クアッドリリオンの蝶 1




 この世界はおかしなことが多すぎて、今さら何が起こったところで驚きはしない。
 そもそもが遠呂智の作ったこの世界のこと。地のあちこちが割れて赤黒い地表が見えていようとも、その人ではない者たちがどこからともなく溢れ出してこようとも、人はそれに順応出来た。

「おーい」

 ある日のことだ。馬岱が頼まれた仕事を終えて戻ってくると、かぐやが一人、なんだかひどく眠そうにしているのを見かけた。
 周囲には誰もおらず、それもまた珍しかった。人当たりがよくて、優しい眼差しの彼女はいつも周囲に誰かしらがいるのが常だ。特に今のように普段と違う様子ならば、誰かがいて然るべきだった。
 だが、その時は誰もいなくて。
「大丈夫かい?こんなとこで寝てると風邪ひいちゃうよ?」
 そんな珍しい状況に、馬岱はごく自然に近寄った。
 その細い肩をそっと揺さぶってみると、かぐやはようやくこちらのことに気がついたようだった。
「あ…馬岱様…」
「大丈夫?」
 仙人が風邪をひいたりするかどうかはわからないし、人のような明確な休息が必要なのかを馬岱はよく知らない。ただ、この本拠地内にいる仙人たちは、皆人と変わりなく過ごしている。だからこそ、馬岱も人と変わらず接した。
「は、はい。申し訳ありません。お見苦しいところを…」
「いや、いいんだよ。でも疲れてるなら、ちゃんと休まないと」
 馬岱の言葉に、かぐやは素直に頷いた。馬岱が手を差し伸べるのを、素直に受け止めて手をとると、立ちあがる。身体の芯にまだ眠気が残っているのだろう。少しふらふらしていた。
「…最近、なんだかとても…気がついたら、寝ているようで」
「ほらやっぱり疲れてるんだよ。だったらちゃんとしたところで寝ないと余計疲れちゃうからね」
 馬岱に手をひかれて、かぐやはどこか夢心地なままついていく。その足取りが本当にふらふらと、まるで酔っ払いのそれのようで、馬岱はほんの少し表情を引き締めた。もしかして身体のどこかが不調で、睡眠を欲しているのではないか、なんて思いながら。
 こういう時は、誰の手を借りるのが一番いいだろうか。仙人ならやはり仙人に任せるのがいいか、なんて思って、ひとまずかぐやのためにわざわざ割り当てられた幕舎へ送ったら、太公望あたりに相談しよう、と思っていた時だった。
「ほら、あとちょっと!」
 幕舎へ近づくにつれて、かぐやの足取りはいよいよ心もとなくなっていった。
 手をひくだけだった馬岱も、かぐやの身体を支えるようにして歩くようになっている。元気づけるように、その小さな身体に声をかければ、かぐやはこくりと頷いた。
「も…申し訳、…」
 ありません、と呟く声はどこか儚かった。
 そして馬岱はもう抱き上げてしまおうか、と考えた瞬間。
 ぴしっと、脳に走る稲光のようなものに眉間に皺を寄せた。
「……っ、と」
 痛いというのとは違う。ただ、閃くように一瞬、視界を奪われる。一体何なのかわからず、馬岱は双眸を瞬いて周囲を見渡した。おかしなところは何もない。空を見上げてもいつもと変わらない。なのに、まるで雷光が走ったように、周囲の景色がとんだ。白に。
 幕舎につくまでの間、それが数回あった。そのたび、馬岱の足は止まったり、よろめいたり。それこそ、かぐやの身体を支えるのもままならない。その状態ではかぐやを抱き上げることも出来なくて、ふらふら、ふらふら。数歩いっては起こる雷光に歯を食いしばって、どうにかかぐやの幕舎についた頃には、馬岱も異常な疲れを感じていた。
「……大丈夫?」
「はい…馬岱様、も」
「…うん、俺も、なんか変だなぁ。ちょっと、少しそこらへんで休んだら、誰か連れてくるから。寝てていいよ。安心して」
 それでもかぐやに心配かけないように笑いかける。
「ごめんなさい…」
「かぐやちゃんが謝ることなんて、ないよー。ほら、寝て」
「ごめんなさい…」
 もう一度。
 何度も何度も繰り返し言われて、馬岱はそれを少し不思議に思いながら、眠りに就かせる。
 横になってしまえば、本当にすぐ、かぐやは眠ってしまった。
 残された馬岱は、やれやれとため息をつくと立ちあがった。途端、また稲光が走ってその視界を眩ませる。
「………」
 その光が視界を真っ白に飛ばすたび、馬岱は酷く眉間に皺を寄せていた。ただそれだけなのだが、それだけでも十分、支障が出る。一体何が原因かもわからない。馬岱は首を傾げながら数歩歩いてはその光に悩まされた。太公望がいるところまで行きたいというのに、これはずいぶん苦労しそうだ。
 誰か通りかかってくれればいい、と思うのだが、普段はいつもどこかで人がざわめいているこの本拠地内は、妙に静かでなかなか誰かと行き合うこともなさそうだった。
 光に視界を奪われて、その視界が元に戻るまでは少しかかる。その都度、足を止めて瞼を閉じた。
 痛みがあるわけではない。ただ光に目が眩むだけ。だが、それが何度も続けば、苛立ちと奇妙な疲労で、馬岱の足取りは先ほどのかぐやのようになっていた。
 まさか、と考える。
 かぐやもこの光に悩まされている可能性はあるのか。だが、そうだとして、なぜそれが自分に?なんて考えていた時だった。足元の小さな石に気付かずに体勢を崩した。
「わっ」
 無様に転がった。そこから、身体がまともに動かない。
「ちょ…い、これ…やばいって…」
 呻いた馬岱は、何とかして立ちあがると近くの幕舎に転がりこんだ。そこにはちょうど兼続と左近が何かしら話していたようで、入口に誰かいる、と気付いて二人とも振り返った。
「…馬岱さん?どうしました?」
 様子がおかしいのは、すぐに気付いたのだろう。兼続も左近もすぐに近寄ってくる。馬岱は、人を選んでいる場合ではなかったから、とにかく言うだけ言った。
「ごめん、ちょっと寝かせてくれないかな?」
 言うが早いか、馬岱はそのままふらつく足取りで寝台まで辿りつき、そのまま二人の許可もなしに転がった。
「…馬岱殿、どうしたのだ」
 その様子に兼続が声をかける。とにかく身体の不調でもあるのか。そう思った二人が馬岱を覗き込めば、馬岱は思い出したように、言った。
「悪いけど、太公望殿にさ…かぐやちゃんが呼んでるって…」
 最後までは言葉にならず、気がつけば馬岱は寝息を立て始めた。そんな極限まで眠かったというのだろうか。よくわからず二人は首を傾げる。唐突に入ってきて寝台、この場合左近のものだったが、それを奪われたのもどうでもよくなるほど、馬岱は昏々と眠っていた。


