自分の勘というのは本当に頼りないものだ。もっと何もかもを見通せれば違うのかもしれないが、なかなかそうはいかない。言葉にはうまく出来ないし。
昨日のことである。
ラグビーのとあるチームが優勝を果たした。それの記念パレードが行われる、ということで、交通課は出動要請がかかった。当然ながら、その先頭を警護するのは張遼の乗る白バイ隊である。
「交通課の手伝い?」
人が足りない、というのが理由のひとつだった。捜査一課も決して暇なわけではないはずなのだが、うまい具合にぽっかりと手があく時期というのもあるもので、それが今まさにそのパレードの時期とかぶったのだった。
「これがパレードに使用される公道の地図だが」
そして、交通課にいやいやながらも顔を出してみれば、これまたちょうど良い具合に、李典的な意味でいえば最悪のタイミングで、張遼が珍しく交通課にいたのである。
「当日はかなりの混雑が予想される。また、一人人気のラガーマンがいるとのことだ」
「あー、それ俺知ってるぜ。最近CMとかにも出てる奴だろ」
「左様。かなり熱烈なファンがいるらしい。注意されたい」
「俺はどうせ、どっかで交通整理だろ。そこはあんたの仕事じゃないのか?」
「無論。だが、こういった情報は共用すべきであろう」
「…ま、な…」
相変わらず、ストイックに仕事を進めていく男である。今もおそらくここに残っていたということは、書類仕事を終わらせるべくデスクにかじりついていたのだろう。にも関わらず、上司に言われたとおりにやってきた李典に、パレードの概要をさっと説明している。
「しっかし、わざわざ捜査一課まで狩り出すとはな。どんだけ人材不足なんだ?」
「捜査一課もいつも人が足らぬと言っていたはずだが?」
さらりと皮肉を皮肉で返されて、李典はチッと舌打ちした。
「ところでさ」
「なんだ」
「その人気のラガーマンってやつ。俺の友達なんだけど」
「ほう?」
「あ、信じてねぇな」
「いいや」
「俺今回のパレードちょっと嫌な予感するんだよなぁ…」
李典のその言葉に、張遼が鋭い視線を向けてきた。それまで全くこちらを凝視しようともしなかっただけに、李典は思わず姿勢を正す。
「それはどういう?」
「い…いや…、説明は、できねぇけど」
「…左様か」
「し、仕方ねぇだろ! 俺の勘なんて大したもんじゃねぇんだ!」
何故だか、幻滅されるのが怖くて、慌てて叫んだ。交通課の人間が、一斉に二人を注目したことが、余計に李典をパニックに追い込む。
「しかしそれでは対処のしようもない」
「わ、わかってんだよ。そんなん…」
ぶつぶつと文句を言いながら俯く。本当に、そんなことは嫌でもわかっていることだった。これまでの人生、何度それで嫌な思いをしたことか。何がどう嫌な予感なのかがわからないことを、一番苦しんでいるのは自分なのだ。
「ち、楽進だったらすぐ信用してくれるのによ…」
「左様か」
どんなに言っても、張遼の態度は少しも変わらない。わかっているのだ。張遼は仕事だし、楽進は親友だ。その上で、立場の違いがあること。とはいえ、万が一にも張遼と親友になっても、彼が自分の言を信じてくれるとは到底思えないが。
「どうせあんた、自分で何とかできると思ってんだろ」
「まさか」
「いいや! あんたのことだ、絶対そう思ってるね!」
「…貴殿は」
「な、なんだよ」
「信じてもらいたいのか、信じないと決め付けたいのか、どちらか?」
その言葉に、李典は絶句した。何も言えない。言葉も出てこない。
「以前より、気になっていたのだが」
「な、なにが」
「感情の起伏が激しい」
まったくもって張遼の言う通りで、李典は口をぱくぱくさせた。どうすればいいのかさっぱりわからない。何とか、言い訳めいたことを言えるようになるのに、ゆうに一分以上を必要とした。
「お、俺だってな…べ、別に、他の皆にこうってわけじゃ…」
言いかけて、だがそこでハッとする。それでは今目の前にいる張遼だけが特別みたいなことになってしまう。実際その通りなのだが、李典はそれを全力で否定しなければならなかった。それには理由があるのだ。
「べ、別におまえが特別とかそういう意味じゃねぇからな! お、俺は別に…その、たまたま…あんたが、俺にきつい…い、いやそうじゃないな。そうじゃない。け、けど! あんたが、その」
すっかりしどろもどろで、言葉はうまく紡げない。そうしていれば、張遼は大きくため息をついて、席をはずした。無言である。
残された李典はといえば、さてどうすればいいかわからず、しばらく動けなかった。呆れられた、と思ったら途端に、自分の身体の上に、ずっしりと重い石が乗ったかのようで。
(マジかよ…俺…)
畜生、と小さく呟いた。なんでこんなことで目の前が真っ暗になってしまうのか。どうしてこんなに気持ちが塞ぎこんでしまうのか、自分で自分が理解できない。よりによって張遼相手に!
そう思っていたところで、人の気配を感じた。
おそるおそる顔を上げれば、そこにはいつの間にか張遼が戻ってきていた。
「これを」
「……俺、ブラック嫌なんだよな」
差し出されたそれは、ブラックの缶コーヒーだった。嫌いだと思い込んでいる相手から渡されたものが苦手なブラックコーヒーなことに、思わず肩の力が抜ける。
「あー…いや、違う。…その、ち、張遼」
「何か?」
「あ、ありがたくいただいとく…」
「うむ。頭が冴える」
言われて、李典はそろそろとその缶コーヒーのプルタブに手をかける。独特の音がして、ブラックコーヒー独特の濃い匂いが広がった。いつもならば飲めないそれを、口につけてみる。途端に、慣れない酸味と苦味で、李典は顔をしかめた。
「……」
思わず舌を出して苦い、と呟きそうになったがそれを抑えた。
その苦さを噛み締めて、二度と口にすまいと思いながら、もう一度。同じように酸味が広がる。
そして、ふと李典は気付いてしまうのだった。
もらったそれを大事に飲んでいる自分に。嫌いだな、苦いなと思いながら、それでも口をつけることをやめない自分に。
指先が、すぅと冷えていくようだった。気付かないでいいことに、気付かされた。一生気付く必要のなかったはずの言葉だ。まさかこんな風に気付かされるとも思わなかった。
李典はそう考えながら、なおもコーヒーをちびちびと飲んでいく。これを最後まで飲みきったら、何か変わるだろうか? あってはいけないはずの感情をもてあまして、李典は舌の上に広がる酸味に痺れを感じた。
「…嫌いなのでは?」
「…ああ、嫌いだよ」
無理に飲んでいると思ったらしい張遼が首を傾げる。李典は、自分がどんな表情をしているかわからないまま、そう呟いた。
そう、嫌いだよ。
それは、自分の舌で転がすにはあんまり苦くて、何だか泣きたい気分だった。
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