一つの大きな戦の終止符が打たれた。 連日の戦続きで、三成は政務に追われ忙しい毎日を送っていた。 しかし、それは嬉しい悲鳴でもあった。 豊臣政権の磐石は間違いなく確かなものになりつつあったのだ。 秀吉様の天下まで、あと少し― そう思うだけで、三成の筆は難なく進む、はずだった。 あれは、何だ。 戦場で見た、あの紅い残像。 躍動的に動くのに、どこか儚げで。 あの横顔を見て、この世のものではない美しさを感じた。 名は…そうだ、確か『真田幸村』 「…何を考えているんだ、俺は。」 相手は、男だぞ。 「馬鹿馬鹿しい。」 「何が“馬鹿馬鹿しい”んです?」 突然声を掛けられ、心の臓が飛び出しそうな程の驚きを隠しきれなかった。 目の前には、自分より随分体格の良い男が立っている。 「入る前に声ぐらいかけろ」 「何度もかけたじゃないですか。返事もないから、こうやって心配して入ってきたのに。」 左近は大袈裟に溜息をつくと、その場にしゃがみ込んで三成と視線を合わせた。 「そろそろ時間ですよ。」 「あ…」 忘れていたとは口が裂けても言えない。 今日は登城して、先の戦の恩賞を諸大名に配る日であった。 「まさか忘れ…」 「忘れてなどいない。今から用意しようとしていたところだ。…すぐ済むから。」 はいはい、と左近は部屋から出た。 もちろん左近にはお見通しであったが。禄を配り終えた後、秀吉は宴を開いた。 諸大名を労い、働かせる、秀吉の上手いやり方であった。 しかし、その場に列席する者の中には、三成に対してよく思わない者たちも含まれている。 秀吉が退席すれば、話題は決まって三成のこと。 嫌われたものだ。 聞こえないように話しているつもりか、それともわざと聞こえるように話しているのか。 残念なことに三成は地獄耳だった。 三成は辺りを一瞥すると、その場を退席した。 「また眉間に皺が寄ってる。癖になりますよ?」 屋敷に戻った三成の形相に、誰一人声を掛けることができなかった。 見兼ねた左近は、いつもの調子で声をかけた。 三成は左近を睨んでいるだけで何も言わない。 「また何か言われたんですか。別に気に留めなくても…」 「気になどしていない。」 所詮はクズ共の戯言。 そんなことをいちいち気になどしていられない。 もともと考えの合わぬ者に、分れというのもお互いに無理だろう。 ならば無駄な努力などする必要がない。 左近は、何を言っても駄目だと悟ったのか、苦笑しながら立ち上がった。 が、部屋を出ようとした、その足を急に止めて。 「もっと笑えばいいでしょう?」 それだけ言うと、左近は部屋を出ていった。 そんなこと、言われなくても分かっている。 三成は暫く左近の出て行った方を見つめていた。 あれから数日後。 左近はいつものように情報収集へと出掛けようと屋敷を出たところであった。 見たことのある男が、目の前を歩いていた。 あれは― 「幸村?」 左近が声をかけると、“幸村”と呼ばれた男は振り返った。 「左近殿!お久しぶりです。」 幸村は左近を認めると、すぐに笑顔になって近づいてきた。 「先の戦では、世話になったな。」 「いいえ、こちらこそお引き立てありがとうございました。」 幸村はそう言うと、深々とお辞儀をした。 この態度が、あの不器用な主人にもあればな。 左近は思わず苦笑した。 「そういえば、今日はどうしてこんなところに?」 戦の後、真田隊はすぐに上田へ引き返したと聞いていた。 それなのに、その大将がこんなところにいるのは不自然である。 「上田へ帰っているところだったのですが、どうしても石田三成殿にお礼が言いたかったので。無理を言って私だけ戻ってこさせていただいたのです。」 「礼?」 文句を言う武将は多いが、礼を言いたい奴がいるとは。 「はい。先の戦が終了してすぐに、戦の礼だと贈り物をしてくださったのです。」 これを聞いて驚いたのは左近の方だった。 あの主人が? 確かに今真田と結んでおくことは得策だろう。 しかし、それにしてもまだ時期尚早… 「大変丁寧な手紙もついておりました。私も返事をしようと思ったのですが、やはり直接お礼が言いたかったので。」 無邪気にそう語る幸村の傍らで、左近は何となく合点がいき始めた。 政治的なものではなく、私事だ。 左近は面白くなってつい聞いてしまった。 「手紙には、何と?」 「『今度茶席に招待したいから、是非また大阪に来てくれ』と。」 