 眠っている間、不思議な夢を見た。
 ああ、これ夢だな、とまず最初にそう思う。何せ自分たちは今、遠呂智の創った世界にいるのだ。
 だから、そこは夢だった。たとえ肌に触れる空気が現実味を帯びていたとしても。
 これは夢だ。
「若」
 そう、これは夢だ。
 馬岱はそこに、一人だった。
 目の前には墓があり、そこに、自分は、まるでそこに馬超本人がいるように、話しかけている。
「見ててね」
 その声はやけに明るかった。やけに明るいのに、心をどこかに置いてきたような、無理をしている声で、その墓に話しかける。
 何を言っているんだろう、と。
 夢の中、馬岱はそう思った。墓に話しかけているのは明らかに自分で、その墓をまるで馬超のように、話すのも自分なのだけれど。
 そんなわけがない。だって馬超は生きている。遠呂智の創ったあの世界で生きている。じゃあ一体ここは何だろう。空を振り仰げば星の輝く夜だった。他に誰もいない。地を眺めても、剥きだした赤黒い土は見えない。ただただ、静かで何の異変もない夜だ。
 そんな時間に自分は、一人でここに来ている。
 一体、何のためにそんなことをしているのだろう。そもそも、どうしてこんな。
 じりじりと、じわじわと、感じているのは何だろう。胸に迫るその感覚は何なのだろう。
 なんで、こんなに。
「ちゃんと、生き延びる」
 指先が、気がつけば震えていた。それを強く握りしめる。
「若の分まで」
 怖い。
 どうしてだろう。どうしてこんなに、今、一人だ、と。
 そう思うんだろう。
 ホウ徳も、馬超も、生きているはずだ。馬岱と共に。あの本拠地にいる。馬超に助けてもらったのだ。なのに夢の中、自分は酷い孤独に苛まれて、どうして一人で震えているんだろう。
 なんで、こんな風に墓に話しかけなればならないのか。
 わからないまま、馬岱は知っていた。
 ホウ徳が、魏に降ってしばらく。関羽との戦いで倒されたこと。この世に、もういないこと。
 そして馬超も。
 ここに、こうして、眠っている。
 馬岱は途方に暮れた。目の前の墓。それは間違いない。知っている。それは馬超のものだ。病を得て、ついに治らずに息を引き取った。そしてそこに建てられたものだ。だから、自分はもう一人だ。西涼を駆けた日々、あの日々を知る人はもういない。ただただ、自分しか。
 でも、これ、夢でしょ?
 振り仰ぐ。誰もいない。星はいつだって綺麗だ。そう、夜空に浮かぶ星は、あの遠呂智の創った世界でも同じだった。空の色がどれだけ赤くとも、夜になれば月はのぼった。その月の色がおかしかったとしても、月は変わらず満ち欠けした。

 どっちが、夢だ。

 答える者はそこにはいない。
 背筋が、泡立つのを感じた。
 どうやったら、この夢は醒める?
 何もわからないまま、馬岱はこの状態から乖離されている自分の精神に不安を覚えた。話す言葉は確かに自分自身が言っているのに、まるで違う知識が埋め込まれていて、今に順応できない。
 それなのに、言葉は、自分の精神とは全く関係なく、まるで当たり前のように紡がれる。予定調和だ、とでも言いたげに。
 違うはずなのに。
 ここは夢で、早く目覚めなければいけない。
 そうして、早く太公望にかぐやの状態を診てもらわなければ――。

 焦る心が、指先の震えを加速させていた。



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