聴こえない星の歌




 三増峠で、氏康の息子たちが信玄に追撃して軽くいなされた時の事だ。
 氏康は行ってこい、と信玄を送り出した後に、ちょっと待てと声をかけた。
「何かね」
 振り返った信玄に氏康はチッと舌打ちして、言った。
「おい、あの真田の小僧んとこに連れてけ」
「幸村かね?相模の獅子にぎったんぎったんにやられて今頃泣いてるんじゃないかのぅ〜」
「むしろこっちがぎったんぎったんにされたんだよ。いいから連れてけ。駄目なら連れてこい」
 氏康と信玄がしばしそうやって睨みあった末、信玄が折れて陣中の幸村のところへ氏康を連れていったのは、そろそろ東の空に一番星が輝き始めるかもしれないくらいだった。
 相模の獅子、北条氏康が武田の陣中を歩けば、目立って当然だ。ざわめく周囲を無視して歩く氏康の前に、ようやく幸村の姿が映った。周囲にはくのいち、そして左近も一緒だ。
 幸村は氏康との一騎打ちで負けて、腕を負傷していた。信玄と氏康の姿を見つけると、幸村は手当ての途中にも関わらず立ち上がる。
「お館様!」
「幸村、相模の獅子が用があるっていうから、連れてきてやったよ」
「…え?」
 まともに会話を交わしたことなどほとんどない相手だ。せいぜい敵同士で戦うくらい。氏康は咥えていた煙管もそのままに、幸村に近寄ると、ぐっと強く握った拳を幸村の頭めがけて叩きつけた。
 ごん、という音がして、周囲が一瞬シン、と静まりかえる。
「…っ」
 やられた方も痛いとかなんとか言える状況ではない。一体何が起こったかわからないまま、氏康を見上げようとすれば、すぐ近くに氏康が迫っていた。
「おぅ、真田幸村。てめぇはさっきの戦、死ぬ気だったな?」
 氏康が、幸村の頭を上から掴んで逸らせないようにしている。そもそも氏康の迫力に気圧されてしまっている幸村は、逃げようにも身体が固まってしまっていた。
「わかってんのかてめぇは。あのうさんくさい野郎が戦ってんのはおまえらみてぇな奴の為だ。俺ァな、お館様の為とか言われんのが一等嫌いなんだ。そういう心構えの奴ァ、目でわかる。テメェは信玄とこで何教わった!」
「…そ、れは…」
 幸村は何も言えないでいた。くのいちも左近も、氏康の迫力に負けて何も言えない。どれだけそうしていたか、信玄が笑いながら場をとりなした。
「氏康よ、それじゃあ幸村、怖がって何も言えんのぅ」
「んなタマかよ。ったくてめぇはもっとこいつらをちゃんと見てやれってんだ」
「そうじゃのぅ。その為には、早く王道をこの世に敷かねばのぅ」
「それまでに、こいつらのうちの一人でも欠けてたら、獅子が咽喉元噛みつくぜ」
「肝に命じるよ」
 信玄は笑って頷いた。氏康はそれだけで、じゃあなと言い置いて一人で武田の陣中を歩いていく。ほんの少し前まで戦って、北条は一応勝利をおさめている。この中で一人歩くのは、危険だったが武田軍の誰も、氏康に飛びかかろうとはしなかった。どころか、氏康が歩く先を皆が開けていく。
「面白いのう相模の獅子は。幸村、大丈夫かね」
「…あ、はい。…その…大丈夫です」
「なんじゃなんじゃ、左近もくのいちも幸村も、なんでそんなうるうるしちゃってるのかね」
 信玄の言葉に、左近は肩を竦めた。その目は確かに信玄が言うように、ほんの少し潤んでいる。
 くのいちや幸村に比べればだいぶ年も上の左近だ。それがこんな風になるのは珍しい。いや、ほぼ初めてだった。
「恥ずかしながら、すごいと思ったんですよ」
 左近の言葉に、信玄は笑う。
「そうじゃろそうじゃろ」
「もー、格好良すぎですよぅ…」
 くのいちが涙を拭いながら笑った。白い肌に目の周りが赤く腫れていて痛々しかった。幸村は俯いたきりだ。たぶんその目も濡れているに違いない。
 氏康が、大切な人を守る為の戦いをしている事は知っている。天下をとる気がない事も、少し前から知っていた。だからこそ、相模―――北条領をとるのは難しいとも気付いていた。無理にとったところで、おそらく領民たちとの争いが勃発する。それくらい、氏康は民に好かれ、兵士に好かれ、部下たちに愛されている。学ぶところが多いね、と信玄が呟けば、くのいちが言った。
「格好良いってのはお館様ですからねっ」
「おや、そうじゃったかね」
「そうですよ」
 信玄が肩を揺らして笑う。気づかないんだろうな、とその場の三人は三人とも思った。氏康は、人を大切にしない相手を認めたりはしない。その氏康が認めた信玄だ。あんな簡単に、氏康にこたえられる信玄だ。
 この人の下にいて良かった、と、こんなに思うことなんてない。
「若い子にそう言われるのは照れるのぅ」
 がははと笑う信玄は、しかしそんな気持ちに気付いているのかいないのか。
「あの男のもとにいる奴は、幸せじゃな」
 ぽつりと呟いた言葉に、幸村が顔を上げた。

「私はお館様のもとにいて、幸せです!」

 信玄はその勢いに、思わずぽかんと口を開けて驚いた。何か今ムキになるところじゃったかのぅ、とは思ったが言うのはやめた。幸村が本気なのに気がついたからだ。そうしていれば、くのいちが続く。
「あたしも、幸せですよっ。お館様っ」
「なんじゃなんじゃ。照れちゃうのぅ」
「たまにはいいんじゃないですか。照れる信玄公ってのも、なかなか見られないですよ」
「そうかね?じゃあワシも照れちゃうような事、言っちゃおうかの」
 信玄は、左近と幸村、そしてくのいちを軍配で手招きした。三人が近寄ったがまだ遠い、と三人をさらに呼び寄せる。出来上がった形はほとんど円陣のような状態だ。
 四人でこんな風になった事などほとんどない。それぞれはそれぞれで困惑していたが、そんな中で、信玄が言った。

「ワシも、おぬしらがいて幸せじゃよ」

 途端に左近が、くくっと笑った。
「みんなに聞こえるように言いましょうよ?」
「この年になると慎ましくなってしまってな。王道敷いたら、みんなに言ってみるよ」
 信玄の言葉に続いてくのいちが笑う。
「じゃあ頑張らないとですよね〜」
「勝ちましょう」
「織田信長何する者ぞ、ってね。…楽しみですよ」
 次第に円陣の中での笑い声は大きくなっていった。戦の後の独特の倦怠感はどこにもなくて、勝ち戦の時のような高揚感でもなくて。

 その笑い声に、周囲の者がわからずとも伝染するように微笑み、笑いだしたのはどれくらい経ってからだったろうか。
 この声が、北条方まで届いているだろうか。見上げた先には、星が眩いほど輝いていた。




BACK

お館様はあの人が演じてこそだとつくづく思います。
次にどなたかが演じるとして、その人を嫌だと言う気はなくても、やっぱり違和感はあるのだと思う。
どうしてもどうしても書きたくて、書いた武田軍の話でした。無双オンリー三十六計で配布したペーパーに載せてたものです。