やっぱり。 左近は笑い転げたいくらいの気持ちを必死に抑えた。 あの人嫌いの殿が、『茶席に招待したい』? 成程、あの時、考え込んでいたのは“これ”か。 左近はついに耐え切れずに吹き出した。 「左近殿?」 幸村は自分が何かおかしなことを言ったのかと困惑気味で尋ねる。 「いや、すまない。すぐに行ってやってくれ。」 「あ、はい!」 そう聞くと、幸村は再び笑顔を取り戻し、一礼してその場を去っていった。 これは、面白いことになるかもしれない。 生きてきて、こんな緊張感を抱いたことは一度もない。 しかも何の準備もできていない。 まさか、本当に来るとは思っていなかった。 廊下を足早で歩いていく。 一度深呼吸をして、そっと襖を開ける。 「すまない、待たせたな。」 三成が声をかけ、来客を見遣る。 その男は、背を正して正座していた。 「石田殿!先日は私のようなものに、あのような素晴らしい品をお届けくださり、誠に痛み入ります。」 そう言って、幸村は深々と頭を下げた。 戦場で見た時の顔より、幾分あどけなさが残っているように見える。 けれど、笑っているその顔は変わらず美しい、と思う。 それから、随分長い間他愛もない会話を続けた。 いつもなら時間の無駄だと相手にもしないような話。 幸村となら何一つ無駄なこと等ないように思えた。 丁度、茶でも飲まないかと茶室へ移った時だった。 「三成殿は良君なのですね。」 突然そう言われ、三成は分からないというような顔をしてみせた。 「私のような者にこのように手厚く振る舞ってくださいましたし。初めてこんなにお話しするのに、とても親しくしてくださいました。」 「…気にするな。」 「三成殿はお優しい人ですね。」 幸村は穏やかに笑みを浮かべる。 ―胸が高鳴った― 何だ、何なんだこの気持ちは。 幸村が笑いかけてくれる。 俺だけの為に、笑ってくれる。 あぁ、そうか。 これが― 左近は町で仕入れた情報を持って三成の屋敷に向かっていた。 「あ、左近殿!」 聞き覚えのある声が正面からやってくる。 どうやら相手も今帰りらしい。 「どうだった?うちの殿は。」 左近はニヤニヤ笑いながら尋ねた。 「とてもお優しい方で、本当に親切にしていただきました。それから、」 幸村は今日あったことを逐一思い出している様子であったが、急に笑んで、こう言った。 「時々、とても穏やかに笑われる時があるのです。あまり綺麗にお笑いになるので、思わず見とれてしまいました。」 幸村は照れたように頭を掻いた。 それは幸村だから見られた顔なのだろうと左近は思った。 今の言葉、主人が聞けばどんなに喜んだことだろうか。 幸村が見たという“穏やかに笑う三成”を想像して、左近は思わず笑ってしまった。 「で、これから帰るのか?」 「いえ、三成殿が“少しゆっくりしていくといい”とおっしゃってくださいまして。宿までご用意してくださったのです。」 それはまたご苦労なこった。 もはや苦笑するしかないと、左近は心中で嘆息した。 「随分楽しかったそうじゃないですか。」 一通りの報告を終え、左近はそう切り出した。 三成の筆を進める手が一瞬止まる。 「で?好きなんですか?」 「…どういう意味だ。」 「幸村に懸想してるんですかって聞いてるんですよ。」 筆先の墨が一滴、書状に落ちる。 三成は筆を静かに置くと、墨の落ちた書状をぐちゃぐちゃに丸めた。 「…いけないか?」 笑いたければ、笑えばいい。 軽蔑されても構わない。 何をしていても幸村のことが頭から離れないのに、どうしろというんだ。 左近はふっと笑みを零す。 「いけないことはないですよ。あいつは素直で真面目が取り柄の男ですからね。」 殿が好きそうな人柄でしょう?と付け足した。 それだけじゃない。 「幸村は、俺のことを何か言っていたか?」 気持ちを悟られてはいまいか、嫌がられてはいまいか。 そんなことばかり考えてしまう。 「殿が笑う顔が綺麗だと言ってましたよ。やればできるじゃないですか。」 左近はそれだけ言うと、ひらひら手を振って去っていった。 そんなことを言われて、意識しない奴などいるのだろうか。 それからの日々は1日がとても早く過ぎていった。 幸村に何か伝えなければと、毎日毎日会話をするのに、何も伝えられなかった。 気づけば、幸村が上田に帰る日は明日へと迫っていた。 今日こそ、幸村に伝えなければ。 