、横にいるのを嫌だと思ったことは一度もない。 馬岱は、ふと握りっぱなしだった馬超の手を見つめた。爪は中指の部分がはがれてしまったのだが、その指を庇うようにして包帯は巻いてある。それこそ慣れたものだ。 「じゃあ若、これ、おまじないね」 「ん?」 言うと、馬岱はそっとその指先に軽い口づけを落とす。 その動作に馬超が身体全体を揺らして驚いた。 「ばっ…馬岱!」 「おまじないよ、二度はないからね?」 笑ってその手を解放すれば、馬超は慌てて引っ込める。 「…俺をからかっているのではないだろうな」 「違うってば!」 疑わしい、とばかりの視線を向けられて、馬岱は肩を竦める。本当か?と何度も問いただしてくる馬超にその都度頷いていれば、ついに信じたのか馬超はその指先をじっと見つめてそうか、とだけ頷く。 そうして、どうするかと思えば。 まるで大切なもののように、同じ箇所に自分の唇を押しあてた。 「…よし」 「………」 その動作に、馬岱は妙にうろたえた。その一瞬に、僅かに微笑んだように見えたからだろうか。ひどく恥ずかしいものを見たような気すらした。 「今度、馬岱が怪我した時は俺もそのおまじないをやってやる」 「…俺は怪我、しないよー?」 「む…」 酷く恥ずかしくて、馬岱はそれを誤魔化すように言った。 ただでさえ、今だって妙に意識してしまっているのに、その上本人にそんなことをされたらどうなるか。 ――いや、そもそもどうなるも何もないはずなのだけれど。 今からでも伝えるべきだろうか。ちょっとした悪戯心でやったことだ、と。だがなんとなくそれを言うのも憚られて、馬岱は口を閉ざした。 とりあえず、怪我しなければいいんだし、と思いつつ。 だが、この一件で多少集中力に欠けた馬岱が、唐突にすっ転んで馬超がまじないだ!と騒いだのは、また別の話。 |
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グリルパルツァー。 |