記憶の中の雨を晴れの空にするために




 幸村がときどきどこを見ているかわからなくて不安になる。そういう時は大概、空からは雨が降り、どんよりとした雲が心まで覆うようで、たぶんきっと彼は、昔のことを思っているのだ。
 その目は確かに、今ではなくて過去を見つめている。
「痛むのか?」
 ふと、口に出して問うてしまった。
 問うてからしまった、と思った。
 その時幸村は、やはり雨の降る空を見つめていて、だがどこを見ているかわからないような顔をしていて、何でもいいから何かいい方法はないか、と思ったのだ。自分の方を向かせる、いい方法は、と。
「…いえ」
「…そ、そうか。その、すまん。少し…堪えているように見えたのだ」
 狼狽する自分の感情を隠すつもりで扇で口許を隠して、それでも幸村の「なぜです?」と言わんばかりの目に嘘がつけずについそのまま、思ったことを口に出して、出方を待つ。とんだ下策だ、と思いながら。
「…少し昔のことを思い出していただけなのです」
 幸村は困ったように少しだけ笑って、それからやはり少しだけ表情を険しくした。きっとその心の中では、これではいけない、とかそんなことを思っているのだ。自分に厳しい彼のこと、三成にそうして指摘された事は彼にとっていっそ青天の霹靂で、そんな不安を煽るような表情をしていたのか、少し気を引き締めなければ、なんて、きっとそう考えているに違いない。
 そこまでわかるのだけれど、三成には幸村をどう心配すべきかわからない。正しい心配の仕方が、どうしてもわからない。焦るばかりでいつも失敗する。
 面と向かって何かあったのなら話せ、なんて言うこともできず、彼が自ら口を開くのを待って、でももちろんそんな時は訪れず。三成が勝手に一人で焦れて焦れて、ついうっかり、それこそ我慢が出来なくなって無意識に言葉があふれてくるほどに。
「……きっとあまりいい思い出ではない、と思っているからそんな顔になるのです」
 幸村は言葉を選んで、そう言った。
 きっと彼なりにかなり考えて言葉を選んだのだろう。三成は実のところ左近や兼続たちから無理に話を聞き出していて、少しは知っているのだ。過去、何があったのか。それに秀吉からも、信長の逸話としてその時のことは聞いていた。
 いっそ小気味いいほどに、戦国最強と謳われた武田騎馬隊は倒れた。信長の策は大当たりで、それを見て笑う信長は本当に凄かったのだ、と。
 秀吉はその時のことを、一種憧憬の形として思い出す。
 そして同時に、畏敬の念すら抱きながら。
 その時の凄惨な戦場の様子。一方的な戦い。命のやり取りが遠い。ここから、戦は変わる。この乱世の時代が大きく変わるだろう、と。秀吉がそう思ったという戦。
 ならばそれを、敗北側として味わった幸村はどんな気持ちで今、自分の前にいるのだろう。
 言葉を選んだのは一体どんな理由だろう。
 知りたいと思ったけれど、やはりうまく言葉にはできない。三成にとっては、幸村は親しい友人だ。それ以上に気になる相手でもある。何人もに幸村の話を聞いて歩きながら、近しい者たちには何度も指摘された。
 それは、本当に友情だけの感情なのか?と。
 確かに気にしすぎている気はしている。言われる通り、あるいはそれを恋とかそう呼ぶかもしれない。
 だが、恋とかそんな単語も感情も、今までの自分には面白いほど縁遠い話で、実感はわかないまま。
「…雨は辛いか」
「……はは、なんといいますか…少し、気が滅入りますね」
「…そうか」
 左近や兼続たちにあれこれ聞いて、秀吉から聞いた長篠の話を、気がつけば幸村の視点でばかり考えて、胸を痛めて、でも彼が何も言わないで、ただ今を見ていないことだけがわかる様子でじっとしているのを見て、もやもやして。
 相談してほしい?それも少し違う気がする。どうせ何も出来やしない。笑ってほしい?なら今こうして困ったように笑っているけどそうじゃない。
 過去を知る兼続や左近を羨ましく思ったり、そんなこと関係ないと思ったり。
 過去はしょせん過去だ。変えられるものではない。今更彼らと幸村の繋がりを羨ましく感じたところで取り返せるものではない。
 変えられる、ものではない。
 なら一体何を変えられるだろう。どうしたら、彼がそんな風に、昔を思って何かに堪えるような眼差しを浮かべなくなるだろう。
 考えて、ふと空を見上げた。雨は止む気配はない。三成は、唐突にらしくもなく、庭へ飛び出した。途端、雨粒が一斉にその身体を濡らす。なかなかに酷い雨だった。一瞬の後悔はあったが、今更それをどうこういっても始まらない。
 その後悔の気持ちを切り替えて――いや、自棄になりながらうっすら笑って幸村を見る。
「み、三成殿!?」
「俺は雨は好きだ」
「…そ、そんなことより、濡れ…」
「恵みの雨だ、無論、過ぎれば決して好きとばかり言ってもいられん」
 何を言っているのかよくわからないながらに、三成は饒舌だった。幸村もやや呆然としている。
「だが雨が降れば、作物は育つ。太陽の光も必要だが、雨も必要なものだ」
「…三成殿?」
「…だから。そんな風に雨ばかり睨むな、と…」
 三成の言葉に、幸村は少しばかり驚いた様子で――いや、もともと驚いていたか。唐突に庭へ飛び出すなんてこと、そうそう三成はしない。普段はどちらかといえば屋内にこもっていたいと口にするのは三成で、雨の日ときたらそれこそいい口実が出来たとばかりに外へ出ない。
 誰かが羽目を外せば真っ先に冷たい眼差しを向ける。それが三成だ。自分でもそう思う。だからこそ、幸村の驚いた様子はふと笑ってしまいたいくらい、珍しい表情だった。
「…そうですね」
 だが、三成の言葉は幸村の心に多少なりとも響いたのか、幸村は少し苦笑して頷く。
「三成殿が、雨のあと必ず周辺の村などを確認されると聞いています」
「………」
 唐突に何を言い出すのかと思えば、一体誰から聞いたのか。
 兼続だろうか。それとも左近だろうか。それとも、もっと別の。
「堤など危ないところがあれば修復するようすぐに手配をする、と」
「……」
「そうですね、対処さえできていれば、雨は確かに恵みをもたらしてくれる…三成殿の言うこと、とてもわかります」
「……そ、そうか」
 雨にぬれたまま、三成はさてどうしようか、と考える。
 勢いあまって飛び出して、こんなこと言いだして、しかも予想よりあっさりと幸村はそれを認めてくれて、だが。
 認めてくれた事が、すなわち彼の中の雨の記憶を拭えたのか、と言えばきっと違う。
「…ですが三成殿、とにかく戻ってきませんか?裸足ですし」
 酷くまっとうな言葉に、三成は睨むように幸村を見つめた。
「……幸村」
「は、はい」
 名を呼び、手を伸ばす。おまえも来い、とばかりのその手に、幸村は困惑している。雨足はなかなか強い。その中、こうして飛び出すのはやはり躊躇われるだろう。ただでさえ、特に必要があってやっているわけではないのだから。どちらかといえば、幸村にはこの行為は奇行に見えているはずなのだ。
――だが。
 奇行、それで十分だ。
 何がしたくてそんなことをしたのか?と問われれば、たぶん、今ならわかる。雨に濡れて、冷えてきた頭ではっきりと理解する。
(ああ、俺は…)
 幸村の、雨の記憶を塗り替えたいのだ。
 過去ばかりを見るな。辛い思い出しかないのなら、そんなものは上書きしてしまえばいい。新しい記憶を、楽しい記憶を。
 だから、手を伸ばす。
「来い、幸村」
 精一杯の優しい声。自分自身ですらそう思う。いっそ言ってから恥ずかしくなるような、そんな声で。だけど内心は酷く緊張してたまらない。だからどうか。この奇行に、その意味に、気づかずとも乗ってくれ。
 こんなこと、幸村が好きだからやっているのだからこそ。
 強引な誘いに、幸村が、おずおずと手を伸ばしたのを見て、三成は息を呑んでその手をとった。どこにそんな度胸があったものか。一体本当に何がこんなに自分を動かすのか。この感情はこんなに、人のを動かす力があるのか。
 ただただ驚きながら、三成は幸村を引っ張り、雨の中、未必の故意を装って抱きしめた。



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「こっち見ろ」ってことですね。