そう意気込んで幸村の前へとやってきたものの、案の定何も言うことできない。 いつも通りの他愛ない会話。 思えば、こんな会話ができることですら奇蹟に近い。 話はいつしか戦の話になっていた。 「今度領内でまた何かありましたら、すぐに駆けつけますね。」 そう言って、幸村は穏やかに微笑んだ。 「領内か…」 今は、表面上何もないように見える国も、いつかは綻びが出る。 そしてかつての仲間同士が争いを起こす。 くだらない、争い。 不意に、幸村が三成の手をとった。 「三成殿、心配ないですよ。」 幸村は変わらず静かに微笑んでいる。 何も知らないお前は、そっと傍に寄り添って、俺の手を握っていてくれる。 今、ここでもし、お前に“好きだ”と伝えたら、お前はどんな顔をするのだろう。 三成は、開きかけた口を再び真一に結んだ。 この気持ちを伝えたら、お前はどうする? 俺の前からいなくなるのか? 無理だ、できるはずがない。 そうだ。 こうやって傍にいられるだけでいい。 これ以上望むことなんてない。 それなのに― 手を伸ばせば、きっと届くに違いない。 お前の頬に触れて、そっと引き寄せたら、きつく抱き締めて― そんなこと、許されるはずがない。 それでも。 「幸村」 「はい?」 「…好きだ…」 場が、凍ったように感じた。 「今、何と…」 「…好きだ…幸村、お前のことが、好きなんだ…」 おそらく、幸村はひどく困惑した顔をしていたことだろう。 三成は幸村の顔をまともに見ることができなかった。 「あの…」 嫌われた、おそらく。 分かっていたのに、失ったと思うとこんなにも、辛い。 「すまない。今のは、忘れてくれ。」 「三成殿…!」 幸村の制止も聞かず、三成は逃げるようにその場を去った。 言ってしまった。 言わなければ、こんなことにはならなかった。 失望された、絶対に。 三成の周りには丸められた書状が無数に転がっている。 もうすぐ筆をも折る勢いである。 「幸村…」 あの時、何故気持ちを伝えてしまったのだろうか。 しかし。 お前がもし俺の前からいなくなったとしても、俺はきっとお前を愛している。 誰から嫌われようと、そんなことは関係ない。 お前を愛している俺が存在していれば、それでいい。 お前の全てを受け入れられる俺であればいい。 明日、お前に俺が見えなくなったとしても。 幸村が上田へと経つ時刻になっても、幸村の前に三成は現れなかった。 このまま帰った方がいいのだろうか。 幸村は首を横に振った。 伝えなければ。 あの方は、伝えてくれたのだから。 幸村は、三成の屋敷前まで急いで駆けた。 程なくして、三成が顔を出した。 「良かった、いらっしゃった。」 何故、そんな風に笑える? 昨日のことは本当になかったことになってしまったのだろうか。 幸村は、暫く世話になったことに礼を言ったりしていた。 三成の耳にはほとんど入っていなかったが。 「あと…」 「?」 「昨日は、その、突然のことで驚いてしまって…」 きた。 いや、早くに言われておいた方が、傷が癒えるのも早いのだろうか。 「三成殿が私に親しくしてくださったこと、本当にとても嬉しかったのです。こんなに、誰かのことで胸がいっぱいになったのは初めてです。」 幸村はそっと三成の手をとる。 「三成殿が笑顔が、とても眩しくて。いつしか貴方のことが忘れられなくなりました。」 ?それは… 「あの、昨日すぐにお返事できたら良かったものを、今まで言うことができず本当に申し訳ありません
でした。…私も三成ど…」 「待て。」 今なら、きっと上手くいく。 だから― 「俺にもう一度言わせてくれ。…幸村、お前のことが、好きだ。」 「はい!お慕いしております、三成殿。」 二人は静かに笑いあった。 幸村が上田に帰ってからは、今何をしているのか、今度はいつこちらへやってくるのか、今度会えたら何をして幸村を喜ばせてやろうか、そんなことばかり考えている。 この繋いだ手を離す日が来ないように。 ただただそればかりを願う。 そして、幸村が俺だけを見てくれることを、こんなにも願っている。 この世は戦国。 しかし、たとえ確証のない未来であっても、幸村と共に歩んでいきたい。 共に歩むことを、許してほしい。 愛している、幸村